構 成
一 残念な≠アれまでの 野村望東尼 に関する 公的・準公的≠ネ「資料」 (1) 「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」 ◎ 望東尼が顕彰≠ウれるのは、なぜかを「確認」すべきでは・・・ (2) 「ホームページ」の野村望東尼 ─ 「防府市」//「山口県」 ─ (3) 現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」(実際≠ヘ、「終焉の宅=荒瀬邸」の一部≠ナある「離れ」を移築した) |
一 残念な≠アれまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」 |
「山口県文化財」への「申請書類」を始め、これまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」には、 残念ながら=A問題点がありました。 さらには、「平成28年」は、「望東尼の150回忌」 ということで、様々な「企画」がされたのですが、 紙面を大きく取った『読売新聞』=「維新支えた望東尼に学ぶ」[6月1日(水)]
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と、困った≠アとを含むものが、続いて公表されました。
『佐波の里』(第44号)=「野村望東尼と防府─楫取素彦と野村望東尼─」、 「英雲荘」における「観月会」において「展示」された望東尼の「歌」とその「パンフレット」 (「英雲荘」は「会場」であり、「英雲荘」で用意されたものではありません) 『望東尼物語』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さらには、「維新150年」に因む 防府市の明治維新史をテーマに、イラストや版画、歴史資料、写真で志士闊歩の地・防府を楽しく遊んで学べるオリジナルかるたです。≠ニいう 「維新ふるさとかるた」 にも、望東尼に関係のあることにおいて、「疑問」のあるものがあります。 こうした現状において、まず、公的=E準公的≠ネ「資料」のうち、 野村望東尼の終焉の地=「防府市」
において、目に触れることの多いものを、少しばかり、示すことから始めましょう。
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「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」 |
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野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。 県指定 史跡 野村望東尼 終焉の宅 及び宅跡並びに墓 昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅 岡村町五の三 宅跡 三田尻本町十の二 墓 桑山一丁目四 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、 翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 (一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給え〈え≠ヘママ〉 (二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草 (三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ (四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋 (五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時 (六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな (七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。 平成十五年一月 山口県教育委員会
防府市教育委員会
「平成九年」設置ということで、この「解説」も問題があります。
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「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼 |
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「ホームページ」=「山口県の文化財」の 野村望東尼 |
