少しは「韓国・朝鮮」のことも分かり、また中学生でも、おばさんでも分かる
《偏向マスコミと捏造「歴史教科書」に
よる「強 制 連 行」を 暴 く 》
(「強制連行」?の実態と「永住外国人参政権問題」)
第二部(第七項から第十五項まで⇒112P~223Pまで)
第七項 『李朝時代の大韓帝国の実態と朝鮮総督府の施策』 P112~
第八項『「強制連行説」の朴慶植と「韓国・朝鮮」人の根底にあるものは』P131~
第九項『「強制連行」の名のもとに、これまで国内・外での悪用の実態』P165~
第十項 『「強制連行」の虚構が及ぼす悪影響』 P172~
第十一項『これこそが真の「強制連行」』 P175~
第十二項『永住外国人参政権の獲得手段として使われる「強制連行」』P180~
第十三項『日本の朝鮮統治時代の歴史認識欠如の歴代首相』 P184~
第十四項『日本在留民「韓国・朝鮮」人の行動・ふるまい・態度』 P188~
第十五項『日本と「韓国・朝鮮」との戦後の問題』 P212~
〖第七項〗李朝時代の大韓帝国の実態と朝鮮総督府の施策
朝鮮では伝統的に、一般庶民が日常生活で着る服は白一色であり、宮中など特権階級を除いて、色物や柄物の衣服はほとんどなかった。そのため朝鮮民族は白衣民族と言われた。日本統治時代に色服が奨励され、洋服も普及してきたため、現在は色物や柄物の衣服は普通に存在する。(李朝時代の韓国ドラマの捏造が著しい)
http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/4596479e1def02a733f1cb62c761fcdb
※以前、朝鮮総督府時代に今の北朝鮮で穀物検査員をしていた隣に住んでいたオジサン(大正9年生まれ位)が、よく当時の話の中で飲みに行って自転車で帰る途中で、向こうの人(朝鮮人)を遠くから見た時、“皆な白い服を着ているのでオバケかと思って、ビックリすることが何度もあった”と話していた。
この方は終戦後にシベリアへ抑留されている。
戦後の韓国に外交官として駐在したことのあるアメリカの朝鮮史家グレゴリ-・ヘンダ-ソンは、李朝が近代と触れるようになる1860年前後の政治と社会に触れて次のように述べている。
「李朝は、もはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の機運に脅かされていた」
当時の大韓帝国(李朝時代)は、有史以来はじめて「帝国」(※1897年に朝鮮から大韓帝国に改めた)と名乗ったものの、「帝国」どころか国家の体さえなしていなく、国家財政は実質的に破産状態で、倒産寸前の会社のように、どこかの新興会社に買収してもらわなければ亡国の危機にあっていた状態であった。日本統治前の朝鮮↓
1895年 首都ソウル 南大門 ⇓
1888年 ソウル 南大門大通り ⇓
ソウル中心街 通りに面した藁葺きの建物は商店 ⇓
ソウル 東大門通り ⇓
まず近代国家としての財政制度や国家会計予算制度がない。歳入も歳出も、すべてどんぶり勘定で宮室と国家の財政を全く区別していなかった。
李朝の末期(※1800年の末頃以降)には、王室による浪費が重なった結果、宮中の内帑金〔君主のおてもとにあるお金、つまり君主(国の元首、皇帝など)が自由に使えるお金〕が底をついたために、売官売職が横行した。道長官である監司(日本でいう県知事)は俸禄がなかったのに、百万両の相場で売官された。監司や郡守に当たる守令(知事)も、まったく無給であった。
それなのに高額のワイロを使って、その地位を手に入れた。それは不正な手段を用いても、それ以上の収入が見込めたからである。そこで赴任すると、容赦なく民衆から収奪している。
監司や守令たちは、着任すると、在任中に人民をほしいままに搾取収奪して、蓄財した。
(※追記の親父の自分史からも、李氏朝鮮時代の名残が読み取れる)そのうえ、高級官僚である両班たちは、威張りちらしたり、贅沢にふけることを好んだものの、労働や商業、製造業を卑しんだ。これらの地方長官たちは、自分の懐を肥やすことだけに熱心で、殖産(産業を盛んにすること)を振興することに、まったく関心がなかった。
李成桂が李朝を創建(1392年)したときの朝鮮の人口は、約550万人であり、李朝が518年後に滅びた時(1910年)の人口は、約1300万人であった。
徳川家康が幕府を開いた時(1603年)の日本の人口が、1200万人だったが、1872年(明治5年)に日本ではじめて国勢調査が行われた時の人口が3000万人となっている。
徳川時代は270年で李朝のほぼ半分でしかない。徳川時代の日本が隣国の李氏朝鮮に較べて、どれほど善政を施したものだったかがよく分かる。
朝鮮半島の人口は、日本統治時代に入ってから急激かつ爆発的に増えている。
日本が朝鮮を統治した初期の頃の朝鮮の人口は約1200万人であったが、終戦の1945年の35年後には2800万人を数え、たった35年で、約1600万人も増えている。
これらの数字は、日本統治時代の評価がどうであれ、李朝が民衆をどれほど悪政のもとに置いていたかを示している。
〔※日露戦争後に日本の保護国になった頃の朝鮮の人口は980万人(1906年)、その6年後の合邦後(併合後)の1912年には1400万人に急増している〕
マスコミや歴史教科書では「韓国は善で被害者」、「日本は悪で加害者」とされているが、これらは数字の上からもデタラメであるということが示されている。
日本が朝鮮を統治した初期の頃、このような国家倒産の危機に直面していたが、財政改革をしようにも朝鮮半島内には人材がいないため、ロシア推薦のアレキシェ-フ度支部(大蔵省にあたる)顧問を招いたが改革に至らなく、その後、1904年(明治37年)に第一次日韓条約が結ばれ、日本政府推薦の目賀田種太郎財政顧問が迎えられた。
朝鮮への日本の財政負担は1904年の第一次日韓協約による、同年10月の目賀田財政顧問の着任からはじまったが、日本統治時代は「1919年」の1年間を除き、毎年補充金を朝鮮につぎ込んでいる。
当時の大韓帝国の歳入はたったの750万円位(現在の価格で約82億円)で台湾総督府に比べても三分の一以下というあまりにも収入が少ない国家であった。
(※1905年の台湾の歳入は、当時のお金で2542万円(現在の価格でみると約278億円)であり、この年から台湾総督府は日本からの補助金を辞退している)
日本はこのような崩壊寸前の大韓帝国に莫大な支援を行い、年間15%~20%の歳出を補填(ほてん)しながら朝鮮半島の民生(国民の生活、生計)の向上をはかっていっている。
☆日本統治以前の大韓帝国の状況
当時の朝鮮半島は治山治水も整備されておらず、豪雨になると洪水のため平原は一夜にして湖沼と化してしまうことがたびたびあった。(朝鮮半島の河川水量は日本の約2倍、一方渇水期の流水量は1/10分から1/20分しかなく、干ばつや洪水などの自然災害に対し歴代王朝は何も手を打ってこなかった。)
そのため灌漑用水をめぐっては争いが絶えなく、また林野も荒廃をきわめ、多くは過塾林という老齢樹となっていた。なかでも針葉樹は虫害がはげしく、漸次枯死し続け、また盗伐、乱伐、冬期の薪(マキ)材の需要など林政の不備等数え上げたらきりがない。
また、当時の大韓帝国とは名ばかりで、産業らしいものはなく農業社会で構成されていた。そのため教育を受けた者は少なく、それは朝鮮には近代的意味での学校などほとんどなかったからである。
はっきり言って当時の朝鮮半島は、すかんぴんにして無知の社会であり、ソウル以外の町は治安が悪く、ソウルでさえ非常に不潔で外国人の目から見て世界一不潔な町だったという。この李朝時代はしばしば疫病がはやっていた。
日本統治前の朝鮮のレストランの様子 ⇓
日本が統治する前の朝鮮半島とはこのような劣悪な環境と状況のなかにあったが、歴史教科書などでは“日本は悪である”とするために、この肝心な統治以前のことについて歴史教科書で触れると、「日本=悪」が成り立たなくなり、絶対に触れられることはない。
しかし、日本は日韓併合という形で統治することにより、今のお金で約63兆円(国家的予算の規模から算出)という莫大な資金を朝鮮半島に投入し、以下の偉業を成し遂げている。
1)開墾、開拓、灌漑などの大規模な土地改良と政策
韓国、台湾の近代化において、日本がもっとも貢献した事業のひとつに科学的土地調査がある。朝鮮総督府が、土地制度と租税制度確立のために行った「全国土地調査」は、近代朝鮮半島史上でもっとも特筆すべき画期的な事業である。
この土地調査に関しては多くの書物が取り上げているが、以下は、マスコミや歴史教科書などで、朝鮮総督府の土地政策を悪行のごとく、間違って教えているので、参考までにいくつか紹介してみる。
そして、竹内睦泰著の「日本・中国・韓国の歴史と問題点80」では
総督府が実際に接収した土地は、権利関係が明白でない農地を中心とした全耕地面積の4~5%で、開拓されていない未墾地を含めると40%になるが、未墾地をどんなに接収しても「農民の土地を奪った」ことにはならない。
また、山辺健太郎著の「日韓併合少史」の中には、李朝時代の土地制度のことが次のように書かれている。
『李朝の土地制度が完成したのは、1470年にできた「経国大典」という国家の基本法からであるが、これによると、全国の土地を公田と私田にわけている。私田は官僚貴族たちに下賜された土地で、この土地には耕作者である佃戸という農奴がついている。この私田には問題はないが、問題は公田であった。
李朝の綱紀がゆるむにつれて、この公田の収租権者、つまり、租税を取り立てる者が、公田を私有化したり、また、民田を公田だとしてこれを私有化したりした。そのほか1591年に、官房田というものができて、歴代の王子孫(王や子供それに孫)に支給されたのであるが、これはもちろん公田から下賜されたわけである』
一方、一般に市販されている本や歴史教科書に書かれている日本の朝鮮半島での土地政策の中に、よく出てくるのが、1908年に朝鮮で設立された日本の東洋拓殖株式会社(東拓)であるが、その間違った内容について黄文雄氏は次のように示されている。
(黄文雄著の「韓国は日本人がつくった」より)
『「日帝」は植民地政策の一つとして、朝鮮の土地所有権を明確にするための「土地調査事業」を行った。しかし、字の読めない人も多く、近代的土地所有の観念もなかった朝鮮農民は、土地の申告をしなかったために、多くの土地は日本人地主の手に渡ってしまった。これによって朝鮮最大の日本人地主となったのが東拓である。東拓は日本最大の食料を確保するために朝鮮米を植えさせ、日本に輸入する「産米増殖計画」を行った。逆に、朝鮮農民は飢え、土地、食料を奪われた朝鮮人は日本や中国東北地方へ流出せざるをえなかったのである。これが一般的な「東拓」への批判内容である。』と、黄文雄氏は指摘され、さらに次ぎのように正されている。
『実際は朝鮮総督府が日本と朝鮮の両方の土地を兼ねることを嫌う当時の風潮を重んじ、東拓の土地買収を認めていなかった。さらに駐屯土と称される国有地の処分においても東拓へは譲渡せず、自作農を創設するため朝鮮小作人に分譲したため、東拓の移民事業は途中で挫折している。
その結果、本来は約6000戸の入植を予定していた東拓だが、朝鮮に定着したのは3883戸だけであった。そのうえ朝鮮半島内における東拓のような日本人地主は非常に少なく、仮に土地が二束三文で手に入ったとしても、入植日本人の土地所有者は半島全農地の一割にも満たなかったであろう。字の読めない朝鮮農民の土地をだまし取ったというのも、真っ赤な嘘だ。朝鮮の土地は王田王土が建前だったが、李朝末期には土地の所有権は、ほとんど両班や地主の手にあり、字の読めない小作人はもともと土地など持っていなかった。これが史実である。』
さらに、朝鮮総督府が朝鮮で行った土地政策や李氏朝鮮時代の土地政策について、次のように詳しく書かれている。
『朝鮮総督府は1910年~1918年にかけて、200万円(当時の金額)の予算を組んで全土の土地調査を実施した。その責任者として登用されたのは目加田種太郎である。彼は財政顧問として迎え入れられ、この事業に着手した。
朝鮮総督府に土地調査局が開設されたのは、日韓合邦前の1910年3月〔日韓併合(日韓合邦)は1910年8月末)〕で、そこから全国的な規模での本格的な調査が始まった。まず整理しなければならなかったのは、土地所有者、価格、地形、地懇、坪数、地図作成などである。朝鮮の土地面積の単位は「結負」(キョルブ)と呼ばれ、それが課税単位となっていた。「結」とは新羅時代からの用語で、穀物10把を一束、10束を一負、100負を一結と数える。そして、土地の生産性に応じて「結」は六等のランクに分けられていた。一等地における「一結」は約一町歩、六等地は約四町歩となっており、土地の大小ではなく租税の金額によって決められていたのである。
李朝時代は耕地面積に「斗落」(マジキ)または「日耕」という単位を用いていた。「一斗落」とは五穀の種の一斗を種撒き出来る広さの土地を指し、もっぱら水田の広さを数える時に使われていた。実際は土地や時代によって多少ことなるが、約100坪から200坪ほどである。「一日耕」とは牛を使って一日耕作できる面積を指した。こうしてどの時代も田畑の統計はなされていたように見えるが、実質はいい加減なものだった。
李朝時代の初期、145万5492結あった農地は、李朝時代の末期の1902年には98万8417結と減っている。1769年の調査では朝鮮全土の結数は、141万1948結で、そのうち税を負担していたのは、わずかに80万843結のみであつた。
1894年の公簿に記録されている結数は140万3171でありそのうちの課税結数は79万9979結のみ。つまり、約半数が脱税地となっていたわけだ。公簿に記録されていない土地はいわゆる「隠結」(隠田)である。この「隠結」はもともと税金を免れていたもの以外に、地主は実際に納税していたが地方官僚の
横領などによって税が露と消えてしまった土地もある。または、地方官僚と地主が結託して国税を食い物にしていたケ-スも多かった。こうして、公簿上での結数は時代とともに少なくなっていったのである。
同時に国税も減る一方となり、これが朝鮮半島の庶民に対し、重い税金をきびしく取り立てる背景となっている。しかし、朝鮮総督府の全国土地調査によって、その「隠結」が一掃され、調査開始時には272万余町歩と算出されていた耕地面積が、調査の結果、土地所有者は187万余人、総面積は487万余町歩と、倍近く増大したのである。だが、公明正大に土地調査が行われると、これまで甘い汁を吸ってきた者たちは困るわけである。朝鮮総督府の調査に対して不服申し立てが出てくるのは必至であった。実際、高等土地調査委員会が1920年までに受理した不服申し立て件数は2万148件にも達していたという。
これらの障害を受けながらも、この近代的土地調査は公正な土地、租税制度を確立することになり、隠し田を一掃し、伝統的な土地紛争に終止符を打った。
朝鮮の土地制度は新羅時代からすでに存在していた。それは唐の王土王民制度にならったもので、すべての土地を公有地とし、世襲は認めなかった。やがてその制度も実質的に崩壊、豪族や官僚の私有地と化した。李朝時代になって、太祖が太制改革を断行し、高麗朝時代すでに私有地化された私田を再び公田制にしょうとしたが、すでに私田のウマ味を知ってしまった群臣(多くの君主に仕える人)に大いに反対され、結局は私田収祖権の世襲を公認せざるをえなかったのである。1591年には公田から官房田というものができ、王族の子孫にも農地が支給されはじめた。
李朝末期になると、綱紀はさらにゆるんでゆき、収祖地は有力豪族や官吏(国家公務員のもとの呼び方)の私有地となり、公田の名を借りた民田の略奪や、公田を奪っての私有地化などの傍若無人な行為も横行するようになった。さらに、土地境界の紛争、文書偽造なども起こり、土地制度と租税制度は大きく混乱した。
〔※中学生の歴史教科書には必ず日本が土地を奪ったなどと、デタラメなことを書いているが、これは李氏朝鮮時代の土地制度の様子であり、土地制度もいい加減で、すでに破綻していたことが分かる〕
このように、マスコミで伝える内容や歴史教科書の内容は実態とは全く違っている。
日本のマスコミや教科書では、日本が「土地を奪った」としているが、先の黄文雄氏は、次のようにも示されている。
『「日帝」による朝鮮半島の土地強奮は、「日帝七奪」のひとつに数えられる。
しかし、これは両班時代(李氏朝鮮時代)の土地強奮を連想し、日本人に罪をなすりつけたものであろう。
フランス人のダレ神父は「朝鮮事情」のなかで、両班の土地強奪の実態を、次のように述べている。「両班は世界中で最も強力にして傲慢な階級である。彼らが強奮にちかい形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は、一人もいない」戦後になってから、日本統治時代に日本人が朝鮮半島で行ったといわれる土地強奮は、ほとんどがこの両班をモデルにしてでっちあげられた作り話である・・・・土地強奮は、むしろ韓国人のお家芸である。
※身一つで渡日したはずの在日一世は、日本人より持ち家比率が高く(二世以降は異なる)相当低所得の人ですら、大半が土地付きの家を所有している。
多くが駅付近であるが、それ以外にも在日が密集するエリアは全て不法占拠し、時効で法的に所有権を確保したものである。中には、日本人地権者を殺して土地を強奮したケ-スもある。在日は第三国人時代(戦後、日本が敗戦でアメリカの統治下に入り、当時の「韓国・朝鮮」人が日本人としての資格を失った時代)土地を不法占拠しただけでなく、治外法権状態になったのをいいことに、各地で食料などの物資を略奪し、列車を乗っ取り無賃乗車するなどして運搬し、違法な闇市を支配して売りさばき、一時、国内の通貨の40%を支配した(当時の石橋湛山蔵相が国会で発言)ほどだった。(3※第十四項参照)
2)鉄道、道路、架橋、航路、港湾、などの交通設備
日本は統治下の朝鮮で、今の韓国から北朝鮮に及ぶ総距離5000キロにも及ぶ鉄道網を整備したが、それが今の韓国や北朝鮮の鉄道の基礎となっている。
3)電信電話などの通信設備の敷設
4)大規模水力発電所の建設、
朝鮮の水力開発に最も貢献した人物は野口遵である。
朝鮮産業革命の祖と言われ、朝鮮の恩人ともいわれている。彼は鴨緑江上流に「水豊ダム」など日本にもない17万キロワットや20万キロワットの世界有数の巨大発電所をつくっている。鴨緑江地域には7箇所、また白頭山、豆満江、虚川江などにも大規模水力発電所を建設している。
5)産業の近代化、
近代工場の建設、また治山治水の整備を行う(日本統治後の工業生産額は1927~1933年に3億円台に、1935年には6億円台を超え、1940年には18億円台を超えている)
6)農業政策の改善
農業政策の改善による食料の増産日本が統治に乗り出す前の大韓帝国の食料事情は非常にきびしいものであった。当時の人口は農業が約8割を占めているにもかかわらず、3月から6月の春窮期(秋に収穫したものを次の春までに食べつくすこと)までが、なかでもきびしく、食料不足になると朝鮮人口の約6割が山野で草根樹皮を採集して生命をつないでいた状態である。
朝鮮農民の間では、古くから「春窮、麦嶺越え難し」ということわざがある。
農民の収穫の半分以上は年貢として取り上げられてしまうため、収穫しても翌年3月頃までには米を食いつくしてしまい、そこで、次の収穫までの約3ヶ月はじゃがいもや麦などでしのぐ春窮期であるという意味である。
〔※朝鮮人の主食は東北部では雑穀、西南部では米であり、1915年~1919年までの朝鮮人の一人当たりの米の消費量は0.7石で、粟は0.3石であった。(武田幸夫著「朝鮮の歴史」)それが、1930~1936年には米の消費量が0.43石まで減っているが、その分、粟やその他の雑穀が増えている。要するに高く売れる米を売り、安価な雑穀を食べていた。(☆親父の自分史の内容からも、朝鮮人の食生活が分る)〕
朝鮮総督府が行った政策は、農政改革、農地改良の一環として奨励金を出し、逆ザヤ制度まで設けて質と量を安定させ、その結果、史上空前の米生産量の倍増が達せられた。
朝鮮総督府のスタ-ト時(1910年:明治43年)は、約1千万石だった米穀収穫量は、18年後の1928年(昭和3年)には、1700万石に。朝鮮半島では、米の収穫が史上一度も1000万石を超えたことはない。
しかし、日韓併合から20年後の1930年代に入ると、常に2000万石を突破している。また、1926年(大正15年)時点では、大豆と雑穀の生産も併合当初の六割増に達している。
7)近代化教育
近代化教育を図るため、学校の建設に力をそそいだ。
当時の朝鮮半島は、1910年の併合当時、小学校は100校程度であったが、日本が統治を行うことにより、13年後の1923年(大正12年)には、約830校に、26年後の1936年(昭和11年)には朝鮮半島全部の面(村)1校の割合で2500校の学校を建設した。また、併合より32年が経った1942年(昭和17年)には倍の5000校にまで、学校を増やしている。
また、近代教育等々の普及に力を注いできた。日本はハングル、漢字教育を進めて就学率、識字率を高めている。この時代朝鮮半島では国語として日本語教育も行われた。そもそも日韓は合邦国家であったので、当時の日本帝国が朝鮮語でなく日本語を国語とするのは当たり前であり、勿論それと同時に朝鮮語も当然教えていた。
これは台湾においても同様である。しかし朝鮮総督府時代の大韓帝国では日本語の普及率は20%に達せず、日本統治時代の台湾が70%だったのに比べると非常に低い。このことは、当時の朝鮮で日本語が強制されていなかったことを証明しているし、民族性もこれから分かる。(これは親父の自分史に詳しい)
当然、台湾でも強制されていなかったが、台湾で日本語の普及率が良かったのは、それだけ台湾の人々が日本の統治を高く評価していたからに他ならない。
〔斉藤総督の時代に京城帝国大学(1924年)が新設された。彼の施策の中で特筆されるものの一つに朝鮮語の奨励がある。言語は相互の意思の疎通に欠かせないものである。そこで総督府は朝鮮人には日本語の学習を奨励するとともに、内地人の総督府職員、地方庁職員には朝鮮語奨励費を支出し、朝鮮語の普及を図ったのである。この朝鮮語普及費の支出は1939年まで続いている〕
※H17年改定後の中学の歴史教科書には、次のように載っている。「学校では日本語や日本の歴史を強制的に教えました。このように朝鮮民族の歴史や文化を否定し、日本に同化させる政策を進めました」(大阪書籍)
日本の朝鮮統治時代の小学校の教科書 ⇓
大阪書籍の朝鮮の歴史や文化を奪ったなどと言う記述がウソであるのが分かる
8)朝鮮銀行の設立・建設その他の建築物
※(戦後、韓国政府は日本が統治した時に作った建築物を嫌い、多くを取り壊した)
朝鮮銀行を設立し、中央銀行として機能させる
朝鮮銀行本館
京城駅
9)近代医療制度の普及に貢献
当時の朝鮮半島について1908年の統監府時代に京城控訴院判事として、韓国政府に招かれた山口真昌氏は次のように語っている。「道路は狭くしかも糞尿はいたるところ道端に満ちているという有様。井戸水は混濁していて風呂に入れば茶色の湯、飲料水は石油の空罐1杯を何銭で買ってきて使用。」
