七夕行事と七夕伝説
「 中国七夕の日本における受容」『JOURNAL OF EAST ASIAN IDENTITIES』Vol.1 2016.3 台湾淡江大学文学院教授 殷善培共著 を要約

1.古代中国における七夕行事と伝説
 中国では紀元前4世紀の『詩経』に牽牛織女星の名前が見える。その後、漢の『史記』「天官書」や後漢の班孟堅の「西都賦」にも牽牛織女の名前が見えている。『文選』の古詩一九首の中には「迢迢牽牛星,皎皎河漢女」とあり、確実に現代と同じ天の川をはさんで牽牛織女が出会う聚会説話を基本としている。従って後漢頃には牽牛織女聚会説話は確実に成立していたと見てよい。
 そうした中で、梁宗懍著の『荊楚素歳時記』では明確に「七月七日、爲牽牛・織女聚曾之夜。」とあり、梁時代にはそれが7月7日であったことが明確となる。
 小南一郎は、七夕聚会伝説の成立には西王母と東王公の男女二神の逢会信仰があって、道教の影響もあって牽牛織女逢会が七月七日となっていったのではないかと推論している。
 この『荊楚素歳時記』にはもう一つ重要な行事が記載されている。「乞巧奠」行事である。婦女子が裁縫上達を織女星に願う行事であるが、これが日本に入って現代の七夕行事につながっている。

2.日本への伝播と行事の展開
 中国古代において発生、成立した牽牛織女の聚会伝説と『乞巧奠』行事がいつ頃日本に入ったかは厳密には不明である。推古天皇時代の遣隋使や舒明天皇時代の遣唐使によってもたらされたということは十分に考えられるが、まだ『日本書紀』などには明確な記述はない。
 『万葉集』には天武9年と考えられる「庚申年」に詠まれたとする人麻呂歌集歌に「天漢 安川原」と歌詞にある歌があるが(巻10・2033)、難訓であもあり詳しいことはわからない。
 『日本書紀』には持統朝から7月7日に行事のあることが記載されているが「相撲節会」とあるだけで、七夕行事である確証はない。
 『続日本紀』天平六年の七月七日の記事には聖武天皇が相撲節会の後に、七夕詩を作らせたとあるので、この頃には七夕の詩文が作られていたことがわかる。
 『万葉集』にも「七夕歌」が多数載せられており、これらのものは天平期の歌が中心であると思われるので、歌もこの記事と年代的に呼応する。
 ここで注意するべきことは、「タナバタ」の訓である。和語としての「タナバタ」は記紀歌謡に見えている。この歌謡は中国からの七夕行事以前からあるものととらえられるものであり、中国の牽牛織女の語が入る以前から存在していたことがわかる。
 この「タナバタ」は機織り娘を指すものであり、「タナバタツメ」として表現されている。『万葉集』にも一字一音仮名で「タナバタツメ」とあり、織女のことを指している。しかし『万葉集』の題詞にある「七夕」表記は歌語表記では「ナヌカノヨ」「ナナヨ」と訓まれており、「タナバタ」と訓めるものはない。従って題詞の「七夕」は「シチセキ」「ナヌカノヨ」と訓まなければならない。これを「タナバタ」と訓むようになったのは、平安中期のことである。
 平安時代になって「相撲節会」は廃れ、「乞巧奠」行事に変わって行く。そしてこの宮廷行事は武家政権にも受け継がれ、江戸幕府も「乞巧奠」を行っている記録がある。
しかし庶民が行うようになったのは、江戸時代後期の天保頃の江戸や上方であり、笹の葉に七夕飾りを付け、短冊に願い事を書くという風習が生まれることとなった。また各地方にあっては七夕行事とすると幕府が許可するので、七夕行事に結びつけられたものが多い。

3.最後に
 「笹の葉サ~ラサラ」の歌に代表される現代の七夕飾りは江戸時代の終わり頃からの風習であることがわかる。しかしここにつける五色の短冊は遠く中国の「乞巧奠」の風習に根ざしている。さらに中国から入った牽牛織女聚会説話は、古来のタナバタツメと習合して、各地で様々な伝説を生み今に至っている。
7月7日は旧暦であるので、今の8月下旬である。もう秋の風が吹いてくる頃である。秋の情緒の中で天の川に相対峙する牽牛織女星を眺めるのも一つの風趣であろう。