◎ 「ホームページ」=「山口県の文化財」=野村望東尼終焉の宅跡及び墓(「平成28年11月10日」現在) 一般向け説明 野村望東尼(「もとに」または「ぼうとうに」、1806〜1867)は幕末の勤王の女流歌人。 家集に「向陵集(こうりょうしゅう)」がある。 54歳で夫と死別した後、仏門に入って尼となった。 1864年(元治元)には、長州藩を脱した高杉晋作を厚遇している。 その後、福岡藩内の勤王派粛正により姫島(現福岡県糸島市)に流されたが、1866年(慶応2)高杉の部下らによって下関に救出された。 下関で高杉の死を看取った後は、山口の小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとに身を寄せた。 1867年(慶応3)、討幕軍の東進を耳にして防府に赴き、防府天満宮に参籠してその成功を祈った。 そのために体を害し、三田尻中塚町(現防府市)の寓居で病死した。 行年62歳。 墓は桑山の山腹にある。 小学生向け説明 野村望東尼(1806〜1867)は、幕末に活動した女性です。 54歳で夫と死別し尼となっています。 高杉晋作たちと親しく交わり、1867年(慶応3)に薩摩と長州が幕府と戦ったときには、防府天満宮にこもって成功を祈りました。 そのため健康を害して、防府で亡くなりました。 墓は桑山の山腹にあります。 さすがに、「終焉の宅」の「指定」のことは削除されていますが、この「解説」も、十分とは言えません。
単に=A「長州藩を脱した高杉晋作を厚遇している。」・「高杉晋作たちと親しく交わり」といった解説では、 高杉を匿ったことが結果的≠ノ、「維新」に深く関わることになったということの説明にはなっていないハズです。 さらに、防府天満宮に参籠してその成功を祈った。 そのために体を害し、=E防府天満宮にこもって成功を祈りました。 そのため健康を害しては、『防州日記』に比して、おかしいことは、明らかです。 小学生向け説明にある薩摩と長州が幕府と戦ったときとあるのもおかしく、戦うべく、防府から東上するという「情報」を聞きのハズです。 望東尼の在世中には、マダ、戦ってはいないハズです。 楫取素彦との関係も、 下関で高杉の死を看取った後は、山口の小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとに身を寄せた。は、大雑把すぎます。 楫取のもとに、身を寄せたのは、短期間のハズです。 「防府市」が、「修正」 に動いてくれていることからも、「維新180年」を機会に、見直してほしいものです。 |
現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」 |
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「石碑」にある「解説」 長年に亘る「山水の流れ込み」で「住めない家」になりながら、しかも、「終焉の宅」であることを疑わせる「情報」バカリで、「見学者」は皆無≠ノ近いのに、 「焼けて無くならない限りは『指定解除』しないし、寄贈も受け付けない」と「県教委」の「担当者」に言い放たれていたこととて、 「調査・研究」の末、望東尼が亡くなったのは、「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」であって、その「荒瀬家」の「主家」が、 「平成の初め」に、「解体」→「新築」されているのだから、「亡くなった部屋」のない「終焉の宅」の「指定継続」はおかしい≠ニして 「指定解除」してもらった「家」の前に現在もある 「山口県指定史跡」としての「終焉の宅」の、「石碑」の「解説」です。 (「写真」の文字を確認ください。) これにも、「七日間」の「参籠」、そのタメ、望東尼は亡くなったかのように≠ネっていますが、これはまだいい方です。 「一七日」ひとなのかを「17日」とした公的≠ネ「資料」もあります。 ただ、この「石碑」も、いつからの「七日間」かが書かれておらず、「参籠」して間もなく亡くなったようになっており、それなら、「終焉の宅」がどこであっても、たいした意味はないと言わざるを得ません。 望東尼は、当初から「七日間」は滞在するワケで、「豪商」である「荒瀬家」の「客間」ではなく、「離れ」を提供したのです。 しかし、薩摩軍が約束の期日に来ないタメ、三田尻に留まったのです。 9月25日から11月6日まで、望東尼は「三田尻」にいたのです。 (「読売新聞」にあるように、「転居」したのではありません。) そして、体調を崩すまでは、望東尼は精力的に、活動しているのです。 つまり、「荒瀬家」の「離れ」は、望東尼が「介護」を必要となる迄、寄寓していたのであり、亡くなったのは、「主家」の「南八畳の間」に移され、多くの人に見守られてのことですが、 こうした「離れ」、「主家」を提供され、篤いもてなしを受けたことに、望東尼は感謝の涙を流したということなのです。 |
この「解説」は、地元の篤志家が建てられた O 明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅 百拾周年記念之碑 という当時≠フ防府市長 鈴木 覚氏揮毫の「碑」(中央) 及び O 望東尼の判読できないとされる「絶筆」をそのまま″盾だ「石碑」(左) と一体で、「右横」に設けられたものですが、 この「解説」は、防府市教育委員会による 『ふるさとをたずねて』 [昭和43年3月] の8&ナにある 野村望東尼終焉の宅および宅跡ならびに墓 とほぼ%ッじ文章です。
「左の写真」は、平成18年の、「防府天満宮」の「望東尼像」の基礎工事なども工事され、この「碑」のアフターケヤーもしてくださっている「山根石工店」の方と、
「防府望東尼会」の方です。 「防府望東尼会」の皆さんは、「望東尼の墓」及び「望東尼の像・歌碑」周辺を中心とする「防府天満宮境内」の掃除・除草も、当番制で、なさっておられるのです。 |
「野村望東尼」の「国指定」スラ願っておられた 田中龍夫氏 |