このように19世紀~20世紀初頭の李氏朝鮮時代の韓国(大韓帝国)は農村から都市のあらゆる地域で不衛生な生活環境であり、いろいろな伝染病がはやっていた。(※この不衛生の状況は追記の親父の朝鮮での生活状況からも,うかがい知れる)
※韓国に対する近年の日本政府開発援助(ODA)事業だけでも、1974年に一号線が開通したソウル地下鉄に591億円を投入。臨河多目的ダムにも45億円が投入され、日韓文化交流基金と日韓産業技術協力財団には2012年に、計約9億3千万円の金が投じられている。
以上のような各分野において、朝鮮総督府が当時の大韓帝国に尽力をつくした結果、日本の統治当初の朝鮮半島の人口、約1200万人が韓国や北朝鮮が非難する日帝36年間には、2倍以上の2800万人に増加したが、これは衛生上の改善による出生率の向上と死亡率の低下もあるが、何よりも農業生産性の向上によるところが大きい。
※「強制連行」という造語を創り、「朝鮮人強制連行の記録」の著者である朴慶植は、その「朝鮮人強制連行の記録」の最後の「むすび」の中で、次のように記している。
『八・一五(終戦の1945年8月15日)解放から今日までの20年間、歴代日本政府は朝鮮支配に対する賠償はおろか、心からの反省を示したことがなかった。「韓日会談」の日本側代表の久保田、沢田、高杉らの発言などでみられるように、かえって「日本の朝鮮統治は朝鮮人に恩恵を与えた」とか、「過去のことをいえば向こうにも言い分があるだろうが、わが方にはもっと言い分がある」というに至っては、まさにこれは朝鮮でいう「賊反荷杖」で、盗人たけだけしいといわなければならない』
としているが、これは朴慶植を含めた“「韓国・朝鮮」人の自分の言い分だけはハッキリ主張するが、自分が不利となることに関しては、相手の言い分を全く聞かない”という性根からくるものである。
一方、日本統治以前の李王朝時代について、金完燮氏は自分の著書「親日派のための弁明」の中で次のように書いている。
『韓国人が朝鮮王朝を慕い、日本の統治を受けず朝鮮王朝が継続したなら、もっと今日の暮らしが良くなっていると考えるのは、当時の朝鮮の実態についてきちんと分っていないためだ。特に子供と青少年は、きれいな道ときれいな家、整った身なり、上品な言葉使いのテレビの歴史ドラマを観ながら、朝鮮もそれなりに立派な社会で外勢の侵略がなかったならば、静かで平和な国家を保てたろうと錯覚する。しかし、日本が来る前の朝鮮は、あまりに未開で悲惨だったと言う事実を知らねばならない』
(※日本のNHKや民放のBSなどで放送する韓国の歴史ドラマも当時の李氏朝鮮時代の実態からほど遠く、錯覚させる番組である)
なのに、「韓国・北朝鮮」や日本の政治家、あらゆるマスコミ、進歩的文化人、「平和人権」市民団体、等々や歴史教科書などは、当時の朝鮮総督府の業績に対し、なぜか?批判や罵倒ばかりしか出来ない。
日本の朝鮮統治は「植民地支配」と一般的に言われるが、朝鮮は決して「植民地」として扱われてはいない。植民地であれば日本は朝鮮半島から財政的、経済的メリットがあったはずであるが、そのようなことは皆無どころか逆に日本から莫大な金が統治する為に使われている。
現在の韓国人がよく日本に統治されたことを「史上最も過酷な植民地支配」と身勝手に批判するが、当時のアメリカ領フィリピンをはじめフランス・オランダ・ドイツ・イギリスなど、これらの国々はインドシナやインドで現地の国民を強制労働と強制収容所で過酷な生活を強いている。
反対に当時の大韓帝国(韓国)は李朝時代からの悪しき慣例のムチ打ち刑を朝鮮総督府によって廃止させられ、かつ、「日本と同等の刑法制度」を導入させられている。
ヨ-ロッパの国々やアメリカが行ってきたことが植民地支配」と言うのである。
また、イギリスはインドを植民地としていたが、インドの租税のうち25%をイギリスは搾取していた。またオランダは19世紀末までインドネシアを植民地とし、莫大な資金を吸い上げ、それがオランダの産業革命の基礎を作ったと言われている。
フランスもインドシナを植民地とし、同様に搾取している。
しかるに日本は逆に朝鮮統治のために、巨額で過度な財政負担をしいられた。当時の7千万の日本人はその分、増税を強いられた。マルクスの用語に従えば日本人は朝鮮人に「搾取」された。今の金額に直せば約《63兆円》という今の日本の国家収入よりはるかに多い日本人の血税が投入されており、実態は「持参金つきの統治代行」であり、一般にマスコミや歴史教科書などで伝えられる悪政どころか、実態は全く逆であるが、これらの実態から見ても、現在の日本の歴史教育やマスコミの在り方が尋常ではないことは一目で分かる。
旧社会党の村山富市内閣総理大臣談話が平成7年8月15日に発表され、その談話の中に「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という部分がある。
当時の村山総理や旧社会党党首の土井たか子、それに旧社会党や共産党の議員などはアジア諸国の人々とは韓国と中国、それに東南アジア諸国を念頭において発言している。
では、日本を嫌っているのは「韓国と中国」それに東南アジア諸国かというと東南アジア諸国は韓国や中国とは全く違い日本に対して好意的である。
それは、近隣諸国の韓国と中国は反日(嫌っている)で、東南アジアの諸国は親日国家との調査結果が出ている。
アジア10 ヶ国の親日度調査⇒アウンコンサルティング株式会社 調べ(2012 年11 月)
韓国を除く全ての調査対象国で過半数が日本を好きと回答。
さらに、そこから中国を除くすべての国では、
85%以上が日本を好きだと回答している。
(中国の場合、富裕層は概ね日本に対し好印象を持っており、それ以外は悪印象を持っていると考えられている。)
世界の中の反日国家(※特亜の3か国のみ)と親日国家
反日国家
韓国
「日本の大地震をお祝います。」
2011年9月27日、全州で行われた「アジア・チャンピオンズリーグ」で韓国の全北現代サポーターが東日本大震災を中傷する横断幕…日本の「セレッソ大阪」側は抗議
北朝鮮
中国
親日国家
パラオ共和国(http://www.youtube.com/watch?v=Yu6kCw2yv54)
台湾
△インドネシア
△マレーシア
タイ
ブータン
△インド
△ミャンマー(ビルマ)
カンボジア
スリランカ
△ベトナム
トルコ
チェコ
ポーランド(http://www.youtube.com/watch?v=D2V7wsvtamA)
フィンランド
△は戦争で日本が東南アジアに進出した結果、ヨーロッパの国々から独立を勝ち取った国。
日本人の知らない?親日国家。 日本や日本人のことを好いてくれる国(これを見ればマスコミや左寄り政治家など、戦争における日本の行為が出鱈目に語られている事が分かる)
〖第八項〗「強制連行説」の朴慶植と「韓国・朝鮮」人の根底にあるものは
「韓国・韓国人の品性」の著者で、日韓歴史共同研究(2002年~2010年迄、2回にわたる日本と韓国が共同で行った歴史研究)で韓国の歴史学者と激しく議論し合った古田博司筑波大教授は、朝鮮半島の歴史を研究し続けた結果、南北朝鮮は、かっての李朝時代と全く変わらず、「法治」がない、「平気でウソをつく、誰もが卑劣なので「卑劣」の意味が分からない。・・・
と述べられているが、これらも朝鮮民族の特質であろう。
日本のマスコミも理解出来ていない「韓国・朝鮮」人の特質問題
テレビ報道では、大阪生まれで幼少期を大阪で過ごした大韓民国の第17代大統領李 明博(イ・ミョンバク)について、日本生まれと言うことを強調し、親日の大統領なので、日韓関係も良好関係に・・・などと言っていたが、あにはからんや、大統領自ら竹島上陸や天皇謝罪発言で最悪の日韓関係に貶めている。
このように、日本のマスコミ自体が「韓国・朝鮮」人の特質について、未だに分かっていない。
吉田首相の占領軍への朝鮮人送還嘆願書
裁判に付された朝鮮人による刑事事件 吉田茂首相作成 |
||
年次 |
事件数 |
朝鮮人関係者数 |
1945(8月15日以降 |
5,334 |
8,355 |
1946 |
15,579 |
22,969 |
1947 |
32,178 |
37,778 |
1948(5月末時点) |
17,968 |
22,133 |
合計 |
71,059 |
91,235 |
補足:吉田茂首相―1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第一次吉田内閣)。
同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。
第一次吉田内閣(1946年 5月22日~ 1947年5月24日)
第二次吉田内閣(1948年10月15日~1949年2月16日)
第三次吉田内閣(1949年 2月16日~ 1952年10月30日)
第四次吉田内閣(1952年10月30日~1953年5月21日)
第五次吉田内閣(1953年 5月21日~ 1954年12月10日)
1949年に吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に送還費用は日本政府が負担するとした上で「在日朝鮮人の全員送還を望む」と題する朝鮮人送還を求める嘆願書を提出している]。
嘆願書では台湾人はあまり問題を起こしていないとして朝鮮人のみの送還を要望し、また朝鮮人の半数が不法入国者であることを明らかにした上で、以下の問題点を指摘した。
1)
日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと。
2) 朝鮮人の大多数は日本経済の再建に貢献していないこと。
3)
朝鮮人は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
また、後述の親父の自分史の中の御名御爾の内容を補完する為に、親父から手紙をもらったが、日本人に対し朝鮮半島人(朝鮮民族)は体の中に反日のDNAを持っていると確信する内容であるが、次のように書いてある。
『朝鮮人は日本合併当時より日本に対して敵意を持っていたが、日本の力に屈し、平静を装ってきただけで根底には、独立の民族思想があったものと思われる。日本が戦争に負け、力がなくなったので、いっきに爆発し騒動になったものと思う。同じ朝鮮人でも極端に敵意を出す者と、そうでない者とあり、周囲の状況が許せば行き来したいが、周囲の状況が許さない程、日本敵視の状態である。日本人敵視でない者は、ほんの僅かである』と書いている。
この内容からも、韓国・朝鮮人の最大公約数は反日であることが示されている。
例えば現在では、韓国人の潘基文国連事務総長が2013年8月、韓国に里帰りして安倍晋三首相の就任以来の言動について一方的に厳しく批判した。
しかし、そもそも国連事務総長が、国際紛争当事国の一方に対して、批判することは国連事務総長としての「中立性」から大きく逸脱し、非常にその姿勢が疑われる。
事務総長になっても、自国中心の韓国人としての行動が現れることに、他の世界各国の人々と違った「韓国・朝鮮」人の特筆が著しく表れている。
※2006年2月に韓国のパン・ギムン氏が国連事務総長選挙に立候補して以降、韓国は日本政府に彼の支持を呼びかけた。
これに日本政府も応えているが、日本政府は「韓国人も韓国政府」も見る眼が全くない。日韓併合を教訓に、すでに朝鮮民族と韓国政府の欺瞞さを見抜いていなければならないが、韓国に利用されるだけ利用されて、未だにその教訓も全くいかされていない。
さらに、未だに教訓が生かされていない事例に次の内容がある。
2015年6月28日からドイツで始まった世界遺産委員会で、韓国は6月21の日韓外相会談での互いの世界遺産(※韓国は「百済の歴史地区」)の登録で協力すると言う約束を破り、日本の産業革命世界遺産の登録に韓国が「あのてこの手」で妨害し、日本の世界遺産登録がずれ込んでいる。
一方の韓国の世界遺産は、日本が賛成する協力で登録に成功している。
※日本政府は戦後、韓国に騙し続けられ、これを教訓とすべきところ、未だに韓国に騙し続けられているが、日本政府のように世界でもお人好しを通りこして騙され続けるバカな国はない。
それから、2015.9/15には産経新聞ウェブサイトに掲載された「米中二股、韓国が断ち切れぬ民族の悪い遺産」という的を得た記事に対し、韓国大使が新聞社を訪れ、記事の削除を求めるという事までやらかしているが、日本に対しては何をやっても構わないという民族的資質がよく表れている。
また、韓国で戦時中の韓国人徴用に対し、日本企業に賠償金の支払いを命ずる判決が韓国内で相次いでいるが、日韓両国は1965年(昭和40年)に両国間の請求権放棄(日韓基本条約の中で決めている)を決めており、条約違反も甚だしい。
このように、朝鮮半島人は何事も自分中心で物事を判断し、行動に移すので、世界中で嫌われている。
これら、韓国・朝鮮人の自己中心の考え方は、そのようなDNAを先祖代々もっていると考えられるが、2016.10.23の産経新聞の(ソウルからヨボセヨ)のタイトル「ドタキャン社会に嫌気」からも分かる。
一部を抜粋すると
ホテルやレストラン、旅行業界などで連絡なしに予約をキャンセル(ノーショー)することが韓国人には多く、海外の観光地で非難の対象になっているという、韓国国内でもその被害は甚大で。さる調査によると客商売の各種業界でドタキャン(ノーショー)による損出は年間に8兆ウォン(約8千億円)以上にのぼるとか。
また、韓国はパクリの大国で、日本の伝統、文化は勿論、名前、商品、何でもござれの国民性。その為、日本は勿論、世界でも嫌われている。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7321349から
2013年2月に韓国で初めて女性大統領になった第18代大統領パク・クネ大統領が新政権の課題として「4大社会悪根絶」を公約に掲げている。
その4大社会悪とは
①性暴力(強姦、わいせつ、セクハラ、痴漢等)
②学校暴力(イジメを含む学校内での生徒同士の暴力行為)
③家庭暴力(家庭内で夫の妻に対する暴力行為)
性暴力のわいせつについて日本国内で言えば、韓国人のNHK職員がいる。
2007年06月に16歳の少女に金を渡し、わいせつな行為をしたとして、児童買春・ポルノ禁止法
違反容疑で警視庁に逮捕されたNHK教育テレビ「ハングル講座」製作担当職員でチーフプロデューサーをしていた韓国人の朴元瑛源容疑者(34)。
番組内では日用会話では使わない「韓国人と結婚しろ」や「韓国人と結婚しなさい」などなどの例文を作り、盛んにハングル講座を悪用し日本人を貶めていた。
不良食品問題は韓国内の不衛生問題につきる。
[不衛生:(李王朝時代から韓国全土は糞尿に汚染されており、韓国の土壌や排水には非常に危険な寄生虫やバクテリアやウィルスがおり、韓国ソウルの学校の庭では劇症性肝炎ウィルスが見つかり、又、キムチからは寄生虫の卵が見つかったり、食品への異物混入、朝鮮伝統の人糞酒「トンスル」などはその代表であり不衛生そのもの)]・ニセ食品・違法添加物・賞味期限のウソ表示・原産地ウソ表示などである。
日本が韓国から輸入している食品の衛生管理もずさん極まりない!
殺虫剤、抗菌剤、漂白剤、麻痺性貝毒、二酸化硫黄、金属片、カエルの死骸、軽油、大腸菌、ノロウイルス……韓国産の食品は、いまや支那産食品を抜いて世界ダントツ1位の「毒食」となっている。
※2012年月刊誌WILLの11月号にジャーナリスト梶井彩子氏が「輸入韓国魚介類は糞尿まみれ」と題して載せている内容は、日本に輸入されている韓国の食品に中国の「毒餃子」事件と同じかそれ以上の「危険」が潜んでいる。
この事実はネットや海外の報道機関では多くの情報が出回っている一方で、日本のテレビや新聞ではあまり取り上げられていない。と書かれているが、全く取り上げられていないのではないか。
2015年.8月5日には、大分県豊後大野市の食品会社が韓国から輸入した養殖ヒラメから、基準値を超える寄生虫の「クドア・セプテンプンクタータ(おう吐や下痢を起こす)」が検出され、食品会社が回収している。
これらは、マスコミ特にテレビでは隠蔽されている。
また、「韓国のり」から基準を上回る細菌が見つかり、中国が450キロの輸入を却下している。
中国紙の新華日報配信日時:2015年4月17日(金)
17日、基準を超える細菌が見つかったとして、中国江蘇省連雲港市で韓国産のり約450キログラムが輸入申告を却下された。
2015年4月17日、新華日報によると、基準を超える細菌が見つかったとして、中国江蘇省連雲港市で韓国産のり約450キログラムが輸入申告を却下された。
細菌の多さに加え、ラベルについても問題が指摘されており、輸入が認められなかったのりの額は約1万5000ドル(約179万円)に上る。中国では昨年、大量の韓国のりが細菌の基準超えの問題で返却されたり処分されたりしている。(翻訳・編集/野谷)
これら、韓国の養殖ひらめや韓国のりなど、養殖産の食品は衛生管理がなされていない。
さらに海外メディアが報じるところでは、アメリカ食品医薬品局(FDA)は2012年6月14日、韓国産のカキ・貝・ムール貝・ホタテなどの貝類が人糞などに汚染され、食中毒を引き起こす可能性があるとして、流通業者に販売禁止を通告した。複数の韓国メディアが報じた。とあるが、日本のNHKや民放テレビが普段どうでもよい韓国内のニュースや話題を時々取り上げるが、肝心の日本人の食生活にも関わる輸入韓国海産物の問題を隠蔽するとは何事であろうか・・アメリカでは2011年11月に韓国産カキの食中毒で三人が死亡している。
また、2011年の韓国紙独自の調査でも、国民の14パーセント以上が精神疾患体験者という結果が出ている。
まず記しておかなければならないことは、日本の朝鮮統治は、台湾統治というよき先例があったのて゛これに基づき立派に行われたということである。にも拘わらず韓国は台湾と違い、教育・文化・政治・司法・マスコミなど反日で成り立っている国である。
※韓国は政治・教育・司法・マスコミなど、まず日本の朝鮮統治を批判し、評価をしない反日を国是としている為、歴史を公平・中立的に見つめる言論の自由が全く存在しない国である。日本の朝鮮統治の事実を書いた「親日派のための弁明」の著者であるキム・ワンソプ氏は逮捕されている。
《10年以上前、PHP研究所が発行したAttitude to the Lawという英文雑誌の中に、アメリカのジャ-ナリストであるマ-ティン・ロスが台湾に行って日本統治時代のことを調べた記事が載った。
当初、このジャ-ナリストは日本人が台湾人に対し、どのような悪辣(あくらつ)な植民地統治を行っていたかを暴くつもりであったようである。ところが現地で台湾の統治時代を知る人たちにインタビュ-してみると、みんな「日本人がいた頃はよかった」と口をそろえて答えた。
また「今では夜になれば鍵を締めて寝るけれど、戦前はドア-を開けて寝ていても安心だった」という話しか出てこない。
結局このアメリカ人ジャ-ナリストは当初の“もくろみ”とは反対の「日本時代はよかった」という記事を作ったということである。台湾の歌手である寒雲さんも戦後生まれで日本の台湾統治を知らないが、日本人宅で家政婦をしていた會祖母からは「とてもやさしくしてもらった」、母親からは「終戦後は生活が苦しかった。戦前のほうがよかった」などと聞かされている話を新聞に載せている》
台湾と朝鮮の統治を比較すると統治当初、台湾は抵抗が強く、朝鮮は従順で対象的であった。日本の統治政策で、台湾統治と朝鮮統治を比較してみると、客観的にみて、朝鮮の方が台湾よりも一段、格の高い処遇を受けていた。それは台湾総督府と朝鮮総督府の地位を比べればよく分かる。台湾総督府は拓務省(現在の「沖縄・北海道開発庁」のようなものに相当)により監督、運営されていたが、朝鮮総督府の法的地位は天皇直属であり、実際は内閣を通じての運営であった。
さらに、京城帝大(韓国)は併合後14年で創立されたが、それに対し台北帝大(台湾)は領有後33年後に創立されている。
しかし、韓国は日本統治をことごとく批判するが、
一方の台湾は日本統治を正しく評価している。
※2006年から使用する台湾の高校歴史教科書では日本統治を評価し、19代にわたる台湾総督府の全員の氏名と顔写真が歴史教科書に掲載される。
どこか日本に似ている台湾・・
台湾で神様になった日本兵
※台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている杉浦茂峰兵曹長の写真
杉浦茂峰氏は台湾南部・台南市の飛虎将軍廟に祭られている。
杉浦氏は20歳だった1944(昭和19)年10月に、来襲した米軍機を零戦で迎撃中に被弾した。集落への墜落を避けようと機体を郊外に誘導したため脱出が遅れ、落下傘で降下中に機銃掃射を受け戦死した。
戦後、地元の人々が集落を守るために命を落とした杉浦氏を悼み、落下地点に71年に廟を建設。「飛虎将軍」と呼び、朝夕に「君が代」と「海ゆかば」の演奏を流し弔っている。
また、近年、台湾リピーターの日本人のなかで、静かにブームになっているのが、「八田與一」という人物。
彼は日本の台湾統治時代に台湾南部、嘉義(かぎ)から台南県にかけて広がる大きな嘉南平野を、烏山頭(うさんとう)ダムを作り不毛の地から大穀倉地帯に変えた土木設計者である。
烏山頭ダム 烏山頭ダムの湖
http://www.youtube.com/watch?v=yMesz42iSZ4&feature=youtube_gdataも照会
【中丸啓】台湾で振り返る八紘一宇[桜H27/4/4]より烏山頭ダムに触れるhttps://www.youtube.com/watch?v=I95vMh1OccI
現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。台湾の地元住民の民意と周囲意見で出来上がったユニークな像は、元々固辞していた八田本人の意向を汲み台座は無く地面に直接設置され、その後、国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国の蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。
台湾の人に今でも愛され続ける八田與一氏の銅像
さらに、台湾側からの呼びかけに応じて、日台の有志によって八田與一氏の外代樹夫人の銅像も、八田與一記念公園に建立され、2013年9月1日の外代樹夫人の命日に関係者が出席して除幕式が行われた。(下の写真)
外代樹夫人は、日本の敗戦直後の1945年9月1日、乗船していた船がアメリカ軍の攻撃を受けて先に他界した與一の後を追うように、烏山頭ダムの放水口に投身自死し、台湾の土になっている。
八田與一(はった よいち)夫妻
韓国とは全く逆の立場をとる台湾では、日本統地時代も歴史の一部として大事にしている。日本統治時代に台湾の原生ヒノキなど木材運搬に建設された「阿里山森林鉄道」が1910年に一部開通してから2005年で95年になるが、年間70万人が訪れる台湾有数の景勝地「阿里山」への登山鉄道として活躍している。台湾政府はこの「阿里山森林鉄道」を世界遺産に登録することを検討している。
