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第9章 機雷爆発
 
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次の日朝早く錨を上げて、港と言ってもほとんど川であるが、そこを静かに下り沖に出た。
危険と言っても日本海である。見張りも人数が少なく、緊張感のないものであった。
昼間走り続け、若狭湾に進路を取り、今日は早いが四時ごろ福井県の敦賀港に入港した。
湾の周りは山々に囲まれていた。
  直ぐボートを下ろして港の倉庫に魚や鯨肉などの食糧を取りに出かけた。
ちょうど倉庫に係りの者がいなかったので、これ幸いと町をぶらぶら歩いた。思ったより大きな港町であった。
  やはり昼間から行く所は遊郭である。冷やかして歩いて行くと、
「兵隊さん。遊んで行って」とか、
「今晩待っているからね」などと女が騒いでいた。
さすが大陸との貿易港である。大きい女郎屋がたくさんあった。
北陸の大きな町といった所である。船や漁船が結構入っていた。
  倉庫に戻り、マグロや野菜など色々の配給を受け取ってからボートを漕いで船に帰って行った。

爆撃機

 

その晩、B29爆撃機が来襲、北陸にとっては初めて機雷をばらまかれた。再び完全に港を封鎖されてしまった。
掃海艇は舞鶴軍港から来て掃海するので、港を出るのは、かなり時間がかかりそうだ。
  次の日から二、三艘の掃海艇が行ったり来たりと忙しそうに掃海していた。
「ボーンボーン」と爆発を繰り返していた。
  近い所で機雷が爆発すると、潮の流れに流されて船の周りに鯛やひらめなど色々の大きな魚が口をパクパクさせ浮かんできた。
腹綿が飛び出ている魚が流れてきたりと、死の一歩手前である。
  これチャンスとばかりボートを漕ぎ出した。航海士が双眼鏡で魚を見つけて合図をすると、それに向かって漕ぐ人、ザルですくう人とそれぞれ必死になって魚を一杯取った。
「わあ、わあ。きゃあ、きゃあ」と子供に返ったようにはしゃぎまわった。
「アメリカからのお土産だ」など冗談を言って、刺身や吸い物にして腹いっぱい食べた。
  入梅なのでぐずついた不安定な天気が続く。
小雨の日が多い。雨の日は空襲も無いので町は静かであった。
海は水が綺麗で透き通るような青々としていた。
  港の岸壁には大勢の連合軍捕虜達が積み下ろしの荷役作業をしていた。
舞鶴から来た二艘の掃海艇は相変わらず、鉄の浮きやタンクを長く曳き、時々凄い音を立てて機雷を爆発させていた。
  何も知らない朝鮮の方からの船は、掃海の終わらないうちに次々と入港して来る。危険である。