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この 望東尼 の寄寓した 旧「荒瀬家の離れ」 は、「移築・保存」が検討されているということ |
私に「維持・管理」が託されることになった「家」は、 「山水」が流れ込み、「住めない家」にされているのみならず、春山育次郎氏の『野村望東尼傳』を筆頭≠ノ、望東尼の「終焉の宅」は、「別の家」だとする「情報」が流布≠オ、訪れる人は皆無に近いのに、 「県教委」も「市教委」も、何等の「対応」をしようとしないでおいて、 「焼けて無くならない限り、『指定解除』はしないし、『寄贈』も受け付けない」 と、「平成16年当時=vの「県教委」の「担当者」に言い放たれたのに加えて、 「指定申請」に同意を求めた「防府市」なのに、 『防府市史 通史U 近世』において、 望東尼は荒瀬家に身を寄せていたが、一説には土井新兵衛家にも身を寄せたのではないかといわれている。
と、望東尼が亡くなった家は、定かでないかのように記しています。
これについては確証がないのでふれない。
そこで、 最低限=A「望東尼の終焉の場」であることダケでも、はっきり≠ウせようとして、 「調査・研究」をしたところ、 望東尼の亡くなったのは、『防州日記』等々の「資料」からして、「荒瀬邸」であることは、間違いないが、 「防府市」が「昭和29年」に、提出した「指定申請書」が、「主家」(「指定申請書」による)と「離れ」を「別の家」として、「離れ」のみを望東尼終焉の宅としており、それが認められて、「離れ」を「指定」している。 しかし、望東尼の亡くなったのは、「介護」が必要な病状となったことで、旧「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」に移され、そこで、も手厚い「介護」を受けつつ、亡くなったということがわかりました。 「山口県指定文化財保存顕彰規程」が、「昭和41年」に、「山口県条例」に昇格し、望東尼関係は、「指定」が継続しますが、困ったこと≠ノ、 『文化財資料』や「ホームページ」は、問題がありました。 望東尼の寄寓していた「離れ」は、「大正」(林川氏による)、「昭和」(購入後、私の両親による)の増築があり、「3倍」になっているのに、増築部分を含めて、「全体」がそうだという「図面」になっていました。 (このことの確認調査を、福田東亜氏がされたのです。) そこで、「離れ」は、旧「荒瀬家」の一部ではあるが、 肝腎≠フ「主家」が、存在しない以上、「指定」は解除スベキ として要請したものの、「話し合いの場」スラなかなか、設定してもらえなかったため、 「ホームページ」を作成して、私の「見解」を世の「識者」に問おうとしたところ、 福岡県糸島市の野方春人氏の目に触れ、野方氏が「案内」を求められたのに応じたところ、 予想もしなかった、野方氏による『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのも幸いしたのでしょう、 「平成26年10月16日」(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」が実現しました。 ▼▼▼◆◆◆//(戻る) ─────────────────
しかし、皮肉≠ネことに、私の「ホームページ」や、 野方春人氏の『著書』 に加えて、「大河ドラマ 花燃ゆ」の放映で、私の「ホームページ」 楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─ が、一躍、注目≠ウれるようになった(「アクセス数」は瞬く間に「2万」を越え、現在≠ヘ無くなっていますが、楫取素彦「インターネット内の検索結果」なるもので、「ウィキペディア」に継いで2位とありました)ことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといったように、 「指定解除」になって、ようやく$lに知られるようになったのです。 (この楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─という「ページ」を始め、幾つもの「ページ」に、次のように、記しています。)
そこで、 「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・
と「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、 「定例教育委員会会議の要旨」に 建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。
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「荒瀬家」は、豪商であり、最低≠ナも「七日間」は、滞在する望東尼に、「客間」を提供することは難しく、「庭伝い」にある「離れ」を提供したのですが、 それは、決して、「粗末」なものではなかったのです。 ただ、介護を必要とするようになって、「主家の南八畳の間」に移り、多くの人々に見守られながら、最期を迎えたのですが、 望東尼は、感謝しつつ亡くなったのです。 |
のみならず、この「離れ」を、「九月廿八日のよ(夜)に 小田村ぬし(小田村伊之助→楫取素彦)、 国貞ぬし(国貞直人) 山田ぬし(山田市之允→山田顕義) などが訪れたと『防州日記』に記されています。 楫取、国貞は、「倒幕軍総督」 毛利内匠の「参謀」ですが、 山田も、 戊辰戦争で討伐軍の指揮をとり、その際、西郷隆盛から 「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、「用兵の妙、神の如し」