台南市(台湾南部の古都)では、日本統治時代の建造物を修復し、積極的に活用しようとしている。その一つが市中心街にある「ハヤシ百貨店(台湾では林百貨)」は地元業者が店名を受け継いで、2014年に再開業する。一方、林百貨の近くで同じく、日本統治時代の高級料亭「鶯(うぐいす)」も修復が終わり、2013年12月25日の一般開放にむけ、準備が進められている。「鶯」は1923年に神戸の実業家である天野久吉が開業。これらは商業施設や民間施設であることが特筆される。台湾には各地に日本統治時代の建築物が多数残っており、現在も活用されているケースが多い。台南市の場合も旧台南州庁舎が今は台湾文学館として利用されているのをはじめ、旧州知事(一時は県知事)公邸を修復しレストランや音楽ホールに利用しているが、市内の旧日本陸軍の官舎は芸術団体に無償で貸し出されるなど活用方法は多彩である。
また、日本統治時代の千葉県出身の水道技師浜野弥四郎(1869~1932年)設計の「大規模浄水場」も脚光を浴び一般公開を検討中である。
さらに、戦後に国民党政権時代に破壊された「北白川宮能久親王」(1895年に日清戦争で日本に割譲された台湾を平定するため出征した近衛師団を率いた皇族)を記念する碑が2005年7月に台湾東北部の基隆市に再建され、市の文化財にも指定されている。地元郷土史研究家の蔡英清氏は「国民党時代には日本の遺跡研究もままならなかったが、碑の存在を知る地元住民は近くを通るたびに最敬礼してきた」と語っている。
2013年9月5日の新聞に「台湾人の礼節」とした記事がある。台湾を訪れた中国人の観光客が驚くのは台湾人の「礼儀正しさ・公共の場でのマナー」の良さ。中国人に言わせるとこれは台湾では繁体字(古来から中国が使われている文字)に象徴されるように伝統文化教育を重視している為であると。この説に北京大学で学ぶ台湾の有名作家の息子が中国紙・環球時報のインタビューに答え、「中国の伝統文化を守っているからではなく、日本統治時代の影響だ」と。
太平洋戦争(大東亜戦争)で、日本が東南アジアの国々の独立に影響を与えた国々を△で示す。日本の影響で独立した国は親日国で有名である。
反日国家
朝鮮 ⇒韓国(朝鮮半島南半分)
⇒北朝鮮(朝鮮半島北半分)
中国
親日国家
パラオ諸島(日本が統治)
台湾(日本が統治)
△インドネシア
△マレーシア
△タイ
スリランカ
△インド
カンボジア
※参考
2011年の東日本大震災への各国救援隊人数
トルコ163人、
アメリカ150人
フランス100人以上
オーストラリア75人
イギリス63人
ニュージランド54人
シンガポール48人
ドイツ43人
台湾28人
スイス27人
中国15人
韓国5人
東日本大震災に対する海外から日赤への義援金
1位 米国 29.9億円
2位 台湾 29.2億円
3位 タイ 20.5億円
4位 オマーン 10.7億円
5位 支那 9.1億円
6位 アルジェリア 8.3億円
7位 英国 7.8億円
8位 ベトナム 7.8億円
9位 香港 7.2億円
10位 フランス 6.1億円
11位 スイス 5.5億円
12位 マレーシア 5.1億円
13位 インド 4.8億円
14位 ブラジル 4.8億円
15位 パプアニューギニア 3.2億円
16位 シンガポール 3.1億円
17位 オーストラリア 3.0億円
18位 モンゴル 2.9億円
19位 フィリピン 2.9億円
20位 イタリア 2.7億円
しかるに、当時の朝鮮人民主党(博士の独り言から引用)の菅直人政権は、日本に一番に駆けつけた台湾の救援隊を空港で足止めし、後から駆けつけた韓国隊と中国隊を先に入国させるなど、あからさまな嫌がらせをし、韓国隊と中国隊が先に救援に駆け付けたという既成事実を作っている。
ところで、、朝鮮人は陸士入学が認められていたのに、台湾人はダメであった。それでも台湾の総督府(現在の総統府)の建物は残っているが、朝鮮総督府の建物は1996年に日本の遺物として、きれいさっぱり、当時の金永三大統領の時に忌み嫌われ、取り壊されている。
※朝鮮総督府の建物(下の画像)は韓国の第14代大統領金永三(キム・ヨンサム)によって、1995年までに建物は跡形もなく撤去された。
解体される朝鮮総督府の建物
解体前の朝鮮総督府
朝鮮総督府内の華やかな大理石のメインホール
解体後
一方、 現在も残されている台湾総督府(現在の総統府)の建物(日本の「日」を現す形に建てられている)(下の写真)
※終戦で日本の統治が終わってから、50周年にあたる1995年8月15日に韓国で政府主催の大々的な記念行事が行われた。その目玉が、韓国の国立中央博物館となっていた日本統治時代の朝鮮総督府の建物の取り壊しと撤去である。
「歴史立て直し」を主張していた当時の金永三大統領は、その一環として「民族精気の回復」の名の下に総督府の建物の取り壊しと撤去を行った。
尚、韓国ではH16年3月2日に「反日法」が国会を通過し成立している。
この「反日法」は日本統治時代の韓国民の親日行為を断罪し、歴史に残そうとするものである。
H19年5月3日の新聞には、韓国の大統領直属機関「親日・反民族行為者財産調査委員会」が日本統治時代に日本に協力した9人の子孫が所有する財産(約4億7000万円)を没収、という記事が載った。9人は日韓併合条約を結んだ当時の首相、李完用や日露戦争時に鉄道建設などで日本に協力した団体「一進会」総裁、宋秉畯らで、土地の計約25万5000平方メ-トルが没収された。
その、3ヶ月後の8月14日の新聞には、「親日・反民族行為者財産調査委員会」が日本の植民地支配に協力した「親日派」とされる人物10人の子孫が所有している計105億ウォン(約13億円=公示価格ベ-ス)相当の土地を国有化する決定を下した、と報じている
基本精神は台湾統治と全く同様である。前記〖7〗で記したように荒廃し衰弱しきった大韓帝国を立て直すために日本は台湾以上の物心両面の努力をし、その結果蘇生したのである。
しかし親日的(※付録8)な台湾とは全く異なり、「韓国・朝鮮」は反日が強い。
※2020東京オリンピック開催決定まで盛んに日本の招致活動を妨害した韓国
それは「小中華」意識や「事大主義」が根底にあるからに他ならない。
その結果、今日の韓国では「日本の植民地統治は人類史上最悪だった」と言われており、台湾と違って日本統治を批判し続けている。
朝鮮には中国の属国としての李王朝5百年来の特異な文化と、それに育まれた民族意識がある。これにより、日本の統治と文化的影響をなかなか受け入れなかった状況は想像にかたくない。韓国の李王朝は14世紀末から、約500年間続いた。
その為、現在の韓国文化や韓国人独特の「恨み」性格などは、この時代に原型がつくられたといわれる。ソウルにある景福宮などの古宮や南大門、東大門など古いものはみんな李朝時代のものである。
2013年3月1日、日本統治下の1919年に起こった「3.1独立運動」を記念する式典で、韓国のパク・クネ大統領は「(日本と韓国)の加害者と被害者の立場は、千年の歴史が流れても変わらない」と述べているが、「逆説の日本史」で有名な作家の井沢元彦氏は、この感情は歴史的に韓国人、いや朝鮮民族全体に共通するもので、「恨(ハン)千年」は決して大げさでない、と述べている。
ここで、日本人として納得いかないのは、大統領が言う日本の加害者の立場とは、どのようなことを指すのであろうか。当時の朝鮮総督府は朝鮮半島に貢献はすれど、加害者と言われる筋合いはない。
また朝鮮は唐の時代以来、1000年以上にわたって、中華帝国歴代王朝の属国として半島に安住してきた。それが出来たのも一貫した「事大主義」(強いものになびくまたは従う)を貫いてきたからだろう。このDNAにより、現在でも中国と日本に対する韓国の姿勢は、全く対照的である。強い中国には物言わぬが、お人好しで事なかれ主義で物言わぬ弱い日本には憎悪と批判のオンパレードである。
〔※事大主義:朝鮮民族の思想について昔から言われている。相手が強いときはとにかく自己主張の激しい民族性もこれを押し殺し、我慢どころか追従に走る。相手が弱いとなると情けも容赦なく、寄ってたかって袋叩きをする。敗戦当初の日本国内でも、在日「韓国・朝鮮」人は日本人に対し殺人や横暴を働いている。終戦直後、在日朝鮮人は自らを「戦勝国民」と称し、日本人を「敗戦国民」と呼んだ「不逞朝鮮人」と称された人々が、日本警察の治外法権を盾に、集団で暴行、強姦を繰り返している〕
(※4後術の第十四項参照)
しかし事大主義によって韓民族は卑怯、利己主義、機会主義に堕ちてしまったという指摘もある。李朝末期に活躍していた著名な啓蒙思想家のシンチェホは1135年の「西京の役」で、武官のミヨチョンがキムプシクに敗れてしまったことが、この風潮のきっかけと指摘した。この戦いで朝鮮の仏教は儒教に征服されて、この一戦が朝鮮を1000年来続く事大的、保守的、自縛的思想へと導くきっかけとなり、李朝での「朱子学国教化」で決定的となった。
李朝朝鮮には仏教排斥と朱子学の隆盛の流れがあるが、尊儒斥仏のなかで「小中華」を自負する朱子学者達は、朝鮮半島の伝統文化を破壊することにやっきになった。また、その反面「中華化」のための華化政策を強引に進めようとした。
そしてこれまで拝んでいた釈迦、観音、羅漢などにかわって李朝で奉り祀られたのは、中国の道教の神々というよりは、大国人であった中国人の皇帝や小説のなかの英雄である。多くの宗教はたいてい強烈な排斥性をもっているが、宗教でない朱子学は宗教以上に極端にして無情な排他主義である。朱子学者にとっては、陽明学、仏教、西学、東学などあらゆるものは異端であり、排斥の対象とされた。
そして朱子学の国教化によって、朝鮮では他者に対して絶対不寛容でまったく空疎な空理空論を果てしなく繰り返すという儒教的精神風土が形成された。
現代の韓国の朱子学者達もしっかりこの性質を受け継いでいる。
李朝史全史を見渡して、今日の朝鮮半島をみれば、南北対立や不寛容な民族性は李朝時代から沈殿、蓄積してきたものとも言えよう。また朱子学の国教化により朝鮮の事大主義も完成した。そして先の排斥主義と中華思想を尊び継承していこうという「小中華主義」の自負こそが朝鮮史の底流となっている。
日本の台湾統治と朝鮮統治及び現在の台湾と「韓国・北朝鮮」を比較しても、台湾は親日、「韓国・北朝鮮」は反日であり続けているが、日本の統治政策としては朝鮮統治のほうが格段上であったが、それぞれがたどった昔からの民族の歴史と民族固有の独自性と考え方の違いが、その原因と言えよう。
後述の親父の自分史からも分かるが、朝鮮半島人(朝鮮民族)は民族の歴史と民族固有の独自性及び、その反日のDNAを持っていることは確実である。
一方、台湾人は
海外掲示板
「台湾と日本」より、
アメリカに住んでるからはっきりとは分からないんだけど、おばあちゃんが言うには日本の統治はとても秩序があったらしいよ。だからその時代の人は日本語を学び日本人に同化しようとしてたみたいだね。日本人はとても尊敬されていてたみたいだね
いろんなタクシーの運転手に聞いた話しでは、日本は台湾を日本の一部として長い間支配したようだね。一方中国国民党はその後台湾を支配をしたが短期間で行き詰まり中国を再び制服する準備に失敗した。
− 台湾は中国に対して過去に恨みがあるが、現在も中国の傲慢さと武力制圧しようとしていることに対し対立感情がある。一方台湾と日本は政治的にもイデオロギー的にも似ていて、対中関係も含め様々な問題において見解が一致する。現在の問題は過去の問題よりも重要だということだろう。
− その問題に関する本や論文はたくさん出ているよ。もしこの問題について深く探求したいなら、個人的にお勧めするのは”Contemporary Taiwanese Cultural Nationalism”という本だね。簡単にまとめると、
日本の支配者達は冷酷であったものの、いくつかの理由により年配の台湾人には日本による植民地支配時代を良く思う人達がいる。一つは教育を中心に台湾を近代化させようとしたこと。また、当時の中国本土と比較して、台湾総督府は寛大であり文化的にも政治的にも台湾が大きく発展した。日本からの独立を主張する者もいたが、台湾総督府が台湾固有の文化の発展の中心にあり、台湾の人々に大きな影響を与えた。
それに加え、戦後実質的に中国に植民地支配されたことも関係する。本土の中国人はその後1990年代中頃まで権力を持ち続け、文化的にも政治的にも中国と統一するべきと主張し続けた。
かなり漠然としたまとめなので、間違いがあれば訂正してほしいけど、根本的な部分はこういうところだと思う。台湾の文化はみんなの想像以上にユニークだよ。
話は少しずれるが、韓国の元ノ・ムヒョン大統領は日本の天皇の呼称について、「王」(日王)というべきか「天皇」というべきかは自分は知らないとい言っている。しかし、すでに韓国政府は公式に1998年10月に、当時の金大中大統領が、「国際慣例に従い相手方の呼称を尊重し天皇と呼ぶ」と公式に明確にしているにも関わらずである。
「日王」という表現は「“皇”は中国にしか存在しない」という19世紀以前の中華文明圏の「華夷秩序意識」(※華夷秩序とは「文化の最も進んでいる中国と異民族の関係を表し」歴史は中国を中心に動くという「中華思想」の根拠になっているものを指す)にこだわった意図的な格下げを意味しており、この考え方では、日本は韓国よりも劣位にあたる。ここにも「小中華主義」を自負する民族固有の考え方というものが見えている。
「華夷秩序」について言うなら、これに関した記事がH18年6月の新聞に筑波大学の古田教授が、日本人の「木を見て森を見ぬ東アジア認識」の中に載った。
『30年間、東アジアの研究に携わってきた筆者からみれば、中国人も韓国人も北朝鮮人も日本人が圧倒的に嫌いである。これは否定すべくもない事実で直しようがない。個人的には日本人が好きでも、同族が集まって見解を述べる際には必ず反日になる。なぜならば、日本人は中華の礼(道義)からもっとも遠いところにいる蛮族なのであり、その蛮族が自分達を見下し、侵略し、なすすべもなく茫然自失しているうちに、勝手に敗戦して戦後また繁栄しているから、と見える。「日韓基本条約」の時も、「日中友好条約」の時も、そのような日本からの援助がほしかっただけで、その当時は嫉妬も押し隠して笑顔を向けた。しかし、その微笑が本物でないことは、やがてあらわになったではないか。
そして、戦後ずっと「東アジアの人々は良い人ばかりで話し合えば分かる」といい続けたのは共産主義者であり、社会主義者であり、進歩的文化人であった。(※これに「平和・人権」市民団体等々が含まれる)伝統的なことにかけては右も左もない。日本では「伝統的な善人」や、「国際的な正義派」がいつも国を過つのである』
世界は中国を中心に動くというこの華夷秩序の影響を最も強く受けてきたのは、長い間、中国の属国としてきた朝鮮半島であるが、日本では聖徳太子の時代に中国の属国になるのを拒否してきたため、日本人はこの中国、朝鮮半島に根強いこの「華夷秩序」のことを知るものは少ないし、学校での歴史の教育の中でも教えられていない。また、外交においても中韓との交渉がいつも向こうのペ-スで行われるのは、この思想的背景が日本に抜けているからである。
かって、ホンダの創業者である本田宗一郎は、発展途上国支援の為に台湾と韓国へ技術支援にいった。技術伝授してから、しばらくして台湾から「日本と同じものが作れるようになりました。是非見に来て下さい!」と連絡が入った。
台湾人は腕を上げたことを師である本田宗一郎氏に報告したのであるが、韓国からの連絡は「日本と同じものが作れるようになりました。もう来なくていいです」というもので、韓国はホンダとのライセンス契約を一方的に解消し、エンジンからデザインまで全くのコピ-品を韓国ブランドとして販売始めた。つまり、技術を盗み終わったら「用済み」というわけで、技術提供の代価であるライセンス料すら払わないという韓国人らしい自分勝手な言い分なのである。本田宗一郎は大変失望して、ホンダの社員に「韓国とは絶対かかわるな」と言ったという。
また、H18年の6月に拉致被害者である横田めぐみさんの夫であるといわれている韓国の拉致被害者の金英夫さんの家族の記者会見があった。実はその会見場の後ろには、竹島の写真とともに、韓国語(朝鮮語)で「独島(竹島を韓国では独島という)は水産資源の宝庫。漁業組合は絶対に守りぬく」などというスロ-ガンが書かれてあったが、日本人がハングル文字を読めないのをいいことに、堂々とかかげられていたのであるが、ここにも「韓国・朝鮮」人の何が何でも自分達の主張を押し通そうとする民族性が現れている。
このことは世界でも異常な韓国のスポーツ界にも言えている。
2012年のロンドンオリンピックでサッカー男子3位決定戦後に韓国チームが政治的宣伝活動をしたことについてFIFA賞罰委員会が韓国選手に処罰をしている。
2011年1月25日、アジアカップ準決勝の日韓戦の前半22分、PKを決めた奇誠庸(キ・ソンヨン)はカメラの前に走って行き、左手で顔をかくしぐさの日本人を猿に見立てた‘猿セレモニー’をして日本人を侮辱した。
2006年3月、WBC大会第2ラウンドで日本を破った韓国選手がマウンドに太極旗(韓国国旗)を立てた。
2008年8月、北京五輪で日本を破り、マウンドに韓国旗を立てる韓国選手
2009年3月18日、WBC第2ラウンドで日本を破ってマウンドに韓国旗を立てる韓国選手
鄭夢準FIFA会長、「審判買収して韓国が4強にいった」
NAVER/朝鮮日報(韓国語)
2012-07-04 22:12
鄭夢準(チョン・モンジュン)大韓サッカー協会名誉会長が、2002年ワールドカップ当時の国際サッカー連盟(FIFA)の 関係者たちと経験した秘話を打ち明けた。
鄭名誉会長は4日、ソウル・小公洞(ソゴンドン)のロッテホテルで行われた『2002ワールドカップ10周年記念式』で、「ゼップ・ブラッター現FIFA 会長が『2002年韓日ワールドカップの時、MJ(鄭夢準)が審判を買収して(韓国が)4強まで行った』と話した」と明らかにした。
「韓国の社会と民族性」については、元、東京銀行ソウル支店長をされてきた、湯澤甲雄氏の論文〔儒教朱子学信心に由来する精神疾患「位病」について〕が非常に分かりやすいので、ここに紹介する。
【『位病』(くらいびょう)というのは私の造語でありまして、医学会・言論界で使われる言葉ではありません。ただ、「火病」という「憤怒症候群」が韓国における固有名詞であり、アメリカの精神医学界には、韓国の民族的症候群として収録されています。
この病は、怒りっぽい性質をむりやり抑制する必要のある情況になると、発現しやすいと言われています。それにならうならば『位病』と称する「地位、身分の上下関係症候群」についても、韓国の民族的症候群であるとして、精神医学界の病名が付けられてしかるべしと考えるものです。
それは儒教朱子学の身内至上主義の概念を教義の基本とした信心から発していると思われます。私のいた銀行は、戦後ソウルに最初に開店した外銀という関係もあり、在ソウル外国銀行協会の幹事行として、百十数人の外銀支店長と韓国の国情に関し意見交換する機会がありました。その際、皆さん共通して、韓国の偏執な排他性に不快を表明しておりました。
韓国という国は、身内至上主義によって、絶対的に身内が上の位にあります。
そして、隣人を含む他人については、・・・・千年以上前から私的機関によって記録されていると称される「本貫」(某姓の発祥地と信じられている土地)で立証できない限りは・・・絶対的に服従させる身分に押さえ込んで侮辱しつづけ、その者が苦しみから逃れんとして差し出す供え物や賄賂を取り上げ、他人や下位者の苦しみは当然として見過ごす社会であります。
かって、ロスアンゼルスの韓国人社会と黒人社会の衝突事件がありましたが、韓国人の排他性に原因があると報道されました。戦前、隣国の中国人が朝鮮半島に60万人居住していましたが、日本人がいなくなった戦後、種々の排他的迫害を受けて、いまや僅かに2万人に減少しているとのことです。
また、ベトナム戦争時(※付録9)韓国軍が残した7万人の私生児や北朝鮮に拉致された下層階級漁民500人に対する救援は、いまだに見過ごされています。
たまたま、階層意識を超越して、憐憫(あわれむこと)の情や謙虚の美徳あるいは合理性を主張する人がいれば、それは身内至上主義社会の反逆者として、村八分の仕打ちにあい、脅迫され、殺されることさえ珍しくはないのです。
現に今、在日韓国人で合理的に物事を考える人たちの多くが、宗教信心に染まった本国韓国人から殺人の脅迫を受けて、日本国内における講演会等活動を停止に追い込まれて、沈黙していなければならない事態が起きている情況にある と聞きます。
そのような韓国社会の延長線上の末端に日本の社会があるとされるものですから、日本人を最低の賎民階級以下の奴隷階級に位置づけているのです。
韓国人の感情は絶対的に日本人の感情を抑え込み、日本人が醜悪でなければ納得しないのであります。それが日本人に対する韓国の国民的宗教信心なのです。
最近、韓国大統領が独紙(ドイツの新聞)とのインタビュ-で「日本人が、かっての侵略戦争を歪曲し、正当化したいと思っているのが真の問題だ」と語りました。
無かった侵略戦争(日韓戦争??)をあたかもあったかの如く、100年前の歴史を改ざんし、かつ侵略者のレッテルを貼って、隣国日本を故意に国際的劣位におとしめ、臆面もなく終えんの無い追求を行う姿勢もまさに宗教信心の表れであります。「侵略」という言葉には、国際法によらず占領軍事戦略の一環として開かれた極東国際軍事裁判所において、被告が一方的に押し付けられたものですが、その裁判の推進者であったマッカ-サ-元帥は、その後日本が戦った戦争は、自衛のための戦争であったとトル-マン大統領へ報告し、かつ、米国議会においても証言したように、「侵略」「自衛」の問題は歴史家の判断に委ねるべき問題であります。これは歴史を美化するとか歪曲するとかの問題ではないのです。ところが日韓の間で戦争の痕跡が全く無いものを、ことさらに「侵略」を取り上げて国際的に日本を貶める心情に、痛切な異常を感じます】
更に韓国・韓国人の本質
アメリカ大使宛書信写しより、
湯澤甲雄(元東京銀行ソウル支店長)2013年5月
記
韓国で銀行支店経営してきた経験を踏まえ、日本と朝鮮半島との問題について以下の意見を申し上げます。
韓国人は自分が本当に日本人にしてもらいたい目的があるとき、あるいは財を得たいとき、華夷秩序格下の日本人にお願い事を言うことは沽券にかかわるので言わずに、理解不能な行動に出て日本人を困らせる行動に出ます。日本人が理解できず困りに困ったときに、やおら誰からとも無く本音が知らされます。そして、韓国人が困っていることが理解できなかったのは、日本人が悪いのだと高飛車な態度で礼も言わず当然のこととして目的、財を得て、その後ちゃっかりしています。
韓国は、数々の理解不能な華夷秩序即ち差別の押し付けを我が国に行ってきました。
韓国は戦後、一方的に竹島占拠した上で、挙句に日本漁船拿捕や船員投獄等で日本に貸しを作ったうえで、日本から返還資金を得ていました。
従軍慰安婦、歴史認識の押し付けは、最近韓国にとって金にならなくなりました。
第二第三の河野談話が出なくなったからです。特に安倍内閣によって、永遠の切り札である歴史認識を聞き流されているので、手詰まりに追い込まれて怒っている状況にあります。