特攻 

もう、一週間も待っている。
六月二十九日。思い返すとちょうど昨年の今日電報が来たのである。
「生きて帰れるか、死んで靖国神社に祭られるか」と寂しく故郷を離れてきたのである。家族に見送られ、別れて一年経った。
何とか幸運に恵まれ生き延びている。
今日は新潟に向け出港するらしい。何しろ出ないことには、何時また今晩にも大型爆撃機で機雷をばらまかれるかもしれない。
二時ごろ、次々と錨を巻き上げ出港した。錨も上げ終わり、船は速力を出し何事も無く走り続ける。
「もう、大丈夫」と仕事も済んだので、安心して風呂にでも入ろうと裸になりかけた。
すると甲板長が、
「まだ港を出たわけでわない。風呂は早い」と注意された。
「何を言うか。仕事は終わったんだ。死のうが生きようが俺の勝手だろう」と思った瞬間、
「ドドーン!」と凄いショックを受け、持ち上げられる感じがした。
「やられた!」と裸で外に飛び出した。
船橋で船長が何か怒鳴るというか、大きな声で、
「焦るな!落ち着けー。船は沈まない」とか言っているようであった。
直ぐ部屋に帰り、夢中で、上陸する時の一張羅を着て荷物を持ち甲板に出ようとした時、
「何しているー。船は沈まない。錨を下ろすから船首に来い」と言われる。
「ほらボートを下ろせ」
そのうち錨をガタガタ下りる。
海軍の兵隊を乗せた曳き船が横付けにされ、海軍の泊地応急隊が乗り込んできた。
船を陸に上げるとの事である。直ぐ錨のチエーンを切る道具をだす。
夢中で錨の継ぎ目から鎖を切り、浮きをつけて海に捨てる。
本船は曳き船に曳かれて陸に向かっていく。
何が何だか夢中で解らない。どんどん陸に近づいて行く。
気が付くと海岸で小学校の生徒達が見ており、
「ガンバレーガンバレー」と声を掛けているのが聞こえた。
間もなく船は、
「ドドドドー」と砂浜に乗り上げられた。
ホッとして後ろを見ると、船は後ろ甲板まで沈み哀れな姿になっていた。
船室は寝台まで海水に浸かっている。
吃驚するやら、ショックを受けるやらである。
「まあ、不幸中の幸いである。どうにか沈むのは免れたのだから犠牲者は少なくて済んだ事だろう」と思いながら、上甲板に出て顔が引きつってしまった。考えが甘かった。
煤だらけの機関員達が、苦しそうに唸る者、顔から血を流しわめく者、うずくまり泣く者と悲惨な状態であった。
一緒に見習いで入った小さい藤村も傷を負っていた。なんとも,やりきれない気持ちである。
曳き船は仕事が済むと、怪我人を乗せ敦賀の港に急いで帰る。
ボート二艘には本船が沈むと思ったらしく十三ミリ機関砲をばらし、必死に積んだらしい機銃がたくさんあった。

運の良い相州丸。困難を乗り越えてここまで無事に航海してきた相州丸。危険を紙一重にかわし、魚雷など受け付けなかった幸運の相州丸。
何もかも信じ切っていた私の船、相州丸。
まさか機雷なんかで沈むなんて信じられない。
しかし目の前には哀れになった相州丸があるのである。
不幸中の幸いで、機雷が離れて爆発したので普通より被害が少なくて済んだ。
まともに受けて爆発していたら船は沈み、おそらく半数以上の死人が出たであろう。
犠牲者が少くなかったのは本当に有り難いことである。どうにか助かったのだ。
安心して食堂に帰った。
食堂は食器や棚から落ちたもので滅茶苦茶である。足の踏み場も無いほど散乱している。
部屋もゴミ箱のような有様であったが、何とか寝れるようにだけは簡単に片付けた。乾パン食べて寝た。
電気も付かない。蒸気もないから風呂も沸かす事も出来ない。不自由な暮らしになる。

次の日から一時、陸のお寺を借りる事になる。鍋や釜、食器類を移し、賄い部は全員陸に移る事になる。そして食事はお寺の本堂ですることになる。
朝、昼、晩、伝馬船を漕いて陸に上がり、飯を食べに通うわけである。
朝起き、村の道を通ると田んぼには田植えされた稲の苗が青々と茂っていた。懐かしい感じである。
お寺も田舎のお寺と同じ位の広さで、故郷を思い出し恋しくなる。
いつもの狭い船の食堂から、久しぶりの大きな本堂での食事は何か変わった感じで美味しく感じた。
飯を食べ終わると船に帰り、片付けをしたり、点検をしたりと作業をする。

驚く事が沢山合った。太くて新しいロープが機雷のショックで何本も切れていたり、リベット鋲やボルトやナットまでが見事に折れてしまっていた。
船尾後ろの方はかなりのショックを受けていたらしい。
片づけが済むと後は仕事もないのでブララブらしている。機関の連中は船が沈んでいるので仕事はなかった。
本も無いしラジオも無いのでごろごろするだけの生活が続く。
風呂も無いので、農家に行って入らせてもらう。
その家に娘がいようものなら、直ぐ情報が飛びかい、噂が広まり風呂もらいが楽しみになるようだ。 
この頃から食糧も悪くなり。米も配給が無くなり毎日麦だけである。味噌も少なく塩汁が多くなる。
買出しに行く有様で賄い長も大変である。 