と評されたと言われており、
さらに、その後、「侯爵」、「日本大学」の「創始者」という、「歴史」に残る人物です。 「写真」は、外から「茶室」〜「六畳の間」を撮った1枚です。 この「写真」を含め、「離れ」の「写真」は、次の≠クリック≠ウれれば、何枚もあります。 「終焉の宅」の「指定解除」は、「野村望東尼寄寓の『離れ』」の否定にあらざること! ただ、「このページ」と重複≠オた「記述」も、少なくないことを、予め、お断りしておきます。 |
吉田松陰の「留魂録」 と 福島藩士能勢久米次郎の家臣という 沼崎吉五郎 のこと 「留魂録」(りゅうこんろく)は、吉田松陰が、安政6年、自身の処刑を察知して、獄中で、10月25日から26日にかけて書き上げた、松下村塾の門弟のために著した「遺書」ともいうべきものです。 この「留魂録」は、松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となったと言われます。 高杉晋作らの手にわたった「留魂録」は、残念なことに、いつの間にか所在不明になったといいますが、一応の使命は、果たせたということで、 「牢名主」であり、その後、三宅島に遠島となっていた沼崎吉五郎が、明治9年に、もたらしたもう一つ≠フ「留魂録」は、その内容を今日も、知ることができるという程度に受け取られるかもしれませんが、 そもそも、松陰が、「留魂録」を二日がかりで「留魂録」を書き上げたこと自体、沼崎吉五郎の協力なしには不可能だったハズです。 (一通の行方が不明ということで、その真偽の確認はできませんが、高杉らの読んだ「留魂録」は、松陰の筆跡と違っており、沼崎の手にあったものが松陰の自筆で、いま一通は別人に依頼した「写し」だったとする「ホームページ」もあります。)
彼が本土に帰った明治7年、江戸は東京となり、世情は一変していました。 それから2年後の明治9年になって、当時 「神奈川権令」だった野村 靖(明治11年7月から「県令」)に 「私は長藩の吉田松陰先生の同獄沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたと言われます。 野村に「留魂録」を渡したあと、何の代償も求める気配も無く、松蔭との約束を果し終えて 淡々と立ち去ったといいます。 野村は彼を引き留めようともせず、ましてや、後を探して追うこともなかったようです。 沼崎のその後の行方は、わからないといいます。 そして、没年も、そして年齢さえも 記録に残っていないようです。 私は、沼崎を、労ってほしかったと、「次」に示す古川 薫氏に共感を覚えます。 古川氏は、沼崎に対しての対応について、 「それにしても、この留魂録の成立を側面から助け、飯田正伯らの手に届くように骨折り、さらに預けられた一通を守り通して原本を伝えた沼崎吉五郎の存在を忘れてはなるまい。
と述べ、さらに、
野村に渡したあと、彼は飄然と姿を消すのである。 野村が彼を引き停めて、何らかの職を与えるくらいはわけもないことだったろう。 生き残り政府の高官にのしあがっていく長州人の、弱者に対する惻隠の情の薄さを嘆くばかりである。」 「地下の松陰とすれば、明治九年のこのとき、留魂録を萩に送るより、沼崎吉五郎の労をねぎらうことのほうを喜んだのではあるまいか。」
と、『留魂録』についての「著書」における「解題」に記しておられます。
私は、恩人≠ニもいうべき、野村望東尼を、可能な限り、手厚く、介護したということは、重要なこと≠フハズだと思いますのに、 大した「調査」もせずしとて、安易≠ノ、 誰にも看取られることなく、寂しく亡くなったかのような≠アとを記したり、 手厚い看護≠疑問視せざるを得ないような「抱え家」としていることは、 「維新」を新しい=u日本」に生まれ変わった「契機=vと捕らえる我々には、看過できないことではないでしょうか。 沼崎に対する扱いは、残念の一言ですが、 望東尼に対しては、「長州藩」を揚げて、手厚く、接したという事実は、忘れてはならないことと、私は思います。 そして、その「証=vとしての「荒瀬家」の「離れ」ですので、 「住めない家」とされながら、未来永劫=A個人で「維持・管理」せよという当時≠フ「県教委担当者」の要求には、応えられないこととて、亡くなった「主家」のない「離れ」のみを「望東尼終焉の宅」とする「山口県指定史跡」は、「解除」してもらったのですが、 福田氏によって、 「江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う」 と評されている望東尼の寄寓していた「離れ」が、残してもらえるなら、有り難いことと思っています。 中村副市長、末吉教育部長、原田文化財課課長補佐といった方々によって、「調査」が継続されていますが、「防府市の市議会」の「承認」が「必要」ということで、どうなるかは「未定」ですが、「萩市」に、萩まちじゅう博物館なるものがあり、「文化財指定」ではないものについても、「維持・管理」されているように、「防府市」においても、この「望東尼寄寓≠フ離れ」が、「維持・管理」されるようになることを、願っています。 |
