絹本着色毛利敬親像


萩藩の第13代藩主毛利敬親(たかちか)の肖像画である。伝統的な束帯姿で描かれているが、容貌は写実的であることから、敬親の死後まもなく、写真などを参考に書かれたものと思われる。敬親は、文政2年(1819)11代藩主毛利斉元(なりもと)の長子として江戸麻布邸で生まれた。天保8年(1837)12代藩主毛利斉広(なりとう)が急死したことから、跡を継いで第13代藩主となった。
当時は藩財政が極度に逼迫する一方、迫り来る西洋列強に対抗して海防を充実させなくてはならない困難な時代であったため、敬親の初政は藩財政再建と軍備充実に費やされた。
嘉永6年(1853)に黒船が来航すると、萩藩も江戸湾の羽田(はねだ)、続いて相模(さがみ)の警備を命じられ、日米修好通商条約(安政条約)の締結をめぐっては、兵庫の警備を命じられている。このころから外様大名であっても幕政に意見を具申することが目立つようになり、敬親もまた永井雅楽(ながいうた)の献策に従い、積極的開国策である「航海遠略策」を幕府や朝廷に献策している。その後藩内で強硬な攘夷派が主流を占めるようになると、藩論を攘夷に転換させ、文久3年(1863)には他藩に先駆けて攘夷を決行し、孝明天皇から褒勅を与えられるなど、雄藩としての面目を施している。しかし、この動きに反発する幕府や薩摩藩によって御所から遠ざけられると、藩兵を上京させ退勢の挽回を図ったが、逆に禁門の変に敗れ、幕府から官位や一字を剥奪され、追討を受ける身となった。
その後敬親自身は萩で謹慎していたが、その間藩内では倒幕派が政権を握って幕府と対決、薩摩藩の支援もあり幕府軍を撃退すると、倒幕派の公家と結んで「討幕の密勅」を与えられた。この時は将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したため討幕は実現しなかったが、その後王政復古が実施されると、敬親の罪は払拭され、新政権への参加を求められた。病を得たため敬親は政権には参加せず、明治2年(1869)養子元徳(もとのり)に家督を譲り敬親は隠居し、明治4年(1871)53歳で没している。墓は香山墓所(山口市)にある。諡(おくりな)は忠正公(ちゅうせいこう)。