朴大統領の中国への傾斜と日本無視政策や米国議会における歴史認識発言も、財に対する欲望の伏線の一環としてとらえるべきであって、韓国経済窮迫の兆候です。
財を得るために北朝鮮は核保有国になろうとしています。財を得るために韓国は、従軍慰安婦、歴史認識等の被害者に懸命になろうとしています。
それは形而的にただただ日本人を最低に位置づけて、差別し汚名を押し着せて罪の意識を抱かせて、自ら被害者となって償い金を得ることです。
一方日本国民は、国連憲章に沿った自由民主主義国家運営を目指しており、かかるゆすりたかりに従う意思は全くありません。
ともかく、日米両国は南北朝鮮半島の両国から、絶対に容認できない病的要求をぶつけられて、窮地にあるのです。
そのような状況にある中に、朴大統領の米議会訪問を受けて発表された米国議会調査局の日米関係報告書は、安倍首相を強固なナショナリストと非難したことは極めて不適切であります。
この報告書は、米国が第二次大戦前に日本国を孤立させた大戦原因の再現に相当し、日本国内の騒擾勃発は避けられません。この報告書に従ったとき、日本国内世論の親米派の退潮を招き、中国の期待通り、早晩沖縄の米軍基地も閉鎖せざるを得ない事態が現実のものとなります。
日本国全体が、否東南アジア全体が中国の傘下に組込まれていく流れができます。そういう中で華夷秩序や属国化に絶対に服さない日本国が再び孤軍戦い続ける道を選ぶかであり、国連憲章の理想の終焉です。
しかし米国議会報告書もこれに対する上述の日本国の対応も、全く馬鹿げており撤回されるべきです。朝鮮半島両国が人工的に仕掛けた問題の無害化を両国に求めることによって、日米は打開策を考えるべきです。
そのために日米は協力と知恵を惜しむべきではありません。
各国イコールとしている国連憲章規定に照らして形而的華夷秩序外交は差別外交であり、国連憲章違反であるとの認識に立って、韓国に対し華夷秩序という差別意識を廃絶し、他国民の基本的人権即ち主権を尊重する啓発を日米両国で地道に行うことによって、将来展望を切り開くべきであります。
そのように目的を条件化した上であれば、世界の自由、正義、平和を維持する責任を果たす意味において、わが国からの経済援助もやむを得ないと思います。
以上
また「韓国・朝鮮」人をあらわす例として、東京都の職員で管理職の試験を拒否され、東京都に損害賠償と受験資格を求め訴訟を起こした在日韓国人の鄭香均氏がいるが、H17年1/26日に最高裁は当然の判断として彼女の請求を退けたが、鄭香均氏が記者会見を開き「世界中に言いたい。日本に来るな、外国人が日本で働くことはロボットになること。人間として扱われない」と怒りをぶちまけているが、この発言はお人好しの日本では許されても決して世界では通用しない発言である。ここに「韓国・朝鮮」人の「自国と他国」の区別がつかず、他の外国人にはない『外国人でありながら、住み着いている国民と同じ権利を何が何でも認めさせようとする、傲慢さと身勝手さ』が表れている。
H19年7月と、11月の産経新聞の「緯度経度」という欄の中で、韓国特派員がそれぞれ韓国人の特異性を次のように載せている。
『日韓比較経営論をやっている韓国人から、こんな小話を聞いたことがある。
新人社員研修で長距離走をやらせると、日本人はお互い「ガンバレ-」などと励ましあいながら走るので落後者は出ず、平凡な記録でほぼ横並びにゴ-ルインする。米国人は他人にはかまわず走るのでトップの記録はいいが、落後者が出る。韓国人はどうか?「米国人に似ているが、遅れた者が前の走者にいじわるして足を引っ張ろうとするかもしれない」在日韓国人の本国ビジネス体験でも、「日本人は自分が頑張って人の上に立とうとするが、韓国人は他人を引きずりおろして上に立とうとする」と聞いたことがある』
また、11月の新聞には
『韓国人の精神世界を物語るキ-ワ-ドのひとつに、「ハン(恨み)」というのがある。簡単に言えば「満たされぬ思いのやるせなさ」という感じか。韓国人はこれが強くて、この心理が多くの場面で人々に作用しているという。そしてこの思いを晴らすことを「ハンプリ(恨みを解く)」という。現代政治史でいえば、金大中政権(1998~2003年)は長く権力から遠ざけられ(百済時代以来1000年以上?)、社会的に差別を受けてきたという「ハン」を背負った全羅道出身者がやっと政権を取り、「ハンプリ」が実現した。次の盧武鉉政権(ノムヒョン:2003~2007年)は、保守・反共の軍事政権だった過去の朴正熙、全斗煥政権時代に政治的にいじめられたという。「ハン」を抱いた親北・左派勢力が政権を握り、その「ハンプリ」をやった。』
一般的に、韓国人は身内至上主義が強いと言われるが、H19年10月の米紙ワシントン・ポストは、韓国人パン・ギムン国連事務総長の就任以来、国連の主要ポストに韓国人が相次いで起用され、「韓国政府の利益を優先している」と国連職員や外交官の間で反発が起きていることを報じている。
また、田中明拓殖大教授は「韓国・朝鮮」人について、『彼らは自分が「この様にあってほしい、又あの様にあってほしい」と思う状況を頭の中に作って、それにもとづいた発言や、行動をしていく。自分達の頭に描かれた構図が「正しいこと、間違った悪い事」を判別する基準であって、それが現実とのすり合わせに耐えるかどうかは問題ではない、例えば盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領はアメリカと対等の関係を結ぶとよく言います。しかし現実はだれがどう見ても両者は対等ではない。だが、韓国はすぐに対等だ対等だという訳です。民族意識というものもこれと同じです』と述べている。
若槻泰雄著の「韓国・朝鮮と日本人」で紹介されている中にも彼ら国民性が見えている。
『戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第2次大戦直後の経験によって更に強まった。
それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちひしがれていた時、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均10倍前後に達した(中略)総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、騒擾(そうじょう:不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱す)のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953~1954年)、ことに覚せい剤の販売量では全体の60~70%を占めるという有様であった』とあるが、これらからも「韓国・朝鮮」人の国民性が見えている。(※5第十四項参照)
日本のマスコミの新聞やラジオでは一部報じられても、「NHKや各民放テレビ各局」などでは、「韓国・朝鮮」人の犯罪や悪事のニュ-スを極力抑えている為に、ほとんど報じないか、又は“アジア系外国人”という例えで報じるが、現在でも「韓国・朝鮮」人の犯罪は、その悪質性が際立つ。
〔※1998年(H10年)~1999年(H11年)にかけ、近畿圏の大阪、神戸を中心に、30件の資産家宅を狙って起きた「カネ、カネ、キンコ」と脅迫する連続強盗事件を、NHKや民放テレビ各局が、犯人を「アジア系外国人」と報じたニュ-スと、その後、1999年(H11年)~2003年(H15年)にかけて、今度は東京都内の資産家宅を狙った強盗傷害事件などが多発し、これをまたも「アジア系外国人」による犯行と報じた「NHKや民放テレビ各局」であるが、これらは韓国人による犯行であることが分っている。〔(週刊文春のH15年2/6日号⇒近畿圏と東京都内の事件共に、逮捕された韓国人が仲間との犯行を自供)また、東京都内の資産家宅を狙った強盗傷害事件から4年以上も遅れて報じているが、H19年9月8日の産経新聞は、H11~H15年にかけての東京都内の資産家宅を狙った強盗傷害事件で、韓国人による犯行を報じている〕
2016年12月には韓国人が福島県内の神社や墓地などを荒らし回り、キツネ像や地蔵様など100体程を破壊した韓国人が逮捕されている。
福島県警白河署は11日までに、福島県泉崎村の神社でキツネの石像などを壊したとして、器物損壊と建造物侵入の疑いで、住所不定、韓国籍の無職、チョン・スンホ容疑者(35)を逮捕した。
福島県では今月に入り、泉崎村の北側に位置する須賀川市、郡山市、福島市の寺や神社などから、仏像や地蔵像が壊されたとの被害届が相次ぎ、損壊数は少なくとも100体近くに上っている。白河署は関連を調べる方針。
逮捕容疑は、9日夜、同県泉崎村の稲荷神社でキツネの石像2体を壊し、さらに本殿に侵入してキツネの木像などを壊した疑い。
署には10日、稲荷神社とは別の寺と神社から石仏が倒されたり、ご神体が壊されたりしたとの届けがあり、署員が白河市内で容疑者を職務質問。犯行を認めたため逮捕した。
大阪 電車突き落としの犯人 朝鮮人
産経は犯人を朝鮮籍と報じるが名前を報じず、毎日は犯人の名前を通名で報じ朝鮮人を報ぜず。
「逮捕されると思って逃げた」「力込めて押したら…」滋賀の28歳男供述
産経 2016. 12/13
女性が突き落とされたJR新今宮駅の環状線ホーム=11日午後10時32分、大阪市浪速区 (安元雄太撮影)
大阪市浪速区のJR新今宮駅のホームにいた女性2人が男に突き飛ばされ、うち1人が線路に転落した事件で、殺人未遂の疑いで大阪府警に逮捕された大津市内の無職男(28)=朝鮮籍=が「逮捕されると思って逃げた」などと供述していることが捜査関係者への取材で分かった。
府警によると、男は転落した女性について「力を込めて体を押したら線路に転落したが、殺そうという気持ちはなかった。」とも供述。女子生徒については「(体を)触っていない」と説明しているという。
男は同駅から逃走した人物と服装などが酷似しており、無銭飲食をした疑いで11日夜、愛知県警に身柄を確保されていた。府警には13日未明に移送された。
◇新今宮駅の防犯カメラ映像から分かる
毎日新聞2016. 12/14(水) 2:30配信
大阪市浪速区のJR大阪環状線新今宮駅のホームで女性2人が突き飛ばされ、うち1人が転落した事件で、駅の防犯カメラ映像から2人を含む少なくとも4人が中川晃大(あきひろ)容疑者(28)=殺人未遂容疑で逮捕=とみられる男に背中を押されていたことが13日、捜査関係者への取材で分かった。大阪府警は中川容疑者が無差別に女性らを突き落とそうとした可能性があるとみている。
捜査関係者によると、駅の防犯カメラには11日午後5時ごろ、中川容疑者とみられる男が事件現場のホームに降車する様子が映っていた。男はその直後から、約4分間にわたり自分の肩を別の客にぶつけながらホームを歩き回り、2人を含む少なくとも4人の背中を次々に押したという。
中川容疑者は女性1人をホームに転落させたことは認めているが、「殺そうなんて気持ちはなかった」と話しており、府警は動機について慎重に調べている。
日本国内での来日外国人による犯罪は多い順から中国人、次いで「韓国・朝鮮」人が定番のように、毎年の犯罪の傾向として明らかとなっているが、在日外国人犯罪(永住権を持つ「韓国・朝鮮」人など)で見ると「韓国・朝鮮」人が圧倒的に他の外国人より抜きん出て多い。⇒※第十四項を参照
マスコミ、特にNHKや民放テレビ各社が、ニュ-スとして報じる場合、中国人の場合は中国人、韓国人の場合は事件が起きて数年経ってから報じることも時にあり、また、韓国人という言葉を出すことはめったになく、“アジア系外国人”として報じられる。
このマスコミで使うアジア系外国人という言葉も、○○様や○流ブ-ムなどと同じく、マスコミが意図して作った言葉である。
なぜなら、外国人犯罪のニュ-スで、東南アジア系外国人という言葉が使われるならば、地域を全く特定できないアジア系外国人という非常にあいまいな言葉でなく、顔つきや片言の言葉などからしても、少なくとも東アジア系外国人か、または北東アジア系外国人、極東アジア系外国人として、報じるべきである。
※◆▼H19年11月13日のテレビ朝日の夕方流す「Jチャンネル」で、料金パ-キングやその他のパ-キングの放置車両を調査し、撤去する専門会社に密着取材した放送の中で、料金パ-キングに1ヶ月以上無断放置された車の持ち主を、この放置車両撤去専門会社の人が、“持ち主は韓国人ですね”、と言っているにも関わらず、テレビ朝日はナレ-タ-とテロップで、この持ち主は「アジア系外国人」であると伝えていたが、大変偏った非常におかしなテレビ局の姿がここにある。
これら「韓国・朝鮮」人の犯罪は際立って多いが、それは例えば、以下の2003年(H15年)の外国人犯罪の数字からも明らかである。
犯罪全体の約6割を中国人と「韓国・朝鮮」人が占めるが、地理的条件と人口比率〔※中国人口13億人対「韓国・朝鮮」の人口約7千万人(韓国5千万人・北朝鮮2千万人)〕およそ、13対0.7及び、「韓国・朝鮮」の内、北朝鮮とは国交がない、つまり、人の往来が殆ど無いことを考慮して比べれば、いかに韓国人の犯罪が突出しているかが見えてくる。
日本国内での2003年(H15年)の外国人〔(在日「韓国・朝鮮」人は含まれず)⇒ここにも日本のおかしな姿が〕の刑法犯の総件数は52.354件、また、刑法犯の総人数は27.007人。
(※刑法犯とは○○罪と名前がつく犯罪で、例えば「強姦罪、詐欺罪、窃盗罪、殺人罪」等々が該当し、特別刑法犯とは、○○違反と名前がつく犯罪、例えば「覚せい剤取締法違反、道路交通法違反、入管難民法違反、売春防止法違反」、等々が該当)
以下の数字は警察庁の調べ、〔 〕内は件数とその全体に占める割合、及び刑法犯の人員数
(※総数による順位)
1位中国 〔18625件(総件数の36 %) :10215人〕
2位「韓国・朝鮮」〔11692件(総件数の22 %) :6740人〕
3位ブラジル 〔 5110件(総件数の 9.8%) : 1405人〕
「韓国・朝鮮」人の犯罪については、2003年(H15年)の外国人の犯罪検挙数、刑法犯の人員数からも際立つが、さらに、その犯罪は、犯行の内容からも「韓国・朝鮮」人の特異性が際立って見えてくる。
〔2003年度の刑法犯の検挙数の内容別、順位比較は件数:警察庁調べより〕
★殺人 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★強姦 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★暴行 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★恐喝 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★脅迫 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 イラン人
★詐欺 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★放火 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 フィリピン人
★傷害 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
★横領 1位「韓国・朝鮮」人 2位 中国人 3位 ブラジル人
☆偽造 1位 中国人 2位「韓国・朝鮮」人 3位 ブラジル人
☆窃盗 1位 中国人 2位「韓国・朝鮮」人 3位 ブラジル人
☆強盗 1位 中国人 2位 ブラジル人 3位「韓国・朝鮮」人
因みに、H25年9月6日、韓国紙・朝鮮日報(電子版)は実の娘を9年間にわたって強姦し続けた53歳の男が起訴された、と次のように報じている。
去年(2012年)判決の出たレイプ事件を韓国メディアはこう報じた。
17歳の女子高生が交通事故に遭った。運転していた男たちが、事故で怪我を負った女子高生を車に乗せ、人気のないところで強姦した非道な事件である。
2006年には、伝説的な3連続強姦事件も起きた。
強姦の被害に遭った16歳の女子高生が、被害を相談した別の男にもレイプされ、警察に届け出るために乗ったタクシーの運転手にまで強姦された。
女子高生は警察の事情聴取に、「すべての男たちがケダモノのようで、外に出るのが恐ろしい」と語った。
“性犯罪大国”韓国は統計上も明らかだ。
国連麻薬犯罪事務所(UNODC)が’10年に発表した資料によると、韓国の10万人あたりの強姦件数13.3件は、日本の1.5件の8.9倍にも達する。
「最近目立つのは、性犯罪の被害者が高年齢と低年齢層にも広がっていることです。
上は80代から、下は10代どころか、ひと桁の年齢にまで被害が広がっています。
また、知的障害者や身体障害者など社会的弱者が被害に遭うケースも増えています」
(元時事通信ソウル特派員・室谷克実氏)
今年(2013年)2月には、31歳の男が80代女性を強姦しようとして殺害する事件が発生。
また、加害者も低年齢化しており、今年3月には、小学生男児3人が20代の知的障害女性を性的に暴行していた事件が発覚した。
男児らはじゃんけんで、暴行する順番を決めていたという。
性犯罪の被害者は外国人にもおよんでいる。
韓国警察庁によれば、今年1~6月に韓国国内で起きた外国人に対する性暴力事件は前年から66.3%増の271件に達した。
欧米諸国では韓国への渡航者向けにこんな注意を呼びかけている。
「ソウルの人気のナイトライフ地区や住宅地で、レイプ事件が報告されている。
夜に外出するときは注意し、タクシーや公共交通機関を使用しましょう」
(イギリス外務省)
「暗くなってからの一人での外出は避けてください。外国人に対する性的暴行が発生しています」
(カナダ外務省)
ところで、日本語では罵倒語という言葉はあまり発達していないが「韓国・朝鮮」ではうっぷんをはらすハケ口として罵倒語が発達しており、その結果1500位の罵倒語があると言われている。
「コリアタブ-を解く」という本の「はしがき」の中に、韓国人と日本人の違いについてこう書かれている。「日本人は人前で感情を出して他人を責めることはなるべくしないようにする。例えば夫婦喧嘩をしていてもお客さんが来るととたんに一時休戦となりニコニコと応対をする。ところが韓国人はむしろ人前では大声でいかに自分が正しいかを主張する。日本人があまり反論しないから韓国側は自分達の主張が通ったものと誤解し、後でそうではないのを知って、いよいよ怒りをつのらせる。一方、日本側は激しい感情的批判が続くので、正面から反論せず、陰に回って韓国人はしつこいと悪口を言う」とあるが、これは実に日本人と韓国人の本質を捉えており、世界的に物言わぬ日本人とは正反対に、世界的に突出して、ものを言う韓国人の姿がある。
また、バカみたいな話であるが、この小中華主義や華夷秩序にもとづく考えで、韓国は兄で、日本は弟という考えが歴然と韓国国内で存在しているが、これは長らく歴代支那王朝を宗主国と仰ぎ、何事も支那一辺倒の事大主義が習い性となっている韓国人は、今でも文化的には日本は韓国の下と見下げる誤りに満ちた偏見と思い上がった傲慢な心を捨て切れずにいる。それゆえ自分より下にあるべき日本に支配されたことは口惜しくて仕方がなく、「日韓併合」の正当性、欧米植民地支配とは比較にならぬすぐれた日本の統治、立派な業績に対して冷静な評価をなしえないのである。
※★◆ 5ペ-ジの偏向マスコミのところで取り上げている「第18光洋丸事件」であるが、この漁船が所属している鳥取県境港の共和水産会社の話しでは、行方不明の6人は2007年(H19年)8月2日現在も、まだ見つかっていない。
加害者である韓国側の貨物船所有の興亜海運会社からは、遺族への謝罪賠償は全くなし。「第18光洋丸」所属の共和水産会社に簡単な謝罪の電話一本で済ませている。
★H17年3月には山形県の蔵王温泉スキ-場で遭難した韓国人5人が地元民などの協力で救出されたにもかかわらず、「日韓両国の懸案である竹島問題」などを持ち出し捜索費用の支払いを拒否している(3ヶ月以上も音沙汰なしで実質の踏み倒しの状態)また、“実名で報道された”と損害賠償訴訟をおこすという発言まで飛び出している。
★さらに、この年(H17年)の9月~10月にかけ、高知県を舞台に撮影された韓国映画「Sweet Dreams」の経費であるスタッフなどの滞在費等、約5700万円を踏み倒して帰国していることが、高知県議会12月定例会の産業経済委員会で指摘されている。
〖第九項〗「強制連行」の名のもとに、これまで国内、外での悪用の実態
例えば政界を引退した自民党の元幹事長の野中広務氏は北朝鮮外交では日本が過去に彼らを強制連行して酷い目にあわせた事実を踏まえて対処しなければならないと発言した。(平成9年10月、自民党朝鮮問題小委員会)また、野中広務氏は翌年には「拉致疑惑があるから食料を送るな」の意見は強いが、北朝鮮とは「従軍慰安婦や植民地、強制連行があった」と、全く無知な発言をしている。
このように自民党の幹事長や官房長官を歴任してきた元国会議員でさえ、日本統治時代の朝鮮及び朝鮮との歴史認識を全く持ちあわせていないが、これは野中氏だけに限らず、多くの日本の国会議員の姿でもある。
また、マスコミにおいても、例えば2003年1月25日放送のNHKの総合テレビ、「週刊こどもニュ-ス」の中で、番組の意図が脱北者の日本への受け入れ画策と思われる内容の中で、「日本に戻りたい脱北者とは」について放送している。
放送は、この脱北者の中で日本に住んでいた朝鮮人(北朝鮮に渡るまでは在日朝鮮人であった)について次のように取り上げている。
『いまから90年以上前の1910年、強い軍隊を持っていた日本は、当時の大韓帝国と条約つまり約束を結んで、朝鮮半島を日本の領土として支配するようになりました。これを「韓国併合」といいます。この支配は36年間続きました。
その間に日本に連れてこられたり、朝鮮半島で土地や仕事を失ったために、日本にやってきたりして住みついた人たちが大勢います。1945年、日本が第2次大戦に負けたとき、日本には200万人もの朝鮮半島出身者がいました。日本が負けると多くの人はふるさとに帰っていきました。でも、帰っても家族も土地も仕事もなく、日本でだったら仕事や住む場所があるという人(⇒日本が負けて韓国へ帰って行った人は戦時動員や、不正渡航の出稼ぎで日本に来た人々であり、韓国(ふるさと)へ帰っても家や土地、家族などが待っていたが、密航してくる朝鮮人は、大抵最低30円ないし40円くらいの金を密航ブロ-カ-に渡す為、その金をつくるのに自分の家、屋敷、田畑、その他を売って無一文で家族ごと日本に密航して来たために、韓国へ帰っても家族も土地も仕事もない、というのが真実)の中には、そのまま日本に残った人たちがいました。この人たちは「在日朝鮮人」と呼ばれています・・・』という内容で放送されているが、このNHKの放送も歴史教科書同様に全くデタラメなウソでまとめられ、実態とは大きくかけ離れすぎている。
一番に問題にしたいのは、このようなNHKという公共放送でも、在日「韓国・朝鮮」人という実態を隠し、多くの国民に“間違った認識”を植えつけていることにある。⇒(NHKの放送番組審議会の理事はいったい何を審議しているのか!)