「両親の家=望東尼の寄寓していた『荒瀬家』の『離れ』」ということを知らず、「借家」として入り、その後、購入した「家」ですから、望東尼の寄寓していた当時の「離れ」に、どのような「調度品」があったかは、わかりません。 しかし、それなりの「調度品」は、「茶人」でもあった父ですので、「移築→保存」される場合には、寄贈しようと思っています。 さらに、父=英男は、終戦後、 「文化財保護法」の制定に伴い、「山口県教育委員会社会教育課」に、新たに$ンけられた初代の「文化係長」にしていただき、「文化財」に、ほぼ¥\年、係わっていました。 少なくとも、当時≠ヘ、「廃材」等を、廃棄・焼却してしまうのではなく、 「記念」として、残せる物は遺そうという「方針」だったそうで、 父の手元にも、幾つもあり、のみならず、「転出」した後も、関係者から、いただいていたようです。 「戦争」を挟んだことで、重要な=u建造物」の「修理」が何件もあり、 さらには、「キジア台風」によって、「錦帯橋」が流出、 「秋吉台」の「米軍演習場」問題・・・・・ と、「文化財」の「歩み」に係わる「記念物」的な物が、少なからず、あります。 ここをクリック 「月輪寺」の「古材」も、その一例ですし、「洞春寺」の「柱」を利用して作った「火鉢」、 錦帯橋の「廃材」を利用した「茶托」(「岩国市」が作成)などがあります。 「木材」は、何百年、経過しても、想像以上に、荒廃せず、むしろ、よい「味」を出しています。 また、「陶片」など、一般的には価値はないものの、それなり≠ノ貴重なものもあります。 「博物館」など、「公的施設」にも、話を持って行きましたが、「収容スペースに余裕がない」と言われているものの、 廃棄してしまえば、それきり≠ナすが、小山冨士夫先生から、直接℃w導を受けていることとて、「学術的」には、意味あるものもあります。 さらに、「テレビ」や「新聞」でも紹介されたように、並外れた「整理」をしていた父ですので、「担当者」が何代も代わっていて、「保存」が確認できないものが、 「手元」にのみに残っているものもあります。 事実=A既に、関係が特定できる「施設」には、幾つも寄贈しています。 「周南市立美術博物館」が、「展示」は約束できないが、「所蔵」はしておこうとして、「戸田焼」を受け入れてくださったように、 本来の「荒瀬家」の「離れ」には、「押し入れ」が幾つもありますし、そこに「蒲団」等を入れることはないと思われますので、 この「押し入れ」等に、「古材」を利用した「表札」、「資料」、「陶片」等々を、保存していだけないかという提案をしています。 無論、「寄贈」した後は、廃棄等、扱いは一任します。 もし、実現するようでしたら、私の『出版』及び「ホームページ」に記しておくつもりですので、研究者の方のみならず、関心のある方は、「事務所」に尋ねてもらうということにしたいと思います。 (「戸田焼」の場合は、『萩焼・戸田焼』 に、「写真」入りで、「周南市立美術博物館」に、所蔵されていることを紹介していますし、 「戸田焼(へたやき)」 にも、─ 「周南市立美術博物館」に受け入れていただいた我が家の「戸田 焼」の「作品」 ─ としてアップ≠オています。) |
「うめてらす」 |
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「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも |
望東尼の150回忌記念祭 にも「影響=v? 「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」ですが、、 「第3部」 望東尼を偲ぶひとときの 2. 吟舞「高杉晋作と望東尼」の場合は、過去における「作品」であるタメ、ヤムを得ないにしても、 1. 音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」の場合は、 「新聞記事」によると、 「直木賞」作家というダケでなく、十分な「考証」に基づく「歴史小説」ということでも、著名な古川 薫氏が、 この「150回忌記念祭」のために 脚本を書き下ろしたオリジナル作品で、音楽を通じて当時の世界観を表現し望東尼の生きざまを伝える。 というもので、 音楽劇は「野村望東尼〜嵐に咲く花」と題し約40分間のステージ。 ピアノやフルートなどの演奏とともに、防府高合唱部と市民でつくる「望東尼をうたおう会」のメンバー計約50人が合唱するほか、小学生が朗読を披露する。 望東尼が詠んだ和歌も吟詠し、ナレーションで望東尼の生涯に迫る。 とあるのですが、驚いたことに、望東尼は、「防府天満宮」に、水ゴリ・絶食潔斎を二十日間もしたとあったのです。(耳にしたダケですが、間違いはないと思います。) 水ゴリ・絶食潔斎は「防府市教委文化財課」の「資料」を信頼してのことと思いますが、 「一七日」ひとなのかを「17日」という勘違い≠ナはなく、二十日間というように、古川氏にして、このようになっていたのです。
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『防州日記』によってわかる 「七日間の 参籠=vは、間違いということ |
『防州日記』による「七日詣」 「防府天満宮」に現存する望東尼の「奉納歌」や、 『楫取素彦伝』との「比較・検証」によって、『防州日記』の記述には、信頼性があることがわかります。 ここでは、「七日詣」についてのみ、記しておきます。 初日=「九月二十五日」=「山口」から「防府」へ来て、「天満宮」に参詣し、「荒瀬家」で宿泊。 ↑ 「途中」、「鳴滝」で昼食を取っていることが明記されている。