雨が降り続け、空襲もなく静かであった。
時々、牛を飼っているおじさんの家に行って牛乳を分けてもらって飲んだ。
しかし、何時の間にか皆んなに広まってしまい行く度に値が上がり、後のしまいには「米と交換だ」と、まで言いだした。
海岸では漁師が地引き網を大勢集まって引いていた。よく手伝いに行って、小さいアジや鯛の小魚や雑魚を分けてもらい、薄い味噌汁で食べた。
今日は遭難した位置測定のためボートを漕いで行った。海図を出し六分儀で測り、捨てた錨の位置などを確認して帰る。
海は青々としており、周りの山々も美しく、気持ちが良くボートを漕いで腹を減らし帰る。

二、三日過ぎた頃、海軍の一等兵の八代さんが見つかったとの連絡があり、兵隊達が敦賀に行くとでかけて行った。
午後から、
「おまえが行け」と言われ、一度帰った兵隊と敦賀に向かった。
北は長岡から南は舞鶴の方まで続いているらしい北陸道の、曲がりくねる海岸道やトンネルを潜り、峠を越えて歩き続ける。何と遠いこと遠いこと。
行き帰りに半日も掛かる。海岸の曲がりくねる道が直線だと案外近いのだが、湾岸を通るので大変である。

敦賀のお寺の隅のほうで身内も無く、兵隊五、六人の寂しいお通夜であった。物不足なので仏壇に上げる物も無い、形だけのものであった。
知らなかったが兵隊の話では、八代さんは機雷を受けた時、ボート甲板からボーイ見習と二人で海に飛ばされたらしい。
不運にも八代さんは金づちだった。ぜんぜん泳げなくてもがいていたらしい。
もう1人のボーイ見習は漁師の息子らしく泳ぎは得意だったそうだ。
助ける暇も無く八代さんは沈んでしまったらしい。
子供もいるのに気の毒である。
そう心の中で思いながらも、毎日機雷や空襲で人が死んでいるので何とも無関心になっているのは事実である。
人の死も平気になって、涙が出るほど悲しいと感じなくなってしまった。
八代さんは手のつけられないほどひどい状態だったらしい。
水を飲んでブヨブヨに膨れ上がり、棺桶に入れるのに大変苦労したそうだ。
形式だけのお通夜は簡単に終り、再び山道を帰って行く。

次の朝、食事に行くと内海の同期生の七つ役がお寺の新聞を振りかざし、
「甲板長、大変だ、大変だー。釜石が艦砲射撃を受けました。製鉄所に被害甚大らしいですよ」と騒いでいる。
甲板長と七つ役は岩手県生まれである。
「俺の方は、山奥で大丈夫だが、甲板長の方は全滅。大変な事になりました」
「諦めた方が良いみたいですよ」と深刻に言う。
日立もやられているらしい。 じわじわと敵は本土に近づいてきているようだ。
東京や大阪も空襲で焼けたらしいが、どうなっているのか解らない。

一週間も過ぎた頃、敦賀から通い船が来て色々の荷物やポンプを積んできた。だるま船が横付けされ、何か不思議に思っていたら、
「明日から船を引き揚げる作業をする」との話しである。
甲板員は、潜水夫のためのポンプ押し作業の手伝いに掛かるとの事である。係りの大尉が指導にあたるそうだ。