歴史教科書や、このNHKがテレビで放送したように、“在日「韓国・朝鮮」人について取り上げるとき” 必ず日本にやって来た理由の一つに、「強制連行?」以外に朝鮮総督府によって“「土地を取り上げられた」や「土地を失った」”とする話を必ず持ち出すが、歴史教科書やNHKは何を根拠に「土地を取り上げられた」や「土地を失った」とするのか、非常に理解に苦しむが、その歴史教科書もマスコミも、未だにその根拠を示していない。
この歴史教科書やNHKなどのマスコミが、在日「韓国・朝鮮」人が日本にやって来た根拠とするのは「強制連行?」以外に、朝鮮総督府の土地調査事業による「土地を取り上げられた」や「土地を失った」である。
しかし、これが全くのデタラメであることは、「土地を取り上げられた」や、「土地を失った」とする当時の朝鮮総督府の土地調査事業が行われた期間内における、
内地(日本)の朝鮮人人口の推移を見れば、一目瞭然である。
土地調査事業は、1910から1918年まで行われている。
マスコミや教科書などが、在日が日本に存在する理由の一つとしている「土地を取り上げられた」や「土地を失った」とするのは、この期間である。
しかし、土地を取り上げられたとするこの期間の内地(日本)の朝鮮人人口の推移は、日本が朝鮮を統治した足かけ36年間の内地(日本)の朝鮮人の人口急増の推移(併合当初は790人であったが、終戦時は200万人以上)から見れば、僅か約2千人~2万人という数字であり、マスコミや教科書がその根拠とする「土地を取り上げられた」や「土地を失った」が、全くのウソであることが分かる。
内地の朝鮮人人口が急激に増え出すのは、この土地調査事業が終ってから10年以上も経った1930年頃(1930年頃で約30万人、これ以降は年を追うごとに在日人口が急増する)からであり、その根拠は全く否定される。
〔※第四項の中の日本の統治期間の在日「韓国・朝鮮」人の人口推移(P41)参照〕
「強制連行」?については、歴史教科書だけでなく中学社会の公民教科書にもその被害は及んでいる。例えば2001年の日本書籍では、次のようなデタラメな記述が載せられている。
「日本には、かって日本が植民地とした朝鮮や台湾から、強制連行などで移住させられた多数の人々の子孫がいる。・・・」また、2002年版の帝国書院の教科書では「わがくにで、もっとも多い外国人を知っていますか。それは、多くが戦時中に強制連行されてきた人々とその子孫である在日韓国・朝鮮人です。・・・」など、ほんとにデタラメな記述が多いが、これらが
また、問題の歴史教科書に於いても、実は日本の多くの教科書が「朝鮮人70万人が強制連行された」と書いている。2002年版の山川出版社から出ている高校生の日本史Aには、次のように記述がされている。
「朝鮮人や中国人の多くの人びとを日本へ強制連行し、鉱山や炭鉱、ダムの建設など危険な場所での労働を強制し、多くの死傷者を出した。強制連行をされた朝鮮人は70万にのぼるといわれる」
これらの「歴史・公民」教科書のデタラメな記述が平然と日本の教科書に載っているところを見ても、日本の中学生・高校生の歴史教育の異常な一面が見えている。
朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」が教科書に載せられるようになったのは、
1982年(昭和57年)の「侵略」が「進出」に書き替えられた事実がなかったにもかかわらず、朝日新聞及びその他の各新聞社、NHKなどが、書き替えがあったとした歴史教科書虚報事件(これは日本のマスコミによって故意に起こされた)以降のことである。
この間違った故意による事件の後、今後は検定基準を変えて近隣諸国に配慮するという当時の「宮沢官房長官談話」(近隣諸国条項)が出た。
「教科書の記述を是正し、検定基準を改める(※改悪になる)」とした当時の宮沢官房長官(鈴木善幸内閣)談話に基づき近隣諸国条項が検定基準に追加された為に、教科書調査官や教科用図書検定調査審議委員らは、日中、日韓関係の記述について、ほとんど何も言えなくなっているのが現状である。
とは言え、おかしなことに国(外務省)が昭和34年に「強制連行」はなかったと否定しているにもかかわらず、昭和57年以降の教科書検定から、日教組の先生らによる「強制連行」の記述を載せている歴史教科書を国(文部省)は合格させつづけている。
ここで問題となった〈「中国への侵略」とする、歴史解釈〉であるが、現在の歴史見解は平成7年の村山富一首相談話を踏襲しており、その戦争が自衛か侵略かについての判別は、国際法上で“自己決定権”” が認められているにも関わらず、自ら「侵略行為」と認めた、日本の政治家のあまりにも不甲斐ない不見識には、日本の政治家としての資質を疑わざるおえない。
これらを受けて、当時の韓国の全斗煥大統領は公式「外交文書」として日本政府に歴史教科書の39項目の是正要求資料を渡したが、
ここに韓国政府が、日本の教科書検定に関与するようになった。
(内政干渉を教科書検定でもゆるしているが、全ては日本政府の責任である)
韓国政府の是正要求は日本政府の検定の仕方に対する注文だけでなく、原稿そのものの書き直しをも求めるもので、事実上の検閲だが、それに対して日本政府は外国政府の検閲は受け入れられないと、その文書をつき返すのが正常な国家の当然取るべきアクションであったが、反論の一つもしなかったのである。
それ以降は韓国側の是正要求に関して、韓国政府の要求を利用する形で原稿そのものが書き替えられ、それにも検定意見がつけられなくなっており、結果的にその後の歴史教科書は「日教組」の先生など左翼自虐史観派の書き放題というのが、4年に一度の「歴史教科書改訂」時の実態である。
「歴史教科書虚報事件」のようにマスコミが故意に流布した事件が中国と韓国に日本攻撃の火種を与えた背景には、これを拡大しようとした日本の朝日新聞、NHKをはじめとするマスコミの左翼反日勢力の策動があったことは明らかな事実で、将来につながる大きな問題である。
これら反日偏向マスコミの振る舞いは、火のないところへ煙を立て韓国や中国に出向いては“ご注進”を繰り返し、教科書に加えて「強制連行、従軍慰安婦、靖国参拝、南京虐殺・・・」と、「韓国・朝鮮」や中国の立場にたって煽り立ててきたことであるが、その上、「日本の野党をはじめ与党の一部首脳」が反省と恭順を繰り返すという“反国家姿勢をとり続けている”というのが今の日本国の政治の現状でもある。
※尚、いまだにNHKや、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞・・・などのマスコミは勝手に虚報事件を報道しておきながらも、産経を除き訂正の報道さえしていない。
その為、多くの日本国民は、「中国・韓国」と日本との「歴史教科書問題」の発端は何が原因であったのか?を知らない国民が多い。
一方、北朝鮮においては、日本人拉致事件問題を希薄化させるため、戦前、戦中の「朝鮮人強制連行」という実態が虚構である話を持ち出している。
平成15年11月の朝鮮中央通信の報道では、北朝鮮は「強制連行」などの補償問題を協議する政府間会談を行うよう日本に提案をしている。
また、平成16年4月に中国の大連で行われた北朝鮮側と自民党の山崎拓氏、平沢勝栄氏との会談でも、9時間の会談中6時間は「強制連行」などの謝罪要求の話に費やされたという。
「韓国・朝鮮」は「強制連行」や従軍慰安婦強制連行問題(これも造語の全くのデタラメ話である)など虚構を正当化し外交交渉で圧力をかけており、世界でも有数の質が悪い国であるが、それ以上に質が悪過ぎるのは日本の反動政治家、ならびに「日教組」を筆頭とする反日反動勢力や反日偏向マスメディアである。
※日本のマスコミは以外と反日であるが、多くの国民は無頓着である。例えば、インタ-ネット世論調査のリアヨロで、「今のNHKは反日だと思いますか」という調査の結果、完全に反日であるが52.78%、どちらかといえば反日であるが31.79%という結果で、合わせて89.57%の人が反日であるという結果を出している。
また、2007年(H19年)10月22日、NHK総合テレビや衛星放送BS1の定時のニュ-スで、韓国人の在外被爆者賠償訴訟について、報道がされているが、この中でNHKは「戦時中に強制連行されて広島で被爆した韓国人・・・」と、ここでも軽々しく「強制連行」という言葉を持ち出している。
ちなみに、この報道の翌日の新聞各社の記事を見比べると、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞は「強制連行」とし、産経新聞は「強制的に連行」としており、朝日新聞だけが、この記事のなかで「強制連行」という造語や「強制的に連行」という言葉を、一切、用いていない。
現在の日本は、中国、韓国に新政権が出来ると、中国、韓国への謝罪が慣例となっているが、この日本の主なる政治家達が、歴史を顧みずに謝罪することがいかに日本の国益や主権を害しているかが分っていない。またその結果、反日政治家となっているのが現状でもある。
世界でも悪名高い北朝鮮の金正日は、相手国との交渉では捏造話の「強制連行」で自国に有利な交渉に徹するが、かたや日本の主なる政治家達はこの捏造話を真に受けており、世界でも例をみない国家の利益や主権などを無視続ける外交が行われており、本当に情けない限りであるが、政治家だけでなく、官僚においても同じことがいえ、今後も「国益・主権」を損なう外交が続くのは間違いない。
〖第十項〗 『「強制連行」の虚構が及ぼす悪影響』
全国の殆どの中学生、高校生が学ばされている歴史教科書の中の朴慶植の「朝鮮人強制連行の記録」が、これからの日本を背負う若者に「間違った歴史観」と「自虐史観」を植え付けている点で、影響が計り知れなく大きいことは、最初に厳しく指摘されなければならない。
実は、この自虐史観は子供だけでなく、多くの日本の大人も同様である。
この為、自己の自虐史観などから判断をし、また在日「韓国・朝鮮」人及びこれらの団体からの要求を呑む事例が沢山ある。
例えば滋賀県の学校(H17年度の例)の教職員の『在日コリアンの来歴』の扱いは滋賀県教育委員会の指導指針にあるように、『現在、我が国に暮らす「韓国・朝鮮」人の多くは、1910年の韓国併合後の植民地政策によって土地を奪われ、祖国を離れ、日本に住むことを余儀なくされた人々とその2世・3世・4世である』という考えに加え、「強制連行」の被害者という認識が強く打ち出されており、それに沿った授業が実際に行われている。
この滋賀県の学校以外にも、日本の加害性と在日コリアンの被害性が誇張されすぎた授業内容が全国で展開されている。
この県教育委員会や市教育委員会の在日「韓国・朝鮮」人に対する認識も問題であるが、これらの原因の中に、在日団体の要求内容をそのまま取り入れて、
教育委員会が指導方針を作っているという。
このような「韓国・朝鮮」人に偏った教育方針で生徒たちを教育していけば、北朝鮮の工作員も日本に長く住めば、公務員にもなれ、また参政権も得ることが出来るということにもなっていく。
一方、民団の1世への聞き取り調査で明らかになったところの
☆現在の在日「韓国・朝鮮」人は戦争での「徴用」(強制連行?)ではなく、戦争以前の1930年代前半頃に自ら不正に渡日してきたこと
(実態が反映されているのは1920年代中頃~1930年代中ごろ)
☆働く場を求めて、密航や不正渡航で渡日してきたこと
☆戦後、朝鮮戦争の戦乱を逃れるために密航してきたこと等々があり、これら以外に戦後、戦乱とは別に密航で日本にやって来た人たちが、かなりの数にのぼることが指敵されているが、その実態には絶対に触れない授業が現に行われているし、また、マスコミも一切、触れることはない。
また、近年では2002年の小泉総理の平壌宣言の第2項に在日朝鮮人の地位に関する一文があり、これについて北朝鮮からの要求で2003年9月に文部科学省は朝鮮学校の国立大学への受験資格を認めたが、官邸はさらにこの範囲を広げるよう文部科学省に指示を出している。
このような「韓国・朝鮮」の要求はとめどもなく続いているが、大阪府堺市では1984年(昭和59年)から朝鮮人学校に300万近くの補助金を毎年出してきた。
2004年(平成16年)は拉致事件以降、生徒が減少して休校になっているにもかかわらず、市は224万円の補助金を予算計上して問題になっている。
また現在、大阪市では大阪市教育委員会が民団系団体の要望を受けて、市内各地に民族学級を増設し、市立高校における韓国・朝鮮語授業の拡大についても、現在の8校から25校全てに開設されるよう指導していくと言明している。
さらに、授業で取り上げるのが日本の民話ならうなずけるものの、大阪の八尾市にある八尾小学校では3年生の2学期の国語の授業で韓国の民話「三年とうげ」を取り上げ、さらに図工の時間にも「三年とうげ」にちなんで韓国の伝統面を作らせたり、学年末の発表会にも「三年とうげ」を韓国の民族衣装を着せて芝居させたり、民族楽器で演奏させたりしているという。
これらはとても日本の小学校の授業風景とは思われないし、どこから見てもこれは韓国の小学校の授業ではないかという信じられない事が現におこっている。
また、その大阪府八尾市の市立小学校では、平成13年からの卒業式に韓国国旗を掲げるという信じられない事も起こっている(H14年4月11日新聞)。また同じ府立の高校では卒業式に「韓国・朝鮮」国歌などの外国国歌を流すという驚くべき事も起こっている。現在、大阪を中心に「韓国・朝鮮」との交流がさかんであるが、この中には民族の文化と称し、朝鮮のあやしげな農楽を日本の児童にやらせたり、歴史の真実を語る資料として「侵略の歴史」の資料を朝鮮学校から日本の児童生徒に流したりしている。
現在、大阪府内には在日コリアンの子供を対象に民族の言葉や文化を教える民族学級を設けている公立の小中学校が170校以上もあるが、これは明らかに間違っており、民族教育を行いたければ自分達で学校を持って教えるべきであり、また、これを認めている大阪の行政も歯車が狂っている。
つまり、朝鮮学校の教育内容が日本の学校に持ち込まれておるばかりでなく、朝鮮学校を普通の私立や公立学校と同じ身分の学校にする運動さえ盛んに行われており、大変危惧すべき状況になっている。
(※文部科学省が2007年(H19年)に実施した全国学力テストの結果が、この年の10月24日に公表されたが、大阪は小学校、中学校ともに全国47都道府県中45位である。)
さらに、同様に神奈川県平塚市の市立中学校でも、各教科で「韓国や人権」のことを扱えということになり、国語は平成9年頃から教科書の会社を変えて
在日韓国人の作文を載せたものにしている。これは平塚だけでなく、大磯、秦野、二ノ宮、伊勢原の国語が全部変わった。その他、美術、社会、家庭科、体育で、韓国の絵だの料理や文化を扱い理科や数学では人権を扱った、という事例もある。このように「日教組」が在日「韓国・朝鮮」人の団体や、「平和・人権」市民団体などと結託して、日本の教育をなしくずしにしている。
さらに、日教組〔結成されたのは1947年(昭和22年)で基本思想は左翼の「反日・亡国・自虐」教育〕の影響が強い広島県立世羅高校では、男女生徒約200人が1998年(H10年)10月、修学旅行で韓国のソウルを訪れ、独立運動記念塔前で、ひざを折ってすわり、左翼主張の定番である「日帝侵略と植民地蛮行」を謝罪する文章を朗読している。
このように、教育に「韓国・朝鮮」人の人権や民話や農楽などいうのを持ち込んだり、韓国に行って謝罪文を読み上げさせるような教育を行う日教組であるが、この日教組(日本教職員組合)に所属する教員自体が日本の朝鮮統治の真の実態を知らず、左翼主観むき出しの教育に専念しているが、これまでのような事例は調べれば、まだまだ全国では沢山あり、教育の崩壊が叫ばれ続けている。
さらに、国家的には国民(その国を構成し、その国の国籍を持つ人)の、一大祭典である国民体育大会(国体)に朝鮮高級学校などの在日の「韓国・朝鮮」人に対し、ほぼ全面的に門戸を開放しようとすることも明らかになっており、国民体育大会とは一体何なのか、というその意義そのものが失われようとしている。〔※すでに小泉総理の時、2005年(H17年)の第60回、岡山国体から、朝鮮高級学校などの在日「韓国・朝鮮」人の参加が認められている〕
〖第十一項〗 『これこそが真の強制連行!』
真の「強制連行」については、日本国民の多くが知らないところの、これこそが真の「強制連行」であるスタ-リンの旧ソ連による「日本人強制連行」がある。日本ではシベリア抑留問題と呼ばれ、旧ソ連では捕虜問題とされている。
この「強制連行」は、1945年(昭和20年)8月9日未明、ソ連が日本に対して、日ソ中立不可侵条約を破棄して、宣戦を布告したソ連の対日参戦が直接の結果である。
ソ連軍は日本の満州帝国や日本統治の朝鮮半島北部(現在の北朝鮮北部)に軍事侵攻した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日(日本が終戦したのは8月15日)には日本領の南樺太へ、また、8月18日には千島列島(日本の北方領土)にも侵攻して占領した。
〔※これらのソ連の侵攻の裏には、ソ連とアメリカ・イギリスの密約であるヤルタ協定がある〕
1945年8月18日には満州帝国が戦闘で滅亡したため、関東軍総司令官であった山田乙三大将とソ連極東軍司令官ワシレフスキ-元帥が、翌日19日に停戦交渉に入って、8月26日頃にはソ連軍との全ての戦闘が終わった。
満州での停戦会談で、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たかに思えたが、ソ連軍がその通りに行うことはなく、日本軍が崩壊した後の民間人は何の保護も受けられず、女性では暴行・強姦などの被害を受け、軍人だけでなく民間人の多くもシベリアに「強制連行」された。
シベリアに「強制連行」された日本人は、その過酷で劣悪な環境の下で強制労働を強いられたが、一方では、日本人に定期的に共産主義の教育が施された。
もともと共産主義であった者や、隠れ共産党員であつた抑留者は大手を振った行動が許されている。
また、「共産主義教育」によって感化された抑留者も多数いるが、これら、元々の共産主義者や思想教育で共産主義に感化した人たちは、早々に日本への帰国が許されているという裏の現実もある。
【七項〗李朝時代の大韓帝国の実態と朝鮮総督府の施策の始めの方で、朝鮮総督府時代に今の北朝鮮で穀物検査員をしていた隣に住んでいたシベリアへ抑留されたオジサンであるが、色々な話をしていると何か日本国に対し、愛国心と言わないまでも、尊敬や敬意も全くないように思ったが、 2017.1.13 の産経に旧ソ連が抑留者に対し、「赤化(共産主義化)」工作していたことが、記載されていたが、実感としてうなずけるものである。
外務省が外交文書を公開 戦後ソ連の日本軍捕虜「赤化工作」が明らかに 政府に危機感「相当な効果」
戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態が12日公開された外交文書で明らかになった。当時のソ連は、抑留者の中からアクチブ(活動分子)を養成し、ソ連の協力者として帰国させ、日本を共産主義化しようとしていた。文書ではソ連の工作が「相当な効果を上げている」と分析され、日本政府が危機感を強めていたことがうかがえる。
公開された文書は、抑留を経て帰国したハルビン総領事館員が昭和23年12月に作成した報告書。それによると、ソ連当局は日本軍の序列を維持しながら支え合ってきた将校と兵の感情的な溝につけ込んで両者を分断し、収容所の「民主化」を宣伝。各収容所には「民主グループ」が組織され、将校たちから収容所内の実権を奪っていった。
グループは民主会、反ファシスト委員会と名称を変えつつ勢力を拡大。壁新聞を発行し、批判会や夜間講習会も開催した。収容所では「天皇制打倒」「祖国日本を米国の植民地化から救え」などのスローガンが派手な色彩で描かれ、レーニンやスターリンらソ連共産党幹部の肖像画が掲げられた。赤旗が翻り、革命歌もやまなかったと報告されている。
先の満州での停戦会談についても、関東軍の参謀を務めていた瀬島隆三が同行した日本側交渉団とソ連側との間で「日本側が日本人の抑留と使役を自ら申し出た」という密約が結ばれている。
シベリア「強制連行」には、日本政府機関も含めて、多くの明らかにされていない事実が存在するが、日本兵として戦時中の満州での任務や、ソ連に「強制連行」された体験をつづった璦琿第六国境守備隊員清水寳一(しみずたかいち)著の「北辺の青春」の中にも、密約について以下のようにつづられている。
『終戦即帰国、満州の土地に踏み留る事はできない。ハルピンの家にも現地人が住んでいるであろう。そのまま一直線に南下し、日本本土の土が踏めるものと思っていたところが、そうはいかなかった。孫呉(※地名)で待機して居り、順次南下帰国待ちと思っていたのは、とんだ誤算であった。後で判明したのだが、全国民周知の通り、スタ-リン、関東軍上層部、日本共産党幹部等の計らいで、シベリア送りと決まっていたらしい。それも戦後復興にどうぞお使い下さいと、熨斗(のし)付でシベリアに送り込んだらしい』
この「シベリア強制連行」については、新聞などで新たな数字が出ているにもかかわらず、日本の厚生労働省が把握している数字は、昭和30年に聞き取り調査した当時の数字のシベリア抑留者総数575、000人と死亡者総数55、000人から今までに一度も見直されることもなく、この数字は現在では全く信用できない数字となっている。(全ての官庁に通じるが、これがお役所仕事の実態である)
【日本人の抑留者数についての明確な数字は現在、日本政府機関、あらゆる抑留者団体等も含めハッキリした数字は示されていない。また、現在どの文献をみても、シベリアに強制抑留された日本人総数は60万人、そのうち6万人が死亡という数字か、またはこれに近い数字が書いてあるが、これは旧ソ連が流したニセ情報という話しもある】ここではシベリア抑留問題に大変詳しい江戸川大学教授の瀧澤一郎氏と、マッカ-サ-元帥記念館の資料を参考とする。
「シベリア強制連行」(シベリア抑留)とは日本の軍人及び民間人250万人余をハ-グの陸戦法規やポツダム宣言に違反してシベリアの奥深く「強制連行」し、1945年~1956年という長きにおよぶ奴隷労働に従事させた事実をいう。(死亡者総数37万4千人)
偏向マスコミ(特にNHKと各民放テレビ局)により、ありもしない「強制連行」は全く間違って報道され、かたや旧ソ連による「日本人強制連行」は偏向マスコミ(特にNHKはじめ各民放テレビ局)では一切報道されない。