さらに、常識的≠ノ、荒瀬ゆり子は、望東尼のために、「夕食」を用意していたと思われる。 なお、「荒瀬家」の「離れ」には、「台所」等はなく (←クリック=j、防府滞在中の「食事」のほとんどは、「荒瀬家」で用意され、「使用人」によって、上げ下げされていたと思われる。 二日目=「九月二十六日」=「参籠=vの可能性は あり 三日目=「九月二十七日」=「参籠=vの可能性は あり 但し、『防州日記』に、
まりふ松原にて、こたびのいくさだてを、公のみ試みせさせ給へるを見奉りける時、・・・ として、日付なしで記してあるのが、『修訂防長回天史』によると、九月二十七日のこととあるので、 この日も、「参籠=vしていないことになる。 四日目=「九月二十八日」=[我が旅のやど==u荒瀬家」の「離れ」]に、小田村ぬし、国貞ぬし、山田ぬしなどが訪れている。 五日目=「九月二十九日」=「参籠=vの可能性は あり
六日目=「十月一日」=ついたちの日に、ほりのわたりに、荒瀬ゆり子が案内して、山城屋てふ家の二階にて・・・ とあり、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。 七日目=「十月二日」=「七日詣」終了日なので、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。 「天満宮」に「参籠所」なるものがあったことは、 「山口県文書館」の山本明史氏に、 「山口県文書館」所蔵の「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料に 「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。
周防国宮市(旧号天満宮)松崎神社之図(←「活字」は旧字) (明治三十三年七月印刷 大阪 森川印刷所) という大きな「図」を見いだしました。 (「写真」は、「参籠所」の部分の「スキャナ」) それにも、はっきり≠ニ参籠所が図示されていますので、望東尼が「参籠」をしていないとは言い切れませんが、 最大限=A「三日」or「二日」です。 それに、初日=「九月二十五日」は、はっきり≠オていますが、九月二十八日、十月一日には、茶菓子程度は、用意されていたハズで、 望東尼も、口にした可能性はあり、断食を、ことさら、強調≠オている「資料」は、はなはだ疑問です。
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二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」 |
準公的≠ニもいえる「まちの駅 うめてらす」で新しく≠ネった「野村望東尼」に関する「解説」 |
新しく≠ネった「まちの駅 うめてらす」の「解説」 「防府市観光協会」局長の岩本邦男氏にいただいた「写真」は、「バイト数」が大きく、それを「Yahooブログ」(←クリック)にアップしており、 その「ブログ」では、「松崎天満宮」への「七日詣で」の「奉納歌」における望東尼の「筆跡」も確認できるのですが、この「ページ」では、「活字」にしておきます。
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「平成28年12月15日」、「防府市観光協会」局長の岩本邦男氏が、「遅くなりましたが」として、「メール」に上の「写真」を添付して「送信」してこられました。 岩本氏は、楫取素彦の「葬儀」が、「墓」のある「曹洞宗」の「大楽寺」ではなく、「浄土真宗」の「明覚寺」であることを突き止めたように、 単に「資料」を信じ込むのではなく、「調査・検討」を重ねる誠実な人物であることから、時間的には 望東尼の「150回忌」には間に合いませんでしたが、 こうした「姿勢」で事に当たる岩本氏に、「私の原稿」に沿った「解説」を作ってもらえたことは、私の「調査・研究」を裏付けてもらえたということで、ありがたいことです。 私としては、以前の 野村望東尼に関する「解説」 よりは、はるかに史実≠ノ近いと思っていますので、 「維新150年」を前に準公的≠ネ「うめてらす」の「解説」が、新しく≠ネったことを、うれしく思っています。
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「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」 |
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「解説板」の「写真」 |
「 活 字 」 にすると |