次の日から大工さん二人と潜水夫二人と大尉、そして潜水夫の命綱を操ったりホースを誘導したりする助手の二人が来て作業に掛かる。
だるま船に梯子を架け潜水夫が上がり下がり出来るようにしたりと準備に掛かる。
いよいよ仕事開始である。潜水夫は寒くないように純毛の下着を着てからゴムの大きな服を着て、鉄の靴を履く。
次にホースが付きの外が見えるようなガラス張りになっている鉄と真鍮で出来たロボットの頭のような物を被り、首から胸のあたりの所でネジを閉める。
急いでポンプを押し空気を送る。
空気が漏れないように再度ネジを完全に閉めるべくする。
おもりとして鉛の塊を背負う。
梯子から海にゴム風船のように膨らんだ潜水夫が泡を出して沈んで行く。
潜りの助手はホースを送ったり引っ張ったりする。
私達は交代でポンプを押し続ける。
潜水夫は点検しては、木型や木栓など色々の物を大工さんに注文して作らせる。そして次々と取りに来ては沈み、二時間ぐらいで交替する。長く海に潜っていると、身体が冷え切ってしまうからである。
鉄板の継ぎ目には接着剤を詰めたり、大きな穴には毛布のような物を接着剤と混ぜて詰め込むらしい。
空気の調整で浮いたり、沈んだりの作業は大変らしい。
もちろんポンプ押しも、命が掛かっているから、休んだり人を当てにして怠けるわけには行かない。神経をつかう。
このような作業が続けられ一週間で終わる。
今度は二、三日過ぎた頃、ポンプを積んだ船が来て大きなホースをハッチから船倉に入れる。
大きなディーゼルェンジンが凄い音を出し動き出し排水を始める。
排水が進むにつれ船が持ち上がるように、少しずつ浮き上がってきた。
浮き上がり始めると、どんどんと見る見るうちに、二時間ぐらいで完全に元通りになった。 
沈んでいた半分は青海苔や海草でぬるぬるしていた。

次の日から機関部の連中は機関室の掃除や片付けで忙しくなる。
甲板部は潜水夫の応急処置で塞いだ修理箇所からじわじわ入る海水の排水汲み上げ作業が仕事となる。
消防士が火事の時火を消すように、手押しポンプを、
「ガチャコン、ガチャコン」と押して浸透してくる海水を汲み上げて海に捨てるのである。
やっと船が浮いた晩十時頃、空襲警報が鳴りB29の爆音が聞こえたと思ったら、敦賀の方に火が上がり夕焼けのように真っ赤になった。
半鐘とサイレンが鳴り響き、そのうち全体が昼間のように眩しいぐらいに明るくなる。  不気味で恐ろしく震いあがる。
敵の大型飛行機は次から次と町の外から中心に向かって焼夷弾や爆弾をばら撒く、町全体が火の海と化し、手のうちようも無い。ただ燃えるに任せるだけである。
逃げる暇も無かったのではないだろうか?
大砲の音もしない。こちらから攻撃も何もしないので悔しい。
敦賀は凄い被害だろう。
きっと大勢の人が焼け死んでいるだろう。
私達には何も出来ない。ただ被害が少ない事を祈るだけである。
するとその時、船の周りが急に明るくなった。
思う間もなく、バラバラと雨のように何かが落ちて来て海に沈む音がする。
「学校が燃えている」と、誰かが陸を指さす。
学校ばかり出なく、あちらこちらから火が吹きだしはじめた。
海岸の漁師の小屋や畑が火の海になっている。
船の周りの海からも、火が上がりだした。危ない。
どこに逃げたら良いのか迷ってしまう。
「海で良かった」と思う。

二時頃か、三時頃になってようやく敵機の爆音が聞こえなくなった。
とうやら敵は去ったようだ。
まだ敦賀の町全体が真っ赤に燃えていた。
船に落ちなかったのは不幸中の幸いである。
焼ける町をいつまでも眺めていても仕方が無いので寝ることにする。
可哀想だが戦争なのだから仕方が無い。いちいち気にしていたら大変である。 何も気にしないのが一番良いのかも。
これが戦争と言う者だから。普通の神経では考えられない事なのだから。