※H16年7/27日に茨城県近代美術館(水戸市)で始まった洋画家(故・香月泰男氏→香月氏は元シベリア抑留者)の展覧会のリ-フレットで「不法かつ強制的に連行されたシベリア抑留者」について、旧ソ連側が主張する「捕虜」と故意に記述してあることが分かった。
これに対し抑留者団体は「抑留者は交戦中に捕らえられた捕虜でなく、戦後にシベリアに強制連行された人たちである」と反発をしている。
この回顧展はともに偏向マスコミで名高い、朝日新聞社とNHKの主催であるが、このように偏向マスコミは日本人が終戦後に強制連行された事実を国民に知らせるどころか事実を捏造して、シベリア抑留者が当時のソ連に無差別に「強制連行」された事実を隠そうとしている。
ところで、抑留後に病気などで今の北朝鮮領内に移送された「日本人強制連行」された人々の内、収容所で約1万2千名もが死亡していたことが判明した。(H15年1/22日の新聞)
また、H17年7/7日の新聞では、「シベリア抑留中に死亡した元日本兵の遺骨がDNA鑑定の結果、5年前に戦友らがロシアから持ち帰った遺骨の中に含まれていることがわかり、このほど60年ぶりに親族のもとに返された。この男性は先の大戦で幹部候補生として関東軍満州第236部隊に配属されたが、終戦後、旧満州(中国東北部)でソ連軍により「強制連行」される。その後、シベリア・チタ州の収容所に送られたが、翌21年2月、ささいなことで監視兵に銃殺されていた。
当時のシベリア強制連行が残酷であった一面をうかがわせているが、戦死公報では中国で戦死したことになっている。実は、この男性の元上官が総てのいきさつを知っていたが、事実を家族に伝えるのは忍びないということで終戦直前に満州の戦闘で死亡したと、うその報告をしたためである。このように回りが変に気を配る為に真実が知らされていないのもまたシベリア「強制連行」の実態なのである。
シベリア強制連行(シベリア強制抑留)とは、戦争状態終結後にスタ-リンが大量の日本人を「ダモイトウキョウ(東京に帰る)」とだまして、シベリアや中央アジアなどに「強制連行」し、ソ連の戦後復興と共産主義体制建設に無償で日本人の労働力を大動員した《明白な国際犯罪》である。
現在、シベリアの大地に眠っている抑留者の中には「日本へ帰りたい」と言い続けて亡くなった多くの方々がいた。しかし、戦後20~30年経っても一向にシベリアでの遺骨収集は実現しない。
旧ソ連がやっと日本人抑留者の死亡名簿を発表したのは、1991年(平成3年)の春だ。名簿公表後も、さっぱり遺骨収集は実現してこなかった。
ようやく実現したのは名簿公表からさらに11年がたった2002年(H14年)の夏のことである。
しかし、ようやく行われた遺骨収集も始まったばかりで、まだ全体の30%も収集されていない。遺骨収集事業で祖国に帰った約1万6千柱のうち、身元が判明し遺族に帰されたのは約5百人にすぎない。
シベリア抑留問題では「遺骨収集」、は勿論「補償要求」、また「歴史教科書などに事実を記載」し、後世に伝えていくという重要な問題が残されている。
領土問題は北方4島が海中に没しない限り、日露間の最大の懸案であり続けるが、シベリアから生きて帰った抑留者は、現在一様に80歳代前後で、その数が年々減っていく分だけ日露双方の関心も薄れていく。
なのに、日本政府はすでに解決済のごとく、日露交渉の議題にするのを嫌がるどころか、抑留問題担当の役人の中には「ロシアを無用に刺激すれば、領土問題解決への障害となる」とほざくバカ者さえいる。
※シベリア抑留者の手記より
シベリアに強制的に連行された我々を待ち受けていたのは、かって想像もしていなかった寒気と、一方的に押し付けられた強制重労働であった。送られた場所が一体どの辺なのか。ハバロフスクまでは大体分かっていたが、その先は全く未知の世界であった。シベリア鉄道を建設するために連れてこられたわけである。到着と同時にまず我々の住む家を建てなければならない。
夜は着のみ着のまま隣人と密着しながら寝るが寒くて寝れない。想像を超えた寒さで誰も彼もが、地獄の一丁目に放り出されたのである。あらゆる難関辛苦を克服してきたはずなのに、事ここに至ってはその片鱗さえも見る事が出来ない。
もちろん、かろうじて生きていられる程度の最悪で多少の食料の供給がこれに輪をかけた。零下30度といえば我々にしてみれば今までにまだ経験がない。
一番問題になったのが体の弱い人であり、40歳にもなんなんとする年老いた人たちである。極度の栄養失調に陥った彼らは、そこで誰一人として親身の人にも見とられずに死んでいったのである。戦後45年を経過した今、しばらく目を閉じて思うとき、当時 精神的に打ちのめされ、それに加えて支給すべき食事の量まで加減されて強制労働に連日狩り出されていた当時の抑留者たち。ましてやそのために遠くシベリアの異郷に散った幾多の同胞を思うとき、まさに断腸の思いを禁じ得ない。そして、またこれをシベリアの「悪夢」としてだけ片付けることはできない。
〖第十二項〗「永住外国人参政権」の獲得手段として使われる「強制連行」
強制連行を考えた中で一番大事なことは「強制連行説」を根拠に永住外国人の資格を取得した、この在日「韓国」人を対象にした「永住外国人地方参政権」の問題がある。
この「永住外国人地方参政権」の選挙権の要求は、特に創価学会に入っている在日韓国人からの権利の要求が始まりである。
その為、公明党(創価学会)が、この参政権に非常に熱心である。
この「永住外国人地方参政権」の要求運動は、在日韓国人と〔創価学会=公明党〕、それに「左翼や人権団体」等々が一体となって運動をしており、これにマスメディアの「テレビ局、新聞社」など、カタカナ左翼の性格を持つ勢力が後押しする形をとっている。
この韓国人だけが利する「永住外国人地方参政権法案」獲得に最も積極的に動いているのが創価学会(※付録10)であり、また、これを支持母体とする公明党であるが、この「公明党=創価学会」は、これまた「韓国・朝鮮」人と大きな関わりを持つ「人権擁護法案」(人権侵害救済法案)成立にも積極的に活動しており、ここに池田大作を名誉会長と仰ぐ創価学会の真の姿がある。
(公明党=創価学会)が「永住外国人地方参政権法案」に熱心であるのは、H19年11月27日の産経新聞が以下のように報じていることからも分る。
『国会で過去9年間に廃案4回、継続審議22回と、たなざらしが続いている「永住外国人:※在日韓国人」に地方参政権を付与する法案」の成立に向け、与野党が再び動き出した。議員立法で法案を提出している公明党が自民党への働きかけを強めているのに対し、かって、「国家主権に関わる問題だ」と訴えてきた自民党反対派は沈黙している。福田康夫首相の判断次第では、公明党など推進勢力が目標とする来年の通常国会での成立への流れが加速する可能性がある。
永住外国人参政権の付与問題については21日の与党幹部会で、推進の旗振り役を努めてきた公明党の北側一雄幹事長が「参政権実現に向け動かしていくべきだ」と切り出したことが、再浮上へののろしとなった。(中略)唐突に映る北側氏の発言の伏線になったのが、7日に都内で開かれた在日本大韓民国民団(民団)主催の決起集会(※この集会からも「永住外国人参政権」が韓国人対象であることが分かる)だった。約5000人が参加した(北側氏)とされる集会には北側氏や自民党の河村建夫広報本部長に加え、民主、共産、社民、新党日本各党の国会議員が出席した。』
反日国家の韓国の日本国内に存在する民族団体である民団の「権利要求」決起集会に日本の国会議員が多数出席し、共に行動をする事自体が全く異常であるが、民団には全国47都道府県にそれぞれ民団の地方本部長がいるが、各都道府県出身の国会議員(地方議員にも)に対し、「永住外国人地方参政権法案」に賛成するよう、裏でそれぞれ執拗な働きかけが行われている。
この「永住外国人地方参政権」問題は、日本の国会議員、地方議員が日本国民の税金を給料としていながら、“韓国人の為に政治活動をしているという姿が見える問題”でもある。
また、この「永住外国人参政権問題」は日本の国、及び地方の議員の多くが、すでに「韓国・朝鮮」に取り込まれていることが分かる問題でもある。
この「永住外国人地方参政権=永住韓国人地方参政権」法案には日本の国会議員の『「半数以上(60%位)が賛成」⇒ここにも日本の国会議員の尋常でない姿がある』をしていると言われ、自民党議員の大多数の反対で、可決をかろうじて踏みとどまっている状態である。
さらに、この法案に賛成する議員の中には在日からお金をもらって政治活動している「韓国・朝鮮」の国会議員ではないかと思われる議員もいる(※付録11)〕
この参政権問題は日本にとって大きな問題であるが、多くの国民はこの「永住外国人地方参政権」のことは、マスコミでも実態がほとんど報じられていないせいか知らないか又は、あまり理解されていない。
多くの良識ある「教授やジャ-ナリスト、評論家、朝鮮問題研究家」等々の方々はこの「永住外国人地方参政権」法案を売国的であると指摘しているが、これは別名「売国奴法案」と呼んでもおかしくない「日本国家を崩壊に導く法案」でもある。
この「永住外国人地方参政権」を求める在日韓国人は、外国籍でありながら外国人という意識が希薄で、彼らに参政権を認めようとする日本人もまた、日本国籍でありながら日本人の意識が希薄な方々で、要するに両者共に国籍の意味がよく分からない国家観の欠けた人々である。それゆえにも非常に大きな問題でもある。
この「永住外国人地方参政権」の法案に関して、平成12年に当時の野中広務幹事長は付与する対象を「強制連行」によって日本に連れてこられた外国人(「韓国・朝鮮」人)とその子孫に限定してはどうかと発言したことがあるが、全くの的はずれである。この発言は世間に対し、野中氏本人自らが、日本の国会議員としての資質が根底から欠けていることを認めさせた発言でもある。
この法案に賛成されている国会議員地方議員等々は、議員として一番大切な国籍の意味が全く分かっていないことを自ら認めた方々である。
日本には国籍の意味が全く分からない議員が多く、これらの議員で構成される政党の、公明党、民主党、社民党、共産党などが、この「永住外国人地方参政権」に賛成(公明党と民主党は共にマニュフェストに、この「永住外国人地方参政権」の賛成をうたっている)を表明し、自民党の中でさえ賛成を叫ぶ者が一部いる。
このことは、日本が世界の国々と違って、近隣諸国(韓国)と領土問題等々で利害関係が突出した国家であることを、日本の政治家自体が、全く理解出来ていないということを証明している。(今の韓国は仮想敵国を北朝鮮から日本に変更している)
ところで、この参政権問題は教科書にも載せられ、「強制連行」を贖罪的に「韓国・朝鮮」人の参政権になんとか結びつけようとする記述があるが、次のように記されている。
『わが国で、もっとも多い外国人を知っていますか。それは多くが戦時中にわが国に強制連行されてきた人々とその子孫である在日「韓国・朝鮮」人です。(中略)日本国籍をもたないために日本に永住していても参政権はありませんし、職場によっては公務員にはなれず社会保障も十分に受けられません。』⇒「中学校の社会科 の公民教科書(帝国書院/2002年版)」
殆どの社会科の公民教科書には、このような捏造された「強制連行」と、在日「韓国・朝鮮」人への筋違いの権利要求をうたう記述が多くある。
この「永住外国人の参政権」の問題で一番重要なことは、日本が世界でも近隣諸国(朝鮮半島)との間で突出した利害関係を持つ国家であるが故に、この参政権問題で日本人としてのアイデンティティが問われるということである。
「韓国・朝鮮」人の話しになると、何かとすぐに国際化を持ち出す「平和・人権」市民団体など、怪しげで、おかしな輩が日本にはたくさんいるが、全くの筋違いである。
この問題は言い方をかえれば、日本国のことを考えている「永住外国人地方参政権」反対派と在日の韓国の人々のことだけを考えた賛成派に分かれる。
この「永住外国人参政権」問題は、前項の第四項『当時の朝鮮人の渡日の(日本に渡って来た)の実態』、第五項の『動員とともに増えた不正渡航者』や、第六項の『〈在日「韓国・朝鮮」人〉と「強制連行」の関係』からも分かるように、在日「韓国・朝鮮」人の方々は、一言でいうと、不正渡航者及びその家族、子孫である。
当時の朝鮮半島は日韓合併で日本国と同じ扱いを受けており、それが為に犯罪の対象にはならなかっただけであるが、このような在日の方々に日本国の将来に危機をもたらす恐れが十分過ぎる程あるこの参政権に賛成される方々は、この「永住外国人参政権」問題を全く理解されていない方々と言える。
※詳しくは別カテゴリの日本人の課題⇒「日本国の将来を決めるといっても過言でない「永住外国人参政権」の実態」を参照
日本の政治が韓国関係で前進しない訳
2013年8月26日、潘事務総長が「帰省」していた韓国での記者会見で、日本を名指し、歴史認識の重要性を繰り返した上で安倍政権への直接的な「注文」に言及した。
これに対し新藤義孝総務相は「世界各国の中で最も中立的である方が国連事務総長だ。自らの立場をどこかに偏るような発言はいかがなものか」と潘事務総長の発言を批判した。
また、日本政府の立場で菅義偉官房長官は「我が国の立場を認識した上で行われたのかどうか、非常に疑問であり真意を確認し、日本の立場を国連等で説明していきたい」と述べた。
しかし、潘事務総長がわずか2日後の8月28日にオランダ訪問中の松山政司外務副大臣と会談し、歴史認識で日本に反省を求めた発言について、「発言は中立的で日本のみを指摘したものではない」と、何時もながらの見え見えの韓国人の釈明に騙され、菅義偉官房長官は29日の記者会見で、「真意はある意味で明らかになった」と述べ、今後は問題にしない考えを示している。
日本政府には昔から韓国との関係でこのような事例が沢山あるが、未だかって、日本の朝鮮統治の失敗を教訓としていないのか、その統治から70年以上も経っているのに韓国人の本性そのものが全く分かっていない。
このように、日本の政治家には朝鮮半島の歴史や朝鮮半島に明治時代から関わってきた歴史がありながら、それらが把握されておらず、さらに「韓国・朝鮮」人の本性さえも未だつかめておらず、その結果は歴代首相の韓国への謝罪につながっている。
1)竹下登首相→1989年、拉致問題に関する国会での答弁の中で北朝鮮への歴史認識にかんがみ「反省と遺憾」の意を表明し、前提条件なしの対話を呼びかける。
2)海部俊樹首相→1990年5月24日に日韓会談で日本の朝鮮統治により「朝鮮半島の方々」に苦難を与えたと表現
3)宮沢喜一首相→1992年1月17日に韓国国会で「日本を加害者」、「韓国を被害者」と言い切る一面的な歴史認識を示し「反省とお詫び」を繰り返した
4)細川護煕首相→1993年8月23日に国会で日本の「朝鮮統治」を「植民地支配」と形容し「過去のわが国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とお詫びの気持ちを申し述べると共に、・・・」と演説した。
5)村山富市首相→1994年8月からの村山首相は「過去の反省」を繰り返した。次の年の6月には日本の戦争責任を認める「戦後50年国会決議」いわゆる村山談話(植民地支配と侵略によって特にアジア諸国の人々には多大の損害と苦痛を与えた⇒この村山談話は特に近隣諸国に比重がおかれている)というあの「痛切なる反省と心からのおわび」を発表した(8月には閣議決定)。
以上のように「日本の外交は謝罪オンリ-」という国際的に非常に弱い印象を、完全に世界各国に与えてしまった結果、例えばロシアがH17年の5月に行った「第2次世界大戦勝利60周年」祝賀式典への出席を全世界の首脳に呼びかけた参加首脳名簿には参加者の名前の記載が国別ABC順(英語)であるにもかかわらず日本は順番を下げられ、小泉首相の名前が最後に記されるという始末である。(このようなロシアの対応でも小泉首相は出席している)
これまでのように、一寸あげるだけでも、これだけの歴代首相が謝罪に徹しているが、これらのことからも、いかに日本の歴代首相が朝鮮問題に触れたくないか、それと、日本の朝鮮統治時代の歴史に無関心で、その内容についても無知であったとしか思われない。
日本の首相をはじめ、多くの国会議員が朝鮮半島のことでは、すぐにマスコミが騒ぐため、出来れば触れたくないと考えている反面、朝鮮半島の南と北とに多くの国会議員が、それぞれの友好議員連盟に名前を連ねている。
※日本の国会議員と「韓国および北朝鮮」との間には、南の韓国に日韓友好議員連盟が存在し、所属している国会議員は337名(H18年5月時点)で、その会長には日本の元歴代首相経験者が名を連ねる。
また、北朝鮮との間には日朝友好議員連盟が存在し、この友好議員連盟には169人の国会議員が所属(H14年2月発足時)しており、合わせて506人の国会議員が南北の友好議連に籍をおいている。(※国会議員定数722人〓衆議院議員定数480人+参議院議員定数242人)
しかし、日本のかなりの国会議員が、朝鮮総連に手なづけされていると記しているのは、元朝鮮総連の工作員であった故、張龍雲氏〔この人は朝鮮労働党統一戦線部長(金容淳)につながる人物で、工作員時代には「黒い蛇」と呼ばれていた人物〕が内幕を暴露したその著書〔朝鮮総連工作員「黒い蛇」の遺言状〕では、以下のように書いている。
清廉潔白で、かって総理大臣候補にも名前の挙がった、会津武士の風貌をした国会議員も最後には落ちたと聞いている。日本政府は、私たち工作員から見れば朝鮮総連と一蓮托生(行動や運命をともにすること)になっている。国民が不可解に思う対北朝鮮外交は、そうした日本政府の姿勢の表れなのだ。1997年5月に全国の朝銀に先駆け、朝銀大阪が破綻。公的資金の投入開始。全国の朝銀が破綻と統合を繰り返し、それに伴い公的資金投入も再投入され、2004年までには国民の血税である公的資金の総額が朝銀だけで1兆4千億を超えるが、韓国系金融機関の破綻と合わせた公的資金の投入は3兆円を軽く超える)が、不良債権のために仮に整理銀行となっても、その内情は国民に十分知らされることはないだろう。国民に知らせてはならない内情があるからだ。実際、日本の大手都市銀行も北朝鮮への送金にはかなりの部分関与しており、これを大蔵官僚も了解している。このようなことが白日の下にさらされることは決してない。日本人拉致問題はある意味でその真実を証明する出来事である。』
※朝銀(正式名称は朝銀信用組合で在日本朝鮮信用組合協会加盟の信用組合の総称)
また、旧社会党の実態については多くの国民が知らないが、元現代コリア研究所所長の佐藤勝巳著の「朝鮮情勢を読む」には、以下のように北朝鮮の支配下におかれていた旧社会党の実態が暴かれている。
『旧社会党内には朝鮮問題特別委員会というものがあり、その会議に朝鮮総連の国際部の幹部が常時出席し、そこで総連幹部がいろいろな問題の決議文案を書いてその会議に出し議論して、「あ、いいじゃないかこれでいこう」ということになると、会議に出席していた国際部の幹部が決まった文書を持って帰って、総連の機関である朝鮮新報社で印刷をする。そして、朝鮮問題特別委員会の名前がついている印刷物を内外に出す』とあるが、マスコミ(特にNHKや民放テレビ各社)が決して放送で伝えることはないが、現実問題、これが日本の政党の実態でもある。
〖第十四項〗日本在留民「韓国・朝鮮」人の行動・ふるまい・態度
戦前から強かった日本人の在日「韓国・朝鮮」人への悪感情は、1945年(昭和20年)の終戦直後の経験によって更に強まった。
それは日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれているとき、在日「韓国・朝鮮」人は、がらっと態度を変えて「戦勝国民」を名乗り、彼らによる犯罪・不法行為が続発したことである。
主な傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行、などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、また、帰国問題に起因する不穏行動、各地の「保安隊、警備隊(在日本朝鮮人連盟の自衛組織)」などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、かれら同士間の派閥抗争などがみられた。
それらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、それと、汽車、電車、バスなどの不法乗車、等々数え上げたらきりがない。
朴在一氏もその著書「在日本朝鮮人に関する総合調査研究」の中で、次のように書いている。
『15~59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別刑法犯の検挙人員は合計37276人〔1949年(昭和24年)〕であるから、在日「韓国・朝鮮」人の成年男女の100人うち、14.4人が検挙されたことになる。外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて、100人あたり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者19332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、いつでも「韓国・朝鮮」人で一杯であるという事も否定しえない悲しむべき事実であろう。』
終戦直後の在日「韓国・朝鮮」人の成年人口の20%は被検挙者(犯罪などの法律に違反した行為をして検挙された者)となっている。
以下は、犯罪統計資料からの近年の在日外国人(永住権を持つ)の犯罪検挙者数である。
2012年5月11日、警察庁が「犯罪統計資料(平成24年1~4月分)」を発表した。長期日本在留の外国人犯罪者数の順位
1位:韓国・朝鮮(3994人)
2位:中国(1252人)
3位:ブラジル(410人)
4位:フィリピン(380人)
5位:アメリカ(187人)
6位:ベトナム(132人)
7位:アフリカ州 の 国(93人)
8位:タイ(66人)
9位:イラン(24人)
10位:パキスタン(23人)
11位:インド(18人)
12位:バングラデシュ(18人)
13位:スリランカ(10人)
14位:オセアニア州の国(10人)
15位:インドネシア(7人)
16位:マレーシア(6人)
17位:カナダ(5人)
18位:国籍不明(3人)
19位:無国籍(2人)
その他(357人)
■在留外国人数でみた犯罪発生率は?