野村望東尼寄寓の家(荒瀬ゆり子宅の離れを移築し、現在は増築されたもの) 野村望東尼は、文化3年(1806年)黒田藩士浦野重右衛門勝幸の三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。 24歳の時に野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)に嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜んだが、安政6年(1859年)夫の死後禅尼となり 向陵院招月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。 やがて勤王の志士との交流を深め、元治元年(1864年)には藩内の保守派などに追われた高杉晋作を自らの山荘に10日余り匿っている。 その後、高杉は馬関(下関)で挙兵し、維新への足がかりを作った。 翌慶応元年(1865年)黒田藩における勤王派への弾圧で、望東尼も玄界灘の姫島に流されるが、高杉の指示によって救出され、下関に身を寄せ、 高杉の介護、最期を看取った。 その後、小田村素太郎(小田村伊之助後の楫取素彦)と妻の寿(吉田松陰の妹)の親身な世話を受ける。 慶応3年(1867)9月薩長連合の倒幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を A 超え三田尻(防府)に入り、歌友荒瀬ゆり子宅の「離れ」に身を寄せ、9月25日から10月2日まで防府天満宮に「七日詣」をし、戦勝を祈願した。 しかし薩摩軍が約束された期日に来ず、望東尼は三田尻に留まるが、 その到着を見届けた後病に倒れ、荒瀬家本宅南8畳の間で手厚い介護を受けたが、 同年11月6日、62歳の生涯を閉じた。 望東尼が多くの勤王の志士に影響を与え、明治維新の功労者のひとりであることから、「終焉の宅跡及び墓」は山口県史跡として、指定されている。 なお、桑山共同墓地にある墓は、明治24年(1891年)望東尼の正五位贈位に際して、昭憲皇太后、三条公、毛利公などから資金援助を受け、B 楫取素彦 の撰文、本田国敬の彰辞を刻み、@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。 平成二八年十一月
防府市教育委員会 「移築→保存」が実現しなくても、「維新150年」までは、保存する「家」の前の、臨時%Iな「解説」ですが、
望東尼の「150回忌法要」のある「大楽寺」の近くにあるタメ、 それなりの=u効果」はありました。 望東尼の150回忌記念祭の会場でお会いした「ほうふ日報」の前「社主」で、「歴史」にも詳しい、窪田耕二氏(←クリック=jは、御覧になっており、「よく出来ている」とおっしゃっていました。 その他にも、顔見知りの方が、私に、同様の感想を述べられました。 「移築」を前提に、毎日のように「整理」に通っているのですが、「見学希望」の方があり、私の「ホームページ」から、「群馬県」からも訪れて来られています。 これまでは、まず、予備知識の「訂正」から始めなければならなかったのですが、この「防府市教育委員会」とある「解説」があることで、 「明治維新」に大きな=u役割」を果たした望東尼ですので、 間近な=u維新150年」に向けて、多くなると思われる見学希望の方に、説明が容易になります。 ただ、「移築→保存」が実現しない場合は、それっきりになってしまいますが、 「防府市教育委員会」とあるこの「解説板」は、「写真」として、私の『自費出版』の中に載せますし、 「移築→保存」に関する決定が出た段階で、「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」(←クリック=jが、「訂正」されることになっていますので、 少なくとも、それまでのつなぎという意味はあるのです。
なお、「防府市教育委員会」の「解説」には、次のような、少しばかり=A疑問が残っていますが、私が信頼している、誠実な原田氏ですので、間違いなく、「再検討」してもらえると思っています。
@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。 ↑ 『野村望東尼全集』 ( or この『全集』を「底本」にした『防府関係 野村望東尼史料』) に拠ったと思われますが、 『楫取素彦伝』186&ナに野村望東尼墓碑銘 明治二十六年五月撰として碑文が次頁に亘って記されている(こには、「詩」で終わっています)うえに、 「年譜」に、「明治二十六年八月」と、「墓」の通りが記されています。 「碑文」ができてから、3ヶ月後ですし、刻む最後°゚くですから、「完成」の時と一致≠オても、なんらおかしくはないハズです。 私は「墓」に刻まれた 明治二十六年八月を記すべきと思っています。
A 山口から勝坂を超え三田尻(防府)に入り、→越え≠ェいいでしょう。単なる「入力ミス」でしょう。 B 楫取素彦にとって、望東尼は、間接的ながらも「命」の恩人的存在ということが記されていない。 ↑ このことについて、私の楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─(←クリック)
に、詳しく、述べています。 要するに、処刑寸前であった楫取は、高杉の「功山寺挙兵」→「太田絵堂の戦い」によって、助かったのです。 |
なお、窪田氏は、準公的≠ネ 「維新 ふるさとかるた」において、 私よりも、もっと、積極的に、 素彦の命の恩人望東尼 としておられます。 残念ながら=A『男爵 楫取素彦の生涯』における野村望東尼の記述は、 楫取素彦と望東尼に関しては、ほとんど語られていません。 (わずかに、313&ナに、晋作の死後、望東尼は楫取素彦により下関から山口の熊丸家へ移った≠ニある程度です。 しかも、楫取の「碑文」の紹介も、漢詩が抜けています。) しかし、刊行に深く関わっている窪田氏ですので、さすがに、よく読んでおられ、小山良昌氏、小田村四郎氏の記事を踏まえられています。 ただ、「解説」のこの墓も楫取素彦によって建てられたものです。 については、原田氏が中心になって「作成」された 桑山共同墓地にある墓は、明治24年(1891年)望東尼の正五位贈位に際して、昭憲皇太后、三条公、毛利公などから資金援助を受け、楫取素彦 の撰文、本田国敬の彰辞を刻み、・・・改修されたものである。 の方が、適切と、私は思いますが・・・・・・・・・。 なお、原田氏、岩本氏共に、楫取素彦の「碑文」には、「皇后」と記されているのに、 昭憲皇太后 とされているのは、困ったこと≠ノ、大正天皇の皇后である 貞明皇后 とした「資料」(『防府関係 野村望東尼史料』他)があるタメ、私がお願いしたことが影響していると思います。 |