朝起きると、学校は燃え尽き煙が出ていた。
何時ものように飯を食べに伝馬船を漕ぎ、陸に上がりお寺まで歩いて行く。いつもと町の様子が違っていた。
途中の畑や道には不発の、潰れた茶壷のような小型焼夷弾や爆弾の形をした焼夷弾が一杯落ちていた。
みんな破けて中からゼリーのような物が流れ出ていた。
「この中のどろどろした物が揮発性で燃えるんだと」兵隊が話ていた。

敦賀空襲

お寺で麦だけの飯と塩汁を食べ、船に戻ろうと道に出ると、兵隊が信管を取り除く作業をしているらしく道の横に集まっていた。
どこもかしこも大変な状況である。
たった一晩で敦賀市は全滅である。
「いつになったら反撃に出るのかやられっぱなしで悔しくないのか? 軍は何を考えているのか?」私達には疑問だらけである。
「機関部の方から、敦賀に行って見ようと」と声が掛かり、帆を張ったボートに大勢で乗り込み出かけた。
遊びに行く感じで、青々とした海の中を風任せでのんびり漂う。
途中、海にキラキラする変な物をたくさん見かけた。落下傘の部品か、電波除けか、解らないが危ないから避けてとおった。
岬をすぎ、二時間ぐらいで到着する。
町に近づくにしたがって、燃えた後のきな臭い匂いがしてきた。
海から見ると波止場あたりと倉庫がそのまま残っていたが、上陸して見て吃驚する。
なんと見渡す限り瓦礫の山である。
有名な神社は鳥居だけが残っただけで、森の杉や松の木まで燃えて無残な姿である。御利益もなく神も仏も哀れである。
怪我をしている人たち、火傷している子供達と次から次に担架に乗せられて兵隊に運ばれていた。
可哀想で見ていられない。余りにも無残すぎる。私達は何も出来ない。何もして上げられない。
気の毒すぎていたたまれず、
「直ぐ帰ろう」と言うことになる。
遠くまで見渡しても、辺り一面道だけが残っていると言う悲惨な状態である。
「悔しい,悔しい」と、心の中で何度も叫ぶ。
岸壁では捕虜達が仕事をしていた。
「きっと、奴らは笑っているだろう」 と思うと腹が立ってくる。
「殺してやりたい」と思う。

安田銀行

「誰かもし、女郎を買っていて、女郎と一緒に死んでいたら恥ずかしいだろうな」
「笑い者になるんじゃないか。一生のはじだなあ」
「死んでも浮かばれ無いぞ」
「でも可哀想に。彼女達も死んでしまったのか」
「東京も大阪も空襲でやられているのだろうな。家も焼けてしまっているのかなあ。心配だなあ」とか話ながらまた船に帰って来た。

次の日から天候が悪化した。小さい台風が来たらしい。
波が荒くて百メートルしか離れていないのに陸に行けない。危険なので伝馬船もボートも出せないので飯を食べにいけない。腹が減っているので、みんな寝たり起きたり、ゴロゴロしている。
元気なく海を眺め,早く凪になるのを待つ。
三時頃少し波が静かになったような感じである。
腹が減って腹が減って、次の朝まで何も食べずに我慢するなんてとても出来そうに無い。
機関部が食べに行ったらしいと聞いて、甲板部でも船を出す事にする。
物凄い波で、横波を受けないように必死で漕ぐなんとか波に乗り、追い風に押され海岸近くまで運んでもらう。
陸に近づいた時、船が木の葉のように丸められ、ひっくり返りそうになる。
「危ない!」一瞬冷汗が出たが何とかもちこたえた。
無事陸にたどり着き、お寺で飯を食べる。腹ぺこぺこだったので麦飯でも美味しく感じた。
「あー。腹いっぱいと」とやっと空腹を満たされて、ニコニコ顔で腹をさすっている。
この時ばかりは誰の顔も、戦争を忘れて幸せそうである。

