これは慶応3年(1867)10月14日付で長州藩主毛利敬親・定広(さだひろ:のちの元徳)父子に対して朝廷から出された、討幕を命じた内々の勅命である。
この勅命は勅としての書式としては異例のものであること、文面も通常の勅とは異なることなどから、現在では正式な手続を経て発行された勅命ではないと考えられている。一方、この日将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還したことから、この時は密勅を受けた薩摩・長州両藩による討幕は実現しなかった。しかし、こうした勅命を与えられたことは、この後両藩を中心とした討幕運動に際し、大きな根拠となったとされている。
この年12月には、それまで討伐の対象とされていた長州藩主の罪は許され、官位も復旧し、入京が許されるとともに、王政復古の大号令が発せられた。さらに勢いを増した急進派は、翌年正月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を打ち破ると、武力討幕の実現に向けて動き出すことになる。