構 成
(1) ようやく注目されてきた「富海」の「維新史」における「位置」 (2)「ブログ」について (3)「トンネル」を抜けるとそこは・・・//(4)「大和屋」の「船蔵」 //(5) 本来≠フ「船蔵」は? //(6) 「伊根」の「舟屋」 (7) 「小田浦」着の「薩摩艦」の兵を「飛船」で「上方」へ //実質的≠ネ「薩長同盟」の発効=I//残念≠ネ「維新ふるさとかるた」のこと (8) 『防州日記』にある疑問な記述のこと//(8)「天橋立」に匹敵するかのような「伊根の舟屋」の「ポスター」での扱い (9) 「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」のこと 「伊根」の「舟屋」を参考にしての「イメージ図」 「考証」に基づく「予想復元図」 (その1)=「船蔵通り」//「考証」に基づく「予想復元図」 (その2)=「大和屋の船蔵」 |
◇ 近年#ュ表の、代表的な「研究論考」・「新聞記事」 「山陽道」の宿駅と港の両方がある、つまり、「海・陸の接点=vとなるところ=陸路から海路に変更可能なところが 「富海」 であり、富海以西では、そういう地域はないこと、 及び、 「上方」、「関東」に行くには、 嶮しい「峠越え」を控えていることで、「鉄道開通」までは、要所であり、 「飛船」が栄え、「旅籠」もたくさんあった等、 「歴史的」に重要な地であったことは、 「古文書」や「大冊」の中のごく一部≠ニして、紹介されていたものの、一般≠ノは、残念ながら、あまり知られているとは言い難い状況だったと思います。 しかし、近年、「研究発表」や「新聞記事」など、容易に£mることのできる「情報」が、出てきています。 ○ 児玉 識氏 「富海の歴史的特質について(その1)」 『佐波の里 第32号』 平成16(2004)年3月刊]=全63&ナ中の10&ナ分 を始め、 ○ 『幕末期における長州瀬戸内の村 富海の躍動』 [出穂稔朗氏 平成28年3月刊]=全87&ナ
○ 「朝日新聞」 平成28年5月27日
といったものが代表的なものです。 |
「ブログ」について この 「ケーブル」による「ホームページ」(http://www.c-able.ne.jp) の容量が残り少ない≠アと、 及び 多くの「写真」を取り込むことが可能で、かつ、「写真」が、大きく=u拡大」するというメリットがあることから、「Yahoo」の「ブログ」でも、同様な「ページ」を作っています。 クリック≠キると、「アクセス」できます。 |
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残念ながら=A現時点では、「大和屋政助の船蔵」の「内部」の見学はできませんが、 「3枚目」の「写真」のように、かつては「船蔵」であったであろうと思われる「石組み」が幾つも続いています。 そのうちの一つに、「船蔵」部分が露出している「船蔵」跡があります。 (4枚目・5枚目・6枚目の「写真」は、方向を変えて撮った「写真」です。) この、「船蔵」跡で、ある程度の「確認」はできます。 現状≠ノおいて、「船蔵」及び「飛船」の規模・大きさを知るには、この「写真」の「場所」がベスト≠ナす。 5枚目の「写真」の「右奥」の「石の階段」を上ると、「上」からも、「船蔵」の大きさ及び「飛船」の大きさを類推することができます。 4枚目の「写真」は、「旧街道」側から撮った「写真」ですが、「空き地」の向こうに、「石」が並んでいる箇所から向こうが「船蔵」箇所です。 隣の「建物」のような「建物」が「船蔵」の「上」ダケでなく、続いていたことが、類推できます。 今日の「一階」が「車のガレージ」で「二階」が「住まい」といった「家」もそうですが、「船蔵」が5枚目・6枚目の「写真」のような「広さ」では、到底「生活の場」にはならないハズです。 この「船蔵」からして、「飛船」がどの程度の大きさであったかが推測できます。 無論、大きさは、一定していなかったとしても、大きな「違い」はないと、私は思います。 文久三(1863)年10月、明治天皇の叔父にあたる中山忠光卿は、
幕府に追われる身となって、長州を頼って大坂から飛船で富海に落ち延び、 大和屋政助宅の土蔵の二階にしばらく潜伏した。 と、「大和屋」の「船蔵」前の「解説」にありますが、土蔵の二階というのは、潜伏ダカラであり、 この「写真」ダケが、多く使用されているタメ、誤解≠ウれそうですが、「船蔵」は、「住居」とセットであったハズですし、「大和屋の船蔵」の後ろには、現在≠焉u家」があります なお、この4枚目・6枚目の「写真」は、「平成28年11月3日」に、「確認」に訪れた際の「写真」ですが、 誰もおられないタメ、現状に変化がないように、注意を払いながら「立ち入らせてもらいました」が、許可が必要かもしれません。 注意されれば、その注意に従ってください。 |