帰りは機関部の連中と一緒になった。
大勢なのだから二回に分けて船を出せばよいのに、
「大丈夫。大丈夫。我は海の子、漁師の子。さあさ、乗れ乗れ、ドンと乗れ」と大勢が一つの船に乗る。
竿指して、波をまともに受けながら帰ろうとする。
陸と本船とのちょうど中間辺りに来た時、
「動くなー」
「横にするなー」と叫んでいたかと思う間もなく、大きな波を受ける。
「危ない!」
船がコロリトひっくり返る。全員が海に投げ出される。
「わーあー」とか
「アー」とか、あっちこっちから叫び声があがる。
私もあっという間に海の中に沈んだ。直ぐ、上にあがろうと必死にもがく。しかし、いくらもがいても上に人がつっかえていて上がれないのである。
息が苦しいのでジタバタ、ジタバタ、滅茶苦茶に暴れまくり、ようやく海から顔を出し空気を吸おうとした瞬間、再び渦巻く大きな波に巻き込まれる。
「ガッボーン!」
海水を思いっ切り飲む。
「アップ、アップ」
必死に犬掻きをする。
大波が来るたびに、水を飲む。
「助けてー!」声になっているんだか、いないんだか解らないが、必死に叫ぶ。
神頼みで、近くにいた機関員にしがみつこうとする。
しかし彼も、溺れかけている者に必死になって抱き掴まれては身動きがとれなくなってしまい、下手をすると道連れになってしまう危険性がある。
それが恐ろしいのであろう、これに掴まるようにと手拭を出してきた。
だが焦っている私は思うように、それを掴まえる事が出来ない。
あと一歩の所で手拭いを掴まえる事が出来ず、
「あっ、もう駄目」
水をさんざん飲んで、ふらふらになって沈んで行く。
すると足が付くではないか。 
大きな波に押され、押され、歩いて行くとやっと波間に顔が出て口から息が出来た。
「あー、助かったあ」
フラフラで海岸に上がり着いて,倒れ込む。
「あと一メートル陸が遠かったら完全にお陀仏だった。」

何とか、助かり、海の本当の恐ろしさを初めて知る。
泳ぐ自身の無い者はひっくり返った船に掴まっていればよいのだが、つい陸が近いので泳いでしまう。
私の場合は気が動転してしまい、掴まるとか泳ぐとか以前の問題であったが・・・・。

陸では、
「あっ、安藤が危ない」
「沈んだー、、浮いたー」と大騒ぎして見ていたらしい。
本船の方でもボートを出し,ひっくり返った船に掴まって泳いでいる連中を助けたらしい。
「水飲んだろうから寝ろ。腹を押してやるから」と言われ横になる。
押してみたが水は出なく、ただ震えていた。
再び、荒れる海の中ボートに乗って本船に返って行った。

船でもまた皆大騒ぎ。
「誰々も危なかった」とか、
「誰が俺の体に掴まり、俺もあぶなかった」とか、
「必死に助けてーと騒いでいた」とか、笑いながら、まねをする始末である。
「故郷の海はこんなもんじないよ」
「冬の海は吹雪で命がいくらあっても足りないぐらいだ」など戦争の話ばかりだった毎日から新しい話題に変わり、今日はとてもにぎやかである。
故郷の話にまで広がって、なかなか話が尽きない。

しかし私はと言えば、一歩間違えば溺れ死んでいたのである。
戦争で死んで靖国神社に祭られるなら本望であるが、溺れ死んだとあっては笑い者である。みんなの笑い話を聞いていても心が沈んできて、複雑な心境である。
半分くらい聞いて、先に寝た。
次の朝は風も収まり、静かで大きなうねりの海であった。
昨日が夢のような良い天気である
午前中は、日課のポンプ押しである。浸透してくる海水を外に汲み上げる作業である。
午後からは暑くなったので、皆んな喜んで泳いでいた。私も泳ぎの練習をする。今日は平泳ぎを習う。
毎日暑いので暇さえあればみんなで泳いだ。私も夢中で練習した。
練習が終わると陸まで泳いで行き、川で身体を洗ってから、お寺で食事をする。
そして帰りもまた泳いで船に帰る。

硫黄島

B29





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