犯罪発生率は在留外国人の総数に比べてどうであろう
在留外国人数は2010年末のデータを使用しているが、それで犯罪発生率をみてみると
これらの犯罪検挙者数や犯罪発生率から見ても、戦前、戦後、また現在も一貫して「韓国・朝鮮」人の犯罪が他の外国人に比べ際立って多いことが分かる。
※ 日本で「韓国・朝鮮」人の犯罪がなかなか表に出ない原因に、マスコミ自体が「韓国・朝鮮」人の犯罪そのものを報道しないスタンスがある。
その典型がマスコミは在日の犯罪を報道してもなかなか名前を出さない。テレビでは例えば“殺人容疑の男”などと報じ名前を伏せる。また、通名報道をする。テレビで“実名報道”する場合も、国民がテレビをあまり見ない時間帯に短く報じるか、犯罪発生の地域だけに限り報じる事が多い。さらに、犯罪が発生してから数年経ってから忘れたころに報じる。尚も突き詰めると警察自体の未発表がある。
また、身一つで渡日したはずの在日一世は、日本人より持ち家比率が高く(二世以降は異なる)、相当低所得の人ですら大半が土地付きの家を所有している。
主に駅付近が多く、それ以外にも、在日が密集するエリアは殆ど不法占拠し、時効で法的に所有権を確保したものである。中には日本人地権者を殺し、土地を強奮したケ-スもある。
在日は第三国人時代(戦後、敗戦した日本が、アメリカの占領時代に台湾や朝鮮などは戦勝国でも敗戦国でもないという意味で、第三国と定義され、それらの朝鮮や台湾などの人たちを「第三国人」と呼んだが、特に朝鮮人の犯罪が突出して、日本人の印象を悪くしたので第三国人というと朝鮮人という観念を植え付けた)土地を不法占拠しただけでなく、治外法権状態になったのをいいことに各地で食糧などの物資を略奪し、列車を乗っ取ったり、無賃乗車するなどして運搬し、違法な闇市を支配してそれらを売りさばき、一時、国内の通貨の40%を支配した(※当時の石橋湛山蔵相が国会で発言)ほどであった。
現在、パチンコ産業の約8割を在日が支配している。そのお金は年間に約20~30兆円も動くと言われており、パチンコ以外の産業では、消費者金融、風俗産業などにも在日は幅広く手を伸ばしており、また、この他の産業でも力を持っている。このことを考えれば、今でも当時の状況と同じであることも考えられる。
朝鮮総連と民団の流れ
その前に日本文化チャンネル桜の2/3【討論!】フジテレビ・NHK問題、マスメディアの終焉2[桜H23/10/8]討論会のhttp://www.youtube.com/watch?v=P6eUqvYIoeoを見ると、あらゆる関わりも分かってくる。
1)1945年(昭和20年)10月、日本在住の「韓国・朝鮮」人は、東京の日比谷公会堂で在日本朝鮮人連盟(朝連:朝鮮総連の前身)を結成。
政治犯釈放や生活権確保、権利要求、子弟への朝鮮語教育などの活動を精力的かつ熱心に展開した。
2)1946年10月、「朝連」の左傾化が進むにつれ、内部ではこれに反発する人たちと主流派との政治闘争が激化し、「朝連」結成の丁度1年目に、在日本朝鮮居留民団(民団:民団の前身)が「朝連」より分裂して結成される。
3)1950年(昭和25年)6月、朝鮮戦争が勃発すると、新たに在日朝鮮民主民族戦線(民戦)が結成される。北朝鮮を支持していた朝連の流れを汲み、日本共産党の指導下で日本の社会主義革命を目指した。民戦の時代、活動家はすべて日本共産党員であり、組織も日本共産党の指導を受けていた。
一方の日本共産党の指導方針では、在日「韓国・朝鮮」人は日本革命の同盟軍と位置づけられた。
4)1955年5月、北朝鮮の故金日成主席の呼びかけに呼応して、民戦は日本の革命を目指す路線を転換、戦争中の実力闘争も放棄・解消して、現在の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)を新たに結成。傘下に商工連合会など、約40の団体・事業体を抱えている。
以下は、終戦直後から、在日「韓国・朝鮮」人が各地で事件を起こし、当然の結果として日本人から差別や嫌われる結果となった数多くの事件録。
村田春樹は語る!敗戦後朝鮮人はなにをしたか!
https://www.youtube.com/watch?v=7MzSfZTwGSU
1)★大阿仁村事件〔1945年(昭和20年)10月22日〕
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた「韓国・朝鮮」人12名は、22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗をひろっていたところを村人が発見し注意をしたところ乱闘となり、村人3人が重症を負った。午後1時頃になると約40名の「韓国・朝鮮」人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
2)★生田警察署襲撃事件〔1945年(昭和20年)12月24日・1946年(昭和21年)1月9日〕
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した7人組みの拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。その後、1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の「韓国・朝鮮」人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀などを突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。
岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジ-プで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることが出来た。
また、翌年1月9日、生田署が三宮ガ-ト下で賭博団を検挙すると、30~40名の「韓国・朝鮮」人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。
3)★直江津駅リンチ殺人事件〔1945年(昭和20年)12月29日〕
信越線黒井駅でヤミ米ブロ-カ-の「韓国・朝鮮」人3名が、列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人の乗客に拒まれて乗り込むことが出来ず、デッキにぶら下がって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので仕方なく窓ガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、〔「韓国・朝鮮」人に向って生意気だ!ホ-ムに降りろ!殺してやる!〕と叫んで、その乗客をホ-ムへ引きづり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。「韓国・朝鮮」人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
※この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
4)★富坂警察署襲撃事件〔1946(昭和21年)年1月3日〕
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として「韓国・朝鮮」人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署〔当時の東京都小石川区(現在の文京区)〕に留置されていた。
1月3日になって「韓国・朝鮮」人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、「韓国・朝鮮」人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。
5)★長崎警察署襲撃事件〔1946年(昭和21年)5月13日〕
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取り締まりで、「韓国・朝鮮」人26名と中国人6名、それに日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。
「韓国・朝鮮」人と中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員(私的武装集団)100名とその他中国人など総勢200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(内1名は死亡)。捜査の結果、60名の「韓国・朝鮮」人と7名の中国人を検挙した。
6)★富山駅前派出所襲撃事件〔1946年(昭和21年)8月5日〕
富山県警警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブロ-カ-の「韓国・朝鮮」人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員(在日本朝鮮人連盟による私的武装集団)2名が妨害し、ヤミ米ブロ-カ-を逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出署周辺に30名ほどの「韓国・朝鮮」人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった自治隊出張所(在日本朝鮮人連盟の自治隊の「交番」のこと)を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。
7)★坂町事件〔1946年(昭和21年)9月22日〕
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、「韓国・朝鮮」人約50名と中国人15名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。
警察官は傷を負いながらも「韓国・朝鮮」人2名を逮捕した。同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の「韓国・朝鮮」人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物破壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援によりこれらを検挙した。
8)★新潟日報社襲撃事件〔1946(昭和21年)9月26日~29日〕
1946年9月26日に、「韓国・朝鮮」人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に「韓国・朝鮮」人団体幹部たちは再度、新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得の回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員を検挙した。
9)★首相官邸デモ事件〔1946年(昭和21年)12月20日〕
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、「韓国・朝鮮」人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後、首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警察官と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどした制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵に引き渡された。彼らは軍事裁判にかけられ、翌年3月8日に国外追放処分になった。
10)★尾花沢派出所襲撃事件〔1947年(昭和22年)10月20日〕
1947年10月20日午後3時頃、米の買出し取締りに不満を持っていた在日「韓国・朝鮮」人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのをチャンスとして派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。
そのとき、さっきの「韓国・朝鮮」人7名と他の「韓国・朝鮮」人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重症を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て29名を検挙した。
11)★阪神教育事件〔1948年(昭和23年)4月23日~25日〕
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、在日本朝鮮人連盟の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側はそれに全く応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢をあげた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、在日本朝鮮人連盟系等の青年行動隊(私的武装集団)数100名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。
大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。神戸では翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事及び副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行動を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となっている。
12)★評定河原事件〔1948年(昭和23年)10月11日~12日〕
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グランドにおいて、在日本朝鮮人連盟と在日本朝鮮民主青年同盟(※)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。
(※「在日本朝鮮民主青年同盟」⇒1946年1月頃から朝連(在日朝鮮人連盟)では「保安隊」または「自治隊」と称する武装集団を結成して、暴力行為をほしいままにした。GHQは同年2月9日に「刑事裁判権の行使に関する件」の覚書を発し、在日朝鮮人は日本の刑事裁判権に服すべきことを指令したが従わなかったため、ついに4月24日にこれらの武装集団の解散を命じた。朝連ではこれに対抗するために、共産主義闘争を目的とする新たな組織を設けることになり、1947年3月6日に結成された。だが、1949年9月8日、在日朝鮮人連盟とともに団体等規正令によって解散させられた。)
13)★宇部事件〔1948年(昭和23年)12月9日〕
宇部市民会館において、在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および、警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奮還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。
14)★益田事件〔1949年(昭和24年)1月25日〕
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の「韓国・朝鮮」人集落において、密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の「韓国・朝鮮」人に奮還された。
翌日、被疑者9名を検挙したが、夜になって約200名の「韓国・朝鮮」人が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。
15)★枝川事件〔1949年(昭和24年)4月6日~13日〕
東京都江東区枝川町の「韓国・朝鮮」人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた「韓国・朝鮮」人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。その後の交渉で警察は暴行者の引渡しを要求したが、「韓国・朝鮮」人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川を封鎖し、13日に一斉検挙行い被疑者9名を検挙した。
16)★高田ドブロク事件〔1949年(昭和24年)4月7~11日〕
新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の「韓国・朝鮮」人集落では大がかりな酒の密造を行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に、一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する「韓国・朝鮮」人約200名は、新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので4名を検挙した。翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり、投石をしたため1名を不退去罪で検挙した。11日になると、「韓国・朝鮮」人の約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。
17)★本郷村事件〔1949年(昭和24年)6月2日~11日〕
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が、戸口調査をするために、「韓国・朝鮮」人集落に赴いたところ、多数の「韓国・朝鮮」人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。その後、連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。
18)★下関事件〔1949年(昭和24年)8月20日〕
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側「韓国・朝鮮」人家屋を、在日本朝鮮側「韓国・朝鮮」人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。
このため市内は一時大混乱になった。下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、「韓国・朝鮮」人約200名を騒擾罪(そうじょうざい)で検挙した。
19)★台東会館事件〔1950年(昭和25年)3月20日〕
1949年9月8日、法務府は朝連(在日本朝鮮人連盟)に対し、団体等規正令を適用して解散命令を出した。東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奮還され、さらに約400名がバリケ-ドを構築して小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員約120名が検挙された。
20)★連島町事件〔1950年(昭和25年)8月15日〕
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮開放5周年を祝って約700名の「韓国・朝鮮」人が集まり、集会を強行したので制止しようとした警察と乱闘になり、8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。
21)★第二神戸事件〔1950年(昭和25年)11月20日~27日〕
111月20日、約300名の「韓国・朝鮮」人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警察官ともみ合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。
27日になると、旧朝連(在日本朝鮮人連盟)系の約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示しデモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾(そうじょう)罪容疑で188名を検挙した。
22)★四日市事件〔1951年(昭和26年)1月23日〕
旧朝連(在日本朝鮮人連盟)四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた「韓国・朝鮮」人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。
23)★王子事件〔1951年(昭和26年)3月7日〕
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として、東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校(※)〔現在の東京朝鮮中高級学校〕を捜索し、多数の印刷物を押収した。3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮(このうち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢ををあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。
※東京都立朝鮮人中高等学校⇒在日朝鮮人連盟の解散により、朝鮮人学校も閉鎖されることになったが、閉鎖反対運動が激しかったため、幾つかの学校は暫定的に公立学校として存続することになった。東京都では「朝鮮人学校取扱要項」を制定して「東京都立朝鮮人中高等学校」として存続することになった。1955年、都立朝鮮人学校は廃止され、学校法人「東京朝鮮学園」運営の「東京朝鮮中高級学校」として再スタ-トした。
24)★神奈川事件〔1951年(昭和26年)6月13日〕
横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方共に数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。
25)★下里村役場事件〔1951年(昭和26年)10月22日〕
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、「韓国・朝鮮」人約200名が「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために、下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。
26)★福岡事件〔1951年(昭和26年)11月21日〕
「強制追放反対」を叫ぶ「韓国・朝鮮」人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向ってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘になり、16名が検挙された。
その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じず、再度乱闘になり5名を検挙した。
27)★東成警察署催涙ガス投擲(とうてき)事件〔1951年(昭和26年)12月1日〕
1951年11月10日、泥酔中の「韓国・朝鮮」人を警察が保護したが、容態が急変して、同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。ところが、「韓国・朝鮮」人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の「韓国・朝鮮」人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。
28)★半田・一宮事件〔1951年(昭和26年)12月3日~11日〕
1951年11月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締りの件で「韓国・朝鮮」人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締りに対して、約100名の「韓国・朝鮮」人が捜査の妨害をした。
そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。12月11日、これに抗議する「韓国・朝鮮」人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラ-や方向指示器を破壊した。他にも一ノ宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。
29)★軍需品製造工場襲撃事件〔1951年(昭和26年)12月16日〕
前述のNO27の東成警察署で死亡した「韓国・朝鮮」人の追悼式に参加した「韓国・朝鮮」人約100名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。
30)★日野事件〔1951年(昭和26年)12月18日〕
「韓国・朝鮮」人、約50名が、自転車隊を編成し、白襷(しろたすき)をかけて、「強制送還反対」のプラカ-ドを掲げ、メガホンやスピ―カ―を所持して、「強制送還反対」を叫びつつ、滋賀県内を無届デモ行進をした。警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。
これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。この事件で35名が検挙された。
31)★木造地区警察署襲撃事件〔1952年(昭和27年)2月21日~23日〕
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で、傷害容疑の「韓国・朝鮮」人2名を逮捕したが、「韓国・朝鮮」人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。23日になると、約70名が署内に侵入しようとして、警備の警察官ともみ合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。
32)★姫路事件〔1952年(昭和27年)2月28日〕
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連(在日本朝鮮人連盟)系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また、同時刻に姫路市内の交番四ヶ所に5名~30名の朝鮮人が押しかけて警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。
33)★八坂神社事件〔1952年(昭和27年)3月1日〕
三・一事件(※)記念の名目で集まった約70名の「韓国・朝鮮」人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、「韓国・朝鮮」人側に十数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は、近くの「韓国・朝鮮」人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行し、解散させた。この事件で6名が検挙された。
※三・一事件⇒日本統治時代の朝鮮半島で、1919年3月1日に朝鮮独立を求めて勃発した騒乱事件。
34)★宇治事件〔1952年(昭和27年)3月13日〕
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5人の「韓国・朝鮮」人が押し入り、表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て、426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(「韓国・朝鮮」人集落)を捜索し、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。
また、伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。
※ウトロ地区⇒ウトロの土地はもともと日産自動車の傘下にある現日産車体(当時は傘下でなく、別名であった)の所有土地であったが、戦後、そこに在日「韓国・朝鮮」人達が許可なしで勝手に家を建ててしまった地区。
35)★多奈川町事件〔1952年(昭和27年)3月26日~30日〕
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締りの結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奮還するため約500名の「韓国・朝鮮」人が押しかけ、投石、その他により、トラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。
36)★田川事件〔1952年(昭和27年)4月19日〕
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グル-プと「韓国・朝鮮」人グル-プが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。
国家地方警察田川地区警察署は両グル-プを検挙した。
ところが19日なって、「韓国・朝鮮」人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、「韓国・朝鮮」人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向って投石をし始め、ガラス戸28枚が破損、警察官7名が負傷した。21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。
37)★岡山事件〔1952年(昭和27年)4月24日~5月30日〕
阪神教育事件(前述NO11)の記念日である4月24日に、「韓国・朝鮮」人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり、投石したので乱闘になり8名を検挙した。5月1日のメ-デ-では、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人500名は飾磨警察署を包囲して気勢を上げた。
38)★血のメ-デ-事件〔1952年(昭和27年)5月1日〕
第32回メ-デ-大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、3000名~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊が、これに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し、皇居前は一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。
39)★上郡事件〔1952年(昭和27年)5月8日〕
4月10日に左派系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。
その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間、朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奮還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。
40)★大村収容所脱走企図事件〔1952年(昭和27年)5月12日~25日、11月9日~12日〕
1952年5月12日、韓国に強制送還された「韓国・朝鮮」人のうち、125名が手続き不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦(※)から数回にわたって抗議したあと、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容所に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日~12日にわたって、また、民戦活動家数十名が押しかけ、代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。
※民戦⇒正式名称は「在日朝鮮統一民主戦線」、在日朝鮮人によって1951年に結成された。1949年9月の在日本朝鮮人連盟の解散以後、合法組織として残った「朝鮮解放救援会」が暫定的に全国組織としての役割を担っていた。
その後、全国組織として、1950年4月に「朝鮮人団体協議会」が結成されたが、2ヶ月後に朝鮮戦争が勃発したことにより、北朝鮮政府を支援する強力な組織として、1951年1月に「在日朝鮮統一民主戦線」が結成された。
41)★広島地裁事件〔1952年(昭和27年)5月13日〕
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した「韓国・朝鮮」人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた「韓国・朝鮮」人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠し、被告4名を奮還して逃走させた。
42)★高田派出所襲撃事件〔1952年(昭和27年)5月26日〕
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団(在日本大韓民国民団)愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のケガを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。
43)★奈良警察官宅襲撃事件〔1952年(昭和27年)5月31日〕
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の「韓国・朝鮮」人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。
44)★万来町事件〔1952年(昭和27年)5月31日~6月5日〕
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって「韓国・朝鮮」人と対立していた。
1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集して解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町)にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員(※)70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石したり、棒を振り回して警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。
「※中核自衛隊⇒非合法軍事路線をとった日本共産党が、都市ゲリラ組織として設けた非合法武装組織のこと。農村ゲリラ組織の「山村工作隊」と合わせて、最盛期には全国で約500隊、1万人近くの武装組織であった。」これらからも分るが共産党などの左翼組織は、昔から「韓国・朝鮮」人とつながりを持っている。
45)★島津三条工場事件〔1952年(昭和27年)6月10日〕
1952年6月10日、「韓国・朝鮮」人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行し、50代位の「韓国・朝鮮」人1名を検挙して京都市警南部警邏隊のパトカ-に収容した。
同パトカ-が春日通三条にさしかかった際、付近にいた「韓国・朝鮮」人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。
46)★醒ヶ井村事件〔1952年(昭和27年)6月13日〕
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村(現在の滋賀県坂田郡米原町)で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重症を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向ったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人と、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。
47)★葺合・長田事件〔1952年(昭和27年)6月24日〕
6月24日に神戸市葺合区(現在の神戸市中央区)の東神小学校に約50名の
「韓国・朝鮮」人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。
これに対して9時半頃、葺合警察署に約100名の「韓国・朝鮮」人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、同じ神戸の長田区では、「韓国・朝鮮」人約150名が神楽職業安定所に向ったので、警官隊が追跡したところ、投石したためデモ隊を包囲して11名を検挙した。
48)★吹田・枚方事件〔1952年(昭和27年)6月24日~25日〕
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系(※)学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したが、何も発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中に交番2ヶ所及び日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。
そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラ-ク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を負わせた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行きの通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などを持って抵抗したために警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。
逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。
この事件での検挙者は113名にのぼった。
※民戦(在日朝鮮統一民主戦線)⇒在日朝鮮人連盟の解散後、旧組織の復活を模索していたが、1950年6月25日の朝鮮半島で起きた朝鮮戦争の勃発によって、急速に全国組織結成の機運が盛り上がり、1951年1月9日に結成された。
その後、1955年5月26日の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の結成により解消した。
49)★新宿駅事件〔1952年(昭和27年)6月25日〕
国際平和デ-閉会後、「韓国・朝鮮」人約3000名が新宿東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。
また、デモ隊の一部は新宿駅7番ホ-ムに入って、そこにいたオ-ストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。
50)★大須事件〔1952年(昭和27年)7月7日〕
名古屋市内の大須球場(現在はなくなっている)で、ソ連・中国を訪問帰国した日本社会党の帆足計代議士と、改進党の宮城喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に扇動された旧朝連(在日朝鮮人連盟)系を含む約1000名が無届デモを敢行した。
岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰め所に火炎瓶を投げ込んだ。
そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても騒乱の現場から少し離れた舞鶴公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ隊は死亡1名、重軽傷者19名を出した。
名古屋地方検察庁及び名古屋市警察は、この事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。
51)★舞鶴事件〔1952年(昭和27年)7月8日〕
京都府舞鶴市で6月25日、「韓国・朝鮮」人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員にケガを負わせた事件が発生した。
7月8日に、その事件の容疑者達が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、「韓国・朝鮮」人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ!」と舞鶴西署に押しかけ、同署のガラス数十枚を割り、警官ともみ合いになった。この事件で8名を逮捕した。
52)★五所川原税務署襲撃事件〔1952年(昭和27年)11月19日~26日〕
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の「韓国・朝鮮」人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのときに激しく妨害したので「韓国・朝鮮」人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して「韓国・朝鮮」人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の「韓国・朝鮮」人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。
1947年(昭和22年)6月23日、税務当局は税務署員88名と検事2名、警察官206名、占領軍憲兵の応援を得て、密造酒の一斉取締りを敢行した。
終戦後の食糧難という時代背景もあり、単に酒税収入の激減のみならず、米が酒用に転用される分、主食用の米が減ってしまうので、飢餓が起こる可能性が高かった。またこれらの酒の品質も劣悪で、中には有害なメチルアルコールを薄めたものまであったため、税務当局は健康上の観点からも厳しく取締りを行った。
当時の在日朝鮮人は、行政府職員への脅迫により米の配給を二重三重に受けることによって密造酒を醸造して闇に流すなどしており、深刻な問題となっていた。
これらを取り締まろうとする税務署に対しては大勢で押し掛け、取締を行わないよう要求するなど組織的な妨害活動を繰り広げていた。
事件の発端となった川崎市桜本町の在日朝鮮人集落では、公然と密造酒を製造していた。多発していた在日朝鮮人による暴動に治安上の問題や共産主義革命の危険を感じたGHQの指令もあり、税務当局は一斉捜査を実施することになった。
取締りそのものは順調に進み、100名以上を検挙し、密造酒15,000リットル、原料、醸造機材などの証拠物件を押収した。
検挙の際には拉致されそうになる職員もあり、税務署が威嚇されることもあった。
神奈川税務署間税課長は、現場の責任者として陣頭指揮を執っていた。
その端山課長は、この日の取締りの事務処理を済ませて、午後9時に川崎税務署(現・川崎南税務署)を出た。京浜川崎駅(現・京急川崎駅)に到着しようとした時、在日朝鮮人の賊数名が端山課長を取り囲み、「税務署員か?」と聞いたため、端山課長が「そうだ」と答えると、いきなり殴る蹴るのリンチを加えた。端山課長は直ちに病院に収容されたが、3日後に死亡した。
※1947年(昭和22年)9月時点の密造酒生産量は50万2000キロリットルで、正規の酒の生産量34万3000キロリットルを大幅に上回っていた。
これは従来のように農家の自家消費用としての密造酒ではなく、販売を目的とする大掛かりな密造で在日朝鮮人集落が密造の巣窟であった
以上の事件等は、戦後間もない頃の「韓国・朝鮮」人による事件であるが、これらの事件から見えてくるものは、自分達の主義・主張を通す為にあらゆる組織を作り団結し、日本の左翼主義と一緒に行動してきたという現在の日本に通じるものが昔からあった、ということである。「韓国・朝鮮」人の組織も途中、朝鮮総連と民団に分かれたが、共通しているのは共に日本国内で、それぞれ自分達の主義・主張を通し続けていることであり、どういう訳かこれに日本政府も地方自治体もその要求を受け入れ続けている、というのが現在の状況である。
1990年以降をとらえても「韓国・朝鮮」人による悪質で大きな事件は後を絶たずに目立っている。
中でもオ-ム真理教の教祖である麻原彰晃によって起こされた1994年6月の松本サリン事件(死者7名、重軽傷者660人)と、1995年3月の地下鉄サリン事件(死者12人、重軽傷者5510人)は過去最大の殺人事件である。
さらに、2001年2月の通名が織原城二(本名・金聖鐘)による「イギリス人のル-シ-ブラックマンさん殺害事件〔準強姦致死を筆頭に7件の容疑(うち2名死亡)で起訴されている金聖鐘:逗子マリ-ナのマンションで見つかったセックスメモやビデオを検証すると、実際の被害者はこれをはるかに上回ると思われる。昭和45年から始まるセックスメモに名前が上がった人物は200人あまりで、そのうちハッキリと薬物使用が記述されている女性は29名⇒このニュ-スでも隠ぺいが行われ、日本のテレビ局はこのニュ-スを報じるとき、ル-シ-ブラックマンさん殺人事件の犯人を、織原城二という通名で伝えているが、イギリスのテレビ局は韓国系として伝えている〕、この他にも大阪池田小学校の児童殺傷事件(8人殺害、15人が重軽傷)、酒鬼薔薇聖斗を名乗る小学生首切り事件(2人殺害)、和歌山毒入りカレ-事件(4人毒殺)、埼玉の愛犬家連続殺人事件(4人殺害)、等々起こされている。
〔※オ-ム真理教の麻原彰晃とル-シ-ブラックマンさん殺害事件の織原城二、以外はインタ-ネットでの検索。〕この様に「韓国・朝鮮」人による事件は凶悪な犯罪が多く、他にも多数有ることが容易に考えられるが、マスコミが「韓国・朝鮮」人の犯罪について、事件そのものを報道しなかったり、中身を詳しく(通名を使用したり)報道していない。
殺人事件以外の大きな事件では、闇の権力者(暴力団山口組とも親しくオーム真理教との関わりも噂される)と言われた在日韓国人の許永中(きょ えいちゅう、ホ・ヨンジュン)による戦後最大の経済事件のイトマン事件がある。許永中は特別背任罪で逮捕・起訴され、実刑判決を受けている。通名は野村永中(のむら えいちゅう)あるいは藤田永中。
2014年3月に起きた千葉県柏市の通り魔殺人事件の犯人の竹井聖寿は帰化人と言われているが、
国民が知らない日本の危機!