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児玉氏の「富海の歴史的特質について(その1)」によると、 天保年間には五十数人の船主がいたことが史料の上から確認できます。 とのことですので、 この「伊根」の「舟屋」のように、「富海」の「船蔵通り」も、「船蔵」が、 連なっていたのだろうと思います。 「伊根」の「舟屋」ほどではないにしても、「上」の「写真」(←クリック)のように、かなり¢アいていたことは、想像できます。 Εメール
「富海」の「船蔵通り」 の「写真」、「絵図」をお持ちの方、 もしくは、 何かに掲載されていることを御存知の方は、 できれば、上のΕメール≠フ部分をクリックすると、私=河野宛 の、「メールアドレス」が設定されていますので、お知らせくださるよう、御願いします。 いずれ、『出版』も予定していますが、 とりあえずは、「このページ」にお名前を掲載させていただきます。 |
「上」の「図」は、観光拠点施設「防府市まちの駅」=「うめてらす」の「観光案内図」の一部です。 残念ながら=A野村望東尼の『防州日記』には、望東尼の誤解と思われることがあり(←クリック)、 はたまた、『防府市史』に、問題があるタメ、 「おもてなし観光課」・「防府市観光協会」に「検討」を御願いし、「基礎資料」である『防長回天史』、「調査・研究」を重ねておられる野方春人氏の『野村望東尼の周辺』の 4 薩摩艦隊三田尻着港と長州の方針転換 を初めとする複数≠フ野方氏の『著作』なども「確認」していただき、 このように、「光永寺」(『防府市史』では「光宗℃宦vという「伊佐江」に実存する大きな℃宸ノなっています)・「小田浦=v・「翔鳳丸・平運丸」投錨の地・「小田港」といった箇所をつけ加えていただきました。 (ここ以外にも、「訂正」・「追加」と、誠実に′沒「していただいています。) 「翔鳳丸」・「平運丸」でやってきた「薩摩兵」859$lを、上坂させたのが「飛船」なのです。 「望東尼研究の決定版=vといわれている谷川佳枝子氏の『野村望東尼』 ですが、野方氏も私も、幾つかの「疑問点」を見つけていますが、この「薩摩兵」 859$l のことも、問題があります。
とありますが、『修訂防長回天史』(←クリック)、の記述は、後掲しているようなハズで、 此後一定の人員をして上陸せしめ接待饗応すること之れを 屡々すというのですから、 野方氏が、「他の資・史料」をも検討されて『野村望東尼の周辺』等で述べられているごとく、
薩摩兵は、「薩摩艦」に寝泊まりし、順次、「光永℃宦v・「善正寺」で、「入浴」・「食事」等の世話を受けながら、 ほぼ、「二週間」かけて、「飛船」で、大坂へ輸送されたということのハズです。 (富海の船は、三田尻の船よりも速力があり、しかも数も三田尻の二倍もいた 児玉氏 「富海の歴史的特質について(その1)」
とあるように、富海が主体ですが、三田尻からの上坂もあったかと思われます。)
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「薩摩軍」が、約束の「九月二十五日or二十六日」に来ず、薩摩に対する「疑念」が生じていた中で
「十月九日」に「小田浦」に「薩摩兵」がやってきて その「薩摩兵」を「飛船」で上坂させたことが、 実質的≠ネ「薩長同盟」の出発点として、「維新史」に、特記すべきでしょう。 ただ、望東尼は、「長州藩士」を送りがてらということですので、 「長州第一陣」の出発≠フ日(予想外に、遅れて「十一月二十五日」)までは、三田尻に滞在するつもりであったと思われますが、病はそれを許さなかったということでしょう。 ただ、それでも、望東尼は、 冬ごもり こらゑこらゑて 一時に 花咲きみてる 春は来るらし という「歌」を詠んでいることとて、夜明けを確信していたと思われます。 |
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「富海」についても、「追加」が・・・ 「おもてなし観光課」・「防府市観光協会」に、私が「提言」したのは、「富海」については、 「琴音の滝」と海水浴場ダケでなく、 せめて「大和屋」くらいは、「千三百年の史都」の「観光案内図」において、示すべきでは、 ということでしたが、「おもてなし観光課」・「防府市観光協会」は、 伊藤・井上両公上陸地についても、「追加」してくださっています。 |
『防州日記』 における上の関(『天理大学本』=かみのせき)のこと 『防州日記』には、
と、二箇所、かみのせきが出てきます。
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なお、「小田浦=vは、望東尼が見た時代とは異なり、現代≠ヘ、「桑山」からは、「建物」の関係で、見えにくいタメ、 「右田ヶ岳」からの「写真」を提供していただきました。 「左」の「島」が「小田港」のある「向島」 「右」の山の麓近くに「光永℃宦v、「善正寺」があります。 (「上」の「観光案内図」参照。) 「小田」と「中関」の間ですが、「小田浦」と呼ばれています。 |
