毛利氏の祖は、源頼朝の側近として鎌倉幕府の基礎を固めた大江広元(おおえのひろもと)である。多大な功績によって広元が得た所領のうち、相模国(神奈川県)毛利荘(もうりのしょう)を受け継いだ四男季光(すえみつ)が毛利と名のり、毛利氏の歴史が始まる。
毛利荘を受け継いだ季光は、承久の乱の戦功などにより鎌倉幕府内での地位を高め、評定衆(ひょうじょうしゅう)として幕政にも参与した。しかし、妻の実家三浦泰村(みうらやすむら)と執権(しっけん)北条時頼とが争った宝治合戦(ほうじかっせん)が始まると、三浦方に味方して敗れてしまった。
毛利氏の名跡は、季光の四男経光(つねみつ)が引き継ぎ、経光は没収を免れた越後国(新潟県)佐橋荘(さばしのしょう)を拠点とした。経光の四男時親(ときちか)は北条得宗家との縁を強くしたことから、六波羅評定衆にまで出世し、毛利氏の再興に成功した。これによって西国の情勢にも通じた時親は、南北朝内乱を契機に所領安芸国(広島県)吉田荘(よしだのしょう)への移住を敢行する。時に安芸国では観応の擾乱の余波を受け足利尊氏・直冬両勢力が激しく対立しており、毛利氏も一族が分裂して相争ったが、時親の曾孫元春(もとはる)が一族を糾合して吉田盆地一帯に勢力を拡大し、安芸毛利氏の礎を築いた。
室町後期の安芸国は、東の室町幕府勢力(管領細川氏やそれと与した尼子(あまご)氏)と西の守護大名大内氏との対立の場となり、毛利氏をはじめとする国人領主(こくじんりょうしゅ)は両勢力の間で翻弄されていた。大永3年(1523)27才で家督を継承した
毛利元就(もうりもとなり)は、戦乱のさなかに国人領主連合の盟主となり、
陶晴賢(すえはるかた)による大内義隆(おおうちよしたか)殺害やその後の混乱に乗じて大内氏から自立、大内氏を滅ぼしてその所領を加えて戦国大名となった。その後出雲国(島根県)の尼子氏を降し、西国最大の戦国大名となったが、元就の死後元就の孫の
輝元(てるもと)は、
勢力を拡大しつつあった織田信長と争い、信長の死後その家臣であった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に従った。秀吉の下で毛利氏は、徳川家康と並ぶ大大名として秀吉の厚遇を得、秀吉死後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家とともに家康打倒を目指す西軍の総大将となった。しかしその戦いは敗北に終わり、領国を周防・長門(山口県)2国に減じられてしまった。
防長に移動した毛利輝元は長門国(山口県)阿武郡萩の指月山(しづきやま)に居城を構え、この地が江戸時代における毛利氏の拠点となった。輝元の跡を継いだ長男秀就(ひでなり)は、徳川家康の孫娘を正室に迎えて松平姓を与えられるなど、徳川氏との関係修復に成功した。その跡を継いで2代藩主となった綱広(つなひろ)のころには藩の諸体制もほぼ固まり、毛利氏は長門・周防2か国36万9,000余石を領有する西国の大藩・萩(長州)藩の藩主として江戸時代260年を過ごしたのである。
嘉永6年(1853)における黒船来航は、江戸幕府の諸体制に少なからぬ動揺をもたらした。この事件を契機として、外様大名であった長州藩も各種の献策などによって中央政界の動向に関与するようになる。文久元年(1861)に藩主
毛利敬親(もうりたかちか)が藩士長井雅楽(ながいうた)の献策を容れて朝廷に奏上した航海遠略策などは、その最たる事例である。しかし開国による国内の混乱が深まると強硬な攘夷論に転換し、文久3年(1864)の8月18日の政変や、翌元治元年(1865)の蛤御門の変(禁門の変)によって、幕府や会津藩など幕府を支持する諸勢力から排斥されるにいたった。その後幕府による2度の攻撃を切り抜けた長州藩は、倒幕に転じた薩摩藩と同盟を結び、岩倉具視ら倒幕急進派の公家たちと組んで
討幕の密勅を入手し、徳川幕府の打倒を図った。その後の戊辰戦争で倒幕を実現した長州藩は、その後の明治維新改革の中軸を担う人材を輩出し、敬親の跡を継いだ最後の藩主毛利元徳(もうりもとのり)も、新たに創設された華族制度の最高位である公爵の地位を授けられた。