▼本当は「日本人」でなかった、在日犯罪▼
●田中裕行(徐裕行)→在日韓国人で山口組系右翼・暴力団組員。オウム真理教 村井秀夫刺殺事件。 【ソース:ネット・テレビ局】
●織原城二(金聖鐘→星山聖鐘→織原城二・2回名前を変えている) →帰化済みの元在日韓国人。「ルーシー・ブラックマンさん失踪殺人事件」など英国人豪州人女性を強姦、ビデオ撮影、バラバラ殺人 【ソース:・米TIME誌・英BBC・英THE
INDEPENDENT・英Guardian誌など】
●麻原彰晃(松本智津夫) →父親が朝鮮人。オウム真理教教祖。サリンを撒き無差別殺人。坂本弁護士一家惨殺 【ソース:米大人類社会学のJames Lett教授】
●市橋達也→父親が朝鮮系日本人。「リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件」【ソース:イギリス国内では朝鮮系日本人と報道。父親が朝鮮系日本人。】
●谷口充恵(鄭永善)→在日支那人。滋賀県長浜市園児殺害事件。知り合いの幼稚園児2名をめった刺しにする。【ソース:日経新聞など】(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、NHK,TBSは通名)
●神作譲(小倉譲) →在日朝鮮人。女子高生コンクリート詰め殺人犯。サブリーダー的存在。
●島正則(辺英鉄)→大阪府茨木市 男が全裸で車運転5人を撥ね殺傷。【ソース:フジテレビなど】【なぜか消される容疑者辺英鉄】Googleで検索。
●宅間守(崔吉竜) →大阪池田小学校の児童殺傷。8人殺害15人が重軽傷。創価学会員、朝鮮人部落出身
●東慎一郎 →酒鬼薔薇聖斗。神戸の首切り小僧。生首を校門に飾る。2人殺害。両親は在日部落出身者で帰化人。
●林真須美 →和歌山毒入りカレー事件。4人毒殺63人が負傷。帰化人
●関根元 →埼玉の愛犬家連続殺人犯。4人を殺害。肉片を削ぎとりドラム缶で焼却、川へ流す
●丘崎誠人 →奈良岩を数回、少女の頭部に投げつけて絶命させた在日朝鮮人
〖第十五項〗『日本と「韓国・朝鮮」との戦後の問題』
日本と韓国との関係を考える上で、必要不可欠な問題の一つに、日韓基本条約締結交渉〔日韓国交正常化交渉(1952年~1965年)〕がある。
(このときの韓国は北朝鮮も含めた朝鮮代表の立場ということであり、朝鮮半島との全ての過去の問題はここに終っている)
日本の朝鮮統治が1945年終焉し、そのあと朝鮮半島は南北に分断(1948年南北に分断⇒1950年6月25日に朝鮮戦争勃発)され、南の韓国では李承晩が初代大統領に就任した。
当時の李承晩政権(1948年~1960年)との日韓の国交正常化交渉が行われた状況下は、正常化交渉が始まる1952年2月の、1ヶ月前の1月18日に韓国政府は交渉を有利に行うため、(1952年4月28日にはサンフランシスコ平和条約発効により竹島を含む日本の主権回復をも控えてもいた)「李承晩ライン」を一方的に公海上に引いて、竹島を不法に占拠した。この時、日本政府だけでなく、アメリカ、イギリス、台湾も韓国のこの行為に対して抗議をしたが、韓国政府は聞く耳をもたなかった。
また、日本漁民は当然のこととして公海上で操業しており日本漁船が韓国政府のもとに拿捕されることになった。船では328隻の漁船と、3900名を超える日本人漁民が拿捕され、韓国に連行され、それこそ本当の「強制労働」もさせられている。
1953年2月4日には、李承晩ラインを侵犯したとして、日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺されるという事件も発生している。これらの結果、日本人44名の方が死傷(5名死亡)している。
※韓国の初代大統領李承晩 が勝手に竹島を取り込む境界線を引くことにより、1952年(昭和27年)~1962年(昭和37年)の間
竹島付近の日本人漁民を拿捕、殺害
抑留者数:3929人
拿捕船舶:328隻
死傷者数:44人(5名死亡)
国交正常化交渉がこのような状況のなかで山場を迎えていたころ、日本は拉致された日本漁民を救うため、他方では岸内閣が外交交渉にあたっていた。韓国側に拉致された日本の漁民は岸信介首相(関連付録3)のお膝元である山口県や山陰地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。
一方,日韓の国交正常化交渉で一番大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題である。
韓国側としては、その個人資産の問題をもちだされては困る。何とか日本側にもちださせない為には、どうしたらよいのか。そこで韓国側が外交カ-ドとして使ったのが「拉致した日本漁民」たちである。
「竹島問題」、「李承晩ライン」、「個人資産問題」、「在日韓国人の法的地位要求」、「日本の韓国・朝鮮人犯罪者の釈放」などの要求で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
現在、同じ朝鮮民族である北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパタ-ンで非常に悪質である。
その結果、正常化交渉では朝鮮半島に残してきた日本人の財産請求権が放棄され、在日韓国人の法的地位(朝鮮半島出身者のうち終戦(1945年8月15日)以前から引き続き日本に居住している韓国籍保持者(および協定発効後5年以内に日本で出生した直系卑属)に対し出入国管理令(後の入管法)に基づく一般の永住許可とは別の永住許可(協定永住)を与える制度を主たる内容としている。対象者は、協定発効後5年以内に申請すれば、この協定永住の許可が与えられた(法令による自動付与ではなく申請が要件とされた)。また5年経過後も、既に協定永住を得た者の子(孫以降は含まない)に限り出生後60日以内に申請すれば、同じく協定永住の許可が与えられた。この協定永住を保持する者に対しては、麻薬犯罪や内乱に関する罪など重大な犯罪を犯さない限り、退去強制の対象とならないなど、他の在留外国人に比べ優遇措置が適用された)が認められ、
さらに、韓国朝鮮人の犯罪者472名を釈放し,尚かつ犯罪者に在留許可を与えたのである。
※〔この個人資産は当時(1952年の日韓国交正常化交渉時)の韓国経済の80%に当たると言われている。
個人資産の総額は当時の価格で257億円、現在の価格に換算すると4兆9千億円にも上る。
また終戦後、日本が朝鮮半島に残してきた資産総額は現在の価格で、北朝鮮が8兆7800億円、韓国が8兆1500億円の合計16兆9300億円で、個人資産までの合計では21兆8300億円という莫大な額にのぼる〕
これらは日本政府が毅然とした態度をとらない姿勢が大きな要因となっているし、「韓国.朝鮮」におもねる姿勢も大問題である。
昔も今も日本は韓国を助け裏切られ
2013年(H25年) 7月10日に韓国の ソウル高裁が、第2次大戦中に日本に徴用された韓国人労働者が新日鉄住金(当時は日本製鉄)を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、新日鉄住金に賠償を命じる判決を言い渡した。
日韓間の財産請求権は1965年の日韓基本条約で解決済みという国家間の基本合意があるにも関わらず、訴訟を起こす韓国人・韓国政府・それに国家間の正式の合意を否定する韓国司法といい、本当に手が付けられない火病国家である。
韓国において、このようなことが続くのは日本の朝鮮統治から戦後一貫して見れば、韓国人(朝鮮民族)の相手の弱みに付け込む本性は明らかになっており、逆に日本は韓国に朝鮮統治の銀行・学校・鉄道・道路・橋梁・港湾等の建設や通信などの社会資本整備費や税収不足を補う為の補充金等々日本が朝鮮半島につぎ込んだ金額、今の金額で言えば60兆円以上に該当するが、この金額の返還を即刻要求すべきである。
※【経済ニュース】 2012/08/22、によると日本のGDPにおける、韓国への輸出が占める割合は1.12%、韓国からの輸入が占める割合は0.68%。輸出入を合計しても、1.80%
1997年、アジア危機で苦しむ韓国を日本が救済
1997年のアジア通貨危機当時、韓国は世界から多額の資金を借りていた。
当時、韓国は日本から118億ドルの借り入れがあった。
日本にも通貨危機が波及していたにも関わらず、日本政府は邦銀に対して返済繰り延べの説得に奔走し、韓国の資金返済が楽になるよう日本の金融機関のみならず欧米をも説得して妥協させた。さらに100億ドルの債務保証も行っている。
2005年、日韓通貨スワップ協定締結
「通貨スワップ」とは、通貨危機に陥った際に互いに通貨を融通しあう制度で、日本と韓国とは2005年に初めて通貨スワップ協定を結んだ。戦後、日本は通貨危機に陥ることは一度もなかったが、韓国はアジア通貨危機など、過去に何度か通貨危機を経験しており、事実上、韓国が危機に陥った場合を想定しての日本の救済措置協定。
2008年、リーマン危機で限度額引き上げ
リーマンショックで、韓国経済が危機に陥ったため、当初限度額30億ドル(当時約3千億円相当)だった日韓通貨スワップ協定を、日本政府は一時的に200億ドル(当時約2兆円相当)に引き上げてやった。この日本の協力で韓国は危機を脱し経済を安定化させた。
2009年~2011年 韓国ウォン安政策で日本打撃
2011年夏、ウォン急落で韓国ピンチ
ウォン安政策により飛ぶ鳥落とす勢いだった韓国だが、欧州危機により信用収縮が起き、ウォンが急落した。慌てた韓国は「米国や日本がウォン急落を防いで通貨を安定させる責任がある」と言い始めた。
2011年秋 民主党、韓国を全力で支援
韓国ウォンが急落の気配を見せ始めたことを受けて、将来の急落に備えた安全網という意味で、日本の民主党政権(「親韓・親朝・親中」政権)は善意で通貨スワップ協定を700億ドル(当時約5兆4千億円相当)に拡大した。そのことについて、韓国メディアは「ケチな日本が、予想を超えるスワップ700億ドルを締結」と報道した。
日本の経済界においても、自動車の製造技術や、半導体技術を韓国企業に供与して、ヒュンダイ自動車やサムスンをはじめとする電子メーカーを育て、さらに通貨危機の際には身を削ってまで韓国を助けてきた日本。それらをことごとく仇で返してきたのが韓国という国である。
以上、これまでの検証を振り返り、大事なことは、日本政府がとってきた「朝鮮半島の日本統治前からと、今日に至る、対「韓国・朝鮮」に対する一貫した認識の甘さ」がある。互いに調印を取り交わし日韓併合してから100年経った現在でも日本政府の韓国に対するその姿勢は変わっていない。このような韓国に対する日本政府の甘い姿勢が、2012年8月の韓国大統領イ・ミョンバクの韓国大統領として初の竹島上陸を起こさせ、「天皇謝罪要求発言」や「日本の影響力低下発言」などに繋がっている。
このように、日韓には大きな問題が沢山あったし、今も沢山存在し続けているが、この徴用(強制連行?)についても、国は国会という場ではこれを否定しているにも関わらず、現実は歴史教科書に載ったり、また全てのマスコミもこの徴用(強制連行?)を機会あるごとに流し続けているというのが現状である。
2003年の2月には、韓国のソウルで「南北朝鮮と在日」が連携し、韓国の「民族正気を打ち立てる国会議員の会」が主催して、日本の植民地時代の朝鮮人被害者名簿が公開され、日本政府に真相究明を求めていくことが示されている。
ここで、日本政府は公式の場で明確に「強制連行」についてハッキリ、自国の主張をしておかないと、今後、間違いなくこの問題で「韓国・朝鮮」に損害賠償の請求を要求されるのは、いままでの経緯からすると間違いない事である。
以上、述べてきた事項は日韓関係の大事な部分である。
だが、日本のマスコミは韓流ブ-ムを故意に煽って作り出しても、日韓関係で本当に国民が知らされなければならないこれらの事案は機会があってもなぜか、NHKはじめ各民放テレビ局では一切、無視され扱われないが、逆に韓国や韓国人が利する韓流ブ-ムなどは、煽って流布しつづけているという大変おかしな日本のマスコミの姿がここにある。
過去に何回も繰り返された教訓をもういい加減に生かして、「韓国・朝鮮」に対する認識の甘さを捨て、日本は独自の外交戦略として頑とした対「韓国・北朝鮮」政策及び、在日「韓国・朝鮮」人政策をすでに持って実行していなければならなかったことは間違いないが、未だに、これらの兆候の欠片さえ見当たらないどころか、要求を受け入れ続けている。
また、この在日「韓国・朝鮮人」政策の中で、近年(H12年.5/31)に自民、公明、保守の与党3党が提出していた「国籍離脱戦没遺族等弔慰金支給法案」が3党及び共産党の賛成で可決されたが、そもそもこの法案も2重払いの法案で問題である。
この法案は、第二次大戦で日本軍の軍人、軍属として働いた「韓国.朝鮮」等のうち日本に残った者らに対し戦傷病本人には見舞金200万と老後生活設計支援特別給付金200万の合計400万を、また戦死者や戦傷病者の遺族には弔慰金260万を支払うというものだ。
しかし、さかのぼれば日韓の間で結ばれた「日韓基本条約」により、全ての保障問題は昭和40年(1965年)に締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との協定」で「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」(第2条)とされている。
このように日本政府自らが、国民の税金をないがしろにする行為を行っている。
もう一つ、歴史認識不足がはなはだしい中の一つに、韓国との「慰安婦」問題があるが、これはH9年、1月19日の参議院予算委員会での平林外政審議室長の答弁で「H3年からH5年にかけて、政府をあげて公文書を洗いざらい調査した限りの文書には軍や官憲による慰安婦の強制募集を指示した記述はなかった」に集約されるし、「慰安婦強制連行」説を唱えていた中央大学の吉見義明教授でさえ、「官憲による連行が朝鮮や台湾であったことは確認されていない」と述べざる得なくなったのが「慰安婦」問題の結末である。また、元慰安婦と自称している人たちの証言でも、日本の官憲によって強制的に連行されたという裏づけの証言は現在も存在していない。(※付録12)
さらに、慰安婦問題をマスコミが煽った一つに、吉田清冶著の「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」という、韓国(済州島)で慰安婦狩を行ったとする本があるが、これも千葉大学の秦郁彦教授の現地調査や週刊新潮(1995年1月5日号)の取材でウソが発覚し、本人も「あれは創作だった」と認めている。
また、河野官房長官談話の作成にかかわった石原信雄官房副長官(当時)の証言でも「関係各省庁が国の内外で徹底調査したが、政府や軍が女性の強制連行を指示したような文書や証拠は一切なかった」ということも、この河野官房長官談話が出た後で明らかにされている。
しかし、当時の河野官房長官が「慰安婦募集は本人達の意思に反して集められたことが明らかになった」「更に官憲等が直接これに加担したこともあった」などという作り話の「河野官房長官談話」(この談話は全く根拠がない。元慰安婦と称する女性たちからの聞き取り調査だけ(※付録12)で、官憲による慰安婦の強制連行を認めたという無責任なものである。また、韓国政府から金銭的補償はこちらでするから慰安婦の「強制連行」を認めてほしいと強く要請をされ、当時の河野官房長官と宮沢喜一首相が政治判断し、事実を明かにすることを放棄し、外交取引により、慰安婦の強制連行はあったと決めたものである)を出している。
※この1993年(H5年)8月に出された河野洋平官房長官談話(宮沢内閣)を歴代政権が放置しておいた結果、アメリカで日系のマイク・ホンダ氏ら7議員による「慰安婦問題をめぐる対日非難決議案」が、H19年1月31日にアメリカ下院に提出されている。(この年の6月26日にはアメリカ下院で可決された)
この決議案の採択阻止に向け、あわてて日本政府は動きだしたが、この慰安婦の問題も日本政府が長い間、放置しつづけた結果でもある。
尚、この慰安婦問題についても忘れてならないのは、もとはといえば、「日本のマスコミ」が煽って本当のごとく流布した結果である。
このように、日本のマスコミや政治家が自らウソの歴史的史実を作り上げているが、これが日本の実態でもある。
また、多くの政治家が不思議とあまり感心を示さない拉致問題であるが、これら政治家の朝鮮半島との「歴史認識や政策」の怠慢が日本人拉致を生んでしまったのは間違いない。故金日成主席が「日本が36年間の植民地支配と略奪の罪の意識から、わが共和国に強くでられない」という日本人の歴史認識の分析のもとに日本人の拉致を指令していた事が新聞紙上で明らかにされている。
以上のように、政治家が朝鮮半島との歴史認識や政策を持たない限り、過去の国交正常化交渉での、認める根拠が一切ない在日「韓国・朝鮮」人の法的地位や、朝鮮半島に残してきた「日本の財産請求権の放棄」のような日本の国益に反する要求を、日本国は今後も朝鮮半島に脅し、ゆすり続けられるのは間違いない事である。
その“ゆすり”であるが、今後遠くないいつの日かに、北朝鮮と国交正常化する交渉や朝鮮半島が統一された時に、必ず起こされるところの今の北朝鮮が言い出した全く捏造の800万人~1000万人の強制連行の補償要求が間違いなく考えられる。
戦後の歴代政権のように、デタラメの「強制連行」にしろ、占領されている「竹島問題」にしろ、全て「韓国・朝鮮」の言いなりにやっている、または見て見ぬふりをしていると“とんでもない結果”になるのは100%間違いないことである。
当時の日韓併合に日本の政府、軍、マスコミの多くが朝鮮において反日事件を防止する為には、保護国より併合が有効と考え、大韓帝国との合意により善政をほどこしてきた日韓併合時代を振り返って、結果、「併合」は保護国時代と変わらず「反日、排日」は消滅どころか、逆に“ひどくなった実態を教訓として学んでいるにもかかわらず”現在の日本政府が執っている近隣諸国(「韓国・朝鮮」)との国益、主権を無視した友好だけが必須の外交政策を前面に押し出す戦略なき、対「韓国・北朝鮮」政策及び、在日「韓国・朝鮮」人政策に対し大きな警鐘を鳴らしたい。
※国益、主権無視の「友好とおもねるだけ」の対「韓国・朝鮮」政策を押し進める日本の政府の政策の裏で、現在、韓国では日本の神話を自国の歴史にすりかえようとする研究が歴史学者たちによって行われている。高天原は韓国にあるとし、韓国内にその地をでっちあげ、日本の開祖であるイザナギの尊やイザナミの尊は韓国から日本に派遣されたというスト-リ-を作り上げようとしており、日本の歴史の始まりは朝鮮半島ということにもなりかねないのである。