毛利元就の肖像画である。元就の菩提寺洞春寺(とうしゅんじ)住持の嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)の求めにより、天正19年(1591)2月14日付で煕春龍喜(きしゅんりゅうき)が賛をしたためている。このことからこの画像は、吉田郡山城内から広島へ移転する洞春寺の什物として、元就の孫毛利輝元が描かせたものと考えられている。
元就の死後まもなく、元就の生前をよく知る人々によって製作されたと考えられるこの画像は、一代で毛利家を西国最大の戦国大名に飛躍させた老練な戦国武将である元就の風貌をよく伝えているとされる。
毛利元就は、明応6年(1497)に安芸国の国人領主毛利弘元の次男として生まれたが、兄や甥の早世によって、大永3年(1523)に家督を継承した。家督の継承直後、尼子氏を見限って大内氏の下に復帰すると、その後は大内方国人領主の主力として尼子氏の南下を遮り、大内氏による芸備地方の制圧に協力した。その功績によって大内氏から広島湾岸に所領を給与され、経済的な基盤を拡大させるだけでなく、近隣の中小国人領主を家中に取り込み、有力な国人領主とは同盟を結ぶなど、安芸・備後両国の国人領主層をまとめることに成功した。その後陶晴賢と対立したことから、大内氏の下を離脱して自立し、弘治元年(1555)には厳島の戦いで陶晴賢を破り、弘治3年には大内氏を滅ぼして、その旧領国を併合して戦国大名となった。その後永禄9年(1566)には尼子氏を降して、中国地方西部一帯を領有した。その後瀬戸内海の制海権や大陸への窓口であった港町博多の領有をめぐり、大友宗麟が中心となって毛利氏包囲網を形成したため、毛利氏が一時苦境に立たされていた元亀2年(1571)6月14日、郡山城で病没した。75歳。