「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」ができまいかと、「提案」しています Εメールで「富海」の「船蔵通り」 の「写真」、「絵図」をお持ちの方、 もしくは、 何かに掲載されていることを御存知の方は、 できれば、Εメール≠通して、お知らせくださるよう、御願いします。 としているように、 可能な限り「データ」を求め、 「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」を、 とりあえずは、「このページ」に、 いずれは、私の『出版』の中に載せるべく、考えているダケでなく、 できることなら、公的≠ネ『出版物』or「看板」等にも、「紹介」してほしいこととて、 「英雲荘」の館長の山根俊夫氏が、「歴史家」のみならず、「画家」でもあるので、 御願いしているところです。(後述←クリック)
これまで、公≠ノなっていないこととて、ないのかもしれませんが、 「『古地図』を使ったまち歩きの講座」等を担当しておられる「山口県文書館」の「専門研究員」である山本明史氏に、お尋ねし、 「探して見ましょう」と、言っていただいています。 「山口県文書館」には、これまでにも、金谷匡人氏、吉本一雄氏、山田 稔氏・・・・ と、素人≠フ「研究」にも、適切≠ネアドバイスや「史料」の「紹介」をしていただいています。 山本氏には、「松崎天満宮」に、「参籠」の施設があったことを、 「山口県文書館」所蔵の「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料に 「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。 (なお、これは、望東尼が「天満宮」に七日間、「参籠」し、絶食したという流布≠オている誤りを「確認」するタメのことで、
「参籠施設」があることとて、数日≠ヘ、「参籠」していた「可能性」を述べるタメの「調査」でした。 『防州日記』を読んでみれば、七日間、「参籠」し、絶食ということが誤りであることは、容易にわかります。) 楫取素彦─吉田松陰・野村望東尼ゆかり≠フ人の中に、記しています。 「維新」は、「日本の歴史」を語るには不可欠≠フことのハズですので、 かつての「船蔵通り=vを、「訪れる方々」が、思い描かれる切っ掛けになればと、思ってのことです。 |
山根氏は、「維新史」に大きな位置を占める「英雲荘」の「館長」であることで、 「協力」を約束してくださり、私の持参した「伊根の舟屋」の「写真」を参考にされ、 「昼休み時間」であったこととて、 即座≠ノ「こんな感じの絵になりそうです」として、手元の「用紙」に描いてくださいました。 「左」のバック≠ノ「文字」が写っているのは、側にあった「用紙」の「裏面」を利用されて描かれたからです。 これは、あくまで、山根氏の「イメージ」ですが、「富海の船蔵」を、再度、訪れてみるし、「参考資・史料」が出てくれば、 何度でも、やり替えるつもりとおっしゃっくださっています。 |
山根氏は、「文献」研究 & 現地の調査 をされ、新しい=u復元予想図」を描いておられます。 ただ、まだ、「途中」 (その1としている「理由」です )なのですが、「維新150年」を「目前」にしていることとて、「富海」の「船蔵通り」を訪れられる方も少なくないと思われるのに、ごく普通の「蔵」or「倉庫」としか思えない現状ですので、「想像力」をかき立ててもらうべく、 山根氏に、お願いし、この「完成前=vの「復原予想図」(「右下」に 富海飛船〜飛船倉 2017 1/14 とあるのがわかるでしょうか)を、私の「このページ」に、「紹介」させてもらうことにしました。 私が言うのは僭越ですが、私の「ホームページ」は、それなり≠フ「アクセス」(←クリック)があります。
これまでの、「他のページ」の「リンク」設定からのみならず、「このページ」そのものが、「Yahoo」・「Google」での「検索」を可能にしてもらえたことで、「アクセス数」も増えると思っています。
「右」の建物が、「大和屋政助の船蔵」(←クリック=jです。 なお、 「伊根」の「舟屋」(←クリック=j と異なり、「幕末」には、「船蔵」は、波・風によって、「海」との間に「砂」が堆積していて、「舟蔵」と「海=vとは離れていて、 「飛船」を海に運んでいたことも、山根氏は、「研究・調査」され、この「復元予想図」に取り込んでおられます。 (「船蔵」のそれぞれに、砂場に、波打ち際まで運ぶための「石組み」のようなものを描いておられます。) 私は、山根氏に、「調査・研究」されたことを、「活字」としても残されるよう、お願いしています。 |
山根氏は、「英雲荘館長」という「立場」で、既に、「富海地区」をも「対象」として、「調査・研究」をされており、「現地見学会」の「講師」の一人であることとて、 「大和屋の関係者」の「理解」のもと、 現在≠ヘ、公開されていない「船蔵」の「内部」も、確認(「巻尺」・「写真」等も利用)されているのみならず、 『佐波の里』第41号の出穂稔朗氏の「富海飛船の歴史」も「参考資料」にされて、 「大坂迄」への「三艘」の「復元図」も、描いておられます。 (「大和屋」の内部からで、既に、二艘は、海上に描かれています。) 8人、9人、8人の25名が乗船したようです。 (この「復元図」は、1月17日とあります。) |