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あとがき
 
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戦後は戦災による民衆の傷痕はひどく、原爆の悲惨さは今でも大きく引きずっている。
食糧難は続き、多くの者が餓死した。
経済上は、インフレによる新円への切り換えで世の中がますます混乱していた。

沖縄平和祈念館

 その後、昭和二十一年二月、私はマッカーサーの命令により再び乗船を命ぜられる。そして今度は米国船に乗って、激戦地であった沖縄やサイパンに行き、日本人兵隊の海外引き上げに従事する。

  私たちは内地人米船乗り組み船員としては初めて、激戦地、玉砕の島沖縄の那覇港に入港した。

港では大勢の日本軍捕虜PW達が港湾労働者として、船の荷役作業をしていた。
  彼らは私たちを「中国人」と思っていたらしく、気にもせずに仕事をしていた。
しかし、私たちが話す「日本語」を聞くと、それは驚いたのなんの、目を真ん丸く見開いたまま、ただ呆然と私たちを見ていた。
するとそのうちの一人が大きな声で、

「日本人か?」と聞く。
「そうだ」と答えると
「日本はあるのか?」と再び聞く。
その内、あっちこっちの人から、
「俺の北海道はソ連か?」
「九州は中国か?イギリスか?」
「四国はどこの国か?」
「日本はどうなっているのか?」と矢継ぎ早の質問攻めにあい、こちらも困ってしまった。

「日本は日本の国だから心配ないから、安心しなよ」と言うと、
「そうか、そうか」と力の入った言葉が返る。
「どこから来たのか?横浜から来たのか?」と聞くので
「そうだ」と答えると、
涙を流し男泣きに泣く者、気が狂ったように万歳する者と、岸壁は感激と喜びと涙で沸きに沸いた。

他にも色々内地の事などを聞きたいらしく、
「東京は今どうなってる?」
「横浜は?」と次々に質問してきたが、小銃を持った黒人の監視の兵隊に、
「ハーバ、ハーバ」と追い立てられてしまい、それ以上は答えられなかった。

しかし、内地から日本船員が来た事、日本が無事に在る事の伝聞はすぐに次々と島内に伝わった。
そして、夢も希望も失った絶望的な病院の傷病兵から米国施設で働く日本軍捕虜PW達に至るまでにも、喜びと勇気を与えた。
私たちは彼らに多くの希望をもたらしたらしい。

  後で聞いた話では、戦時中、沖縄は黒山の艦船に取り囲まれ、守備隊が一発の弾を撃つと千発の砲弾が撃ち込まれる程の激戦であったらしい。
山の形が変わるぐらいの悲惨極まりない状況だったらしい。
十万だった守備隊が一万しか残らない悲惨な戦争だったらしい。
民間人も混ぜたらもの凄い犠牲者らしい。
そのため、本土も空爆と艦砲、さらに原子爆弾でやられて日本の国は戦争に負け、各国に取られたと思っていたらしい。
今でも山奥で戦っている兵士が居るらしい。

 仕事が済むと通訳とMPが来て、全員を集め、「無駄な話や、かくまったりしたら銃殺する」と言ってきた。
食糧の遅配などで、東京は餓死者が多数という状況下で私たちは米軍の余剰食糧を米兵の監視の中、四千トン積んで横浜に帰り、陸揚げした。


                                                                                                                     おわり





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