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私が 楫取素彦に取って、望東尼は間接的≠ネがら「命の恩人」とする「根拠」 |
◇ 村田峰次郎 著 『耕堂 楫取素彦男爵伝記』 「活字本」の 76頁〜
「著者」は、村田清風の孫であり、 かつ、 楫取と同じ時期に、「野山獄」に投獄されていた 村田次郎三郎(清風の 次男で、楫取同様、「俗論派」に捕らえられており、村田姓と家禄を剥奪され、「大津唯雪」と名乗る)の次男ということで、峰次郎 は、楫取素彦と親しかった。
甲子の冬、勤王志士に対する疑獄は、反対党の末期に 於ける窮余の手段なり。その権力を持続せんかため、如何なる 横暴をも辞せすして、正義派の言論生命を絶滅せんと務めたり 。 柵欄を鎖して犢牛を逐ひ、灯火を滅して暗撃を喜ふものの 如し。 真個憂国の名士にして自殺せるものあり。 斬刑に遇ふも のあり。 牢舎幽閉のみにして殺戮を免れたるものあり。 主戦諸士も頗る窮境に陥りしか、恭順政府にして既に奇策 の施すへきを知らす、四顧茫然何人も俗論の雰囲気中に彷徨したりしか、その大風雨の暗夜に乗し、神竜一躍、忽ち天地の禍 運を掃蕩し、防長の正気を瞬間に回瀾したる者は、 高杉晋作その人にあら すして誰そ。 高杉は、真に快男子と謂ふべし。 当時、高杉身既に危かりしか、徒に奸人の毒刃に斃るるは 智者にあらす、忠臣にあらす、この処決して死処を得るにあらす、一誠以て国家を救ふの良策なかるへからすと、暫く反対派 の鋭鋒を避け、熟慮する所あらんため、一旦筑前に潜行して、 野村望東か 平尾山の別荘に隠れたりしか、郷国に於ける反対派の暴 戻殆と曰ふに忍ひさるもののみ、同志の名流続々縲紲に繋り、 斬戮項背相望み、之を済はんとするも手を下たすに術なしとの 報に接したれは、高杉は豁然髀を拊ち、飛信をろ♂ホに投し 、夜半舟を艤して馬関に帰り、潜に同志を聚めて、断然挙兵の 策を決す。 高杉は 、雪夜俄に馬を馳せて、長府なる功山寺に到り、 三条以下五公 卿に謁を乞ひ、国運回復のため、爰に正義の師を起し、俗論党 を討伐し以て勤王の本領を成就せんと欲す。 晋作この行固より万死を期す。 幸に功成り生を得は、更にまた再謁の 栄を得へしと、頗る謹厳の別辞を述へ、直ちに同志を麾き、快馬に鞭うちて得々馬関の陣営に帰りたり。 明くる年慶応元年乙丑年正月には、憂国の念切 なる高杉、遂に義兵を提けて伊崎の役庁を襲へり。 是に於て、諸隊勇兵の来りて義旗の下に聚るもの、日に多 きを加へ、各々部署を定めて伊佐より北進す。 恭順兵の諸隊を防かんとするもの、孰れも美祢郡方面に向 つて南進したり。 南北両軍相接し、絵堂、大田間の各地に交戦す。 北軍敗れ、南軍全捷を得たり。 南方諸隊悉く進て萩に入り、事始めて鎮定す。 仍て二月二十五日、君(=楫取素彦)等同囚四人は 、無事野山獄を出つることを得たるなり。 (峰次郎の父も、この四人の中の一人。
なお、濁点≠ヘ、疑問がありますが、『原典』もこのようになっています。) |
小田村四郎氏が「母=治子」の話として (『男爵楫取素彦 の生涯』 43頁) 小田村氏は、楫取素彦の「曾孫」で、元大蔵官僚、拓殖大学第16代総長。
母の話によれば・・・、 (元治元年12月19日野山獄に 投獄され)既に斬首の日は決まってゐたが、その直前に高杉晋作の功山寺挙兵に続く太田絵堂の決戦で政府軍が敗れ、藩政府が正義党によって一新されたため、翌慶応元年二月十五日に出獄することを得た、 とのことである。 治子氏は、楫取道明の次女で、「小田村家」を継がれた、
明治21年12月26日〜昭和62年1月31日という方で、
楫取 寿は、「1881(明治14)年1月30日」に亡くなっていますが、 楫取素彦が亡くなったのは、「1912(大正元)年8月14日」ですから、 直接、素彦から、聞いていたと思われます。 |
小山良昌氏氏 (『男爵楫取素彦の生涯』の「敬親公の懐刀 男爵楫取素彦」の74頁〜) 「幕末・維新」に関する権威であり、私のような者に対しても、対応してくださる誠実な=u研究者」。
「山口県文書館副館長」、「短大教授」、「毛利博物館館長」等を歴任。 素太郎が 野山獄に入獄中の元治元年(1864)12月、高杉晋作は俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府 功山寺で挙兵し、馬関の新地会所を襲撃して俗論党政府への叛旗の烽火を上げた。 この高杉の挙兵を契機として、奇兵隊など諸隊の 正義派軍と俗論派政府軍が美祢郡太田絵堂で戦い、慶応元年(1865)二月十五日、正義派が勝利を 納めて再び藩政を奪還した。 そして即日の十五日、素太郎は許されて目出度く野山獄を出獄した。 |
原田氏からの「回答」 「ご指摘分2点ほど修正いたしましたので、ご確認ください。」
として、「メール」に、「ワード」による「全文」を添付という形での「回答」をいただきました。 B≠フ望東尼と楫取素彦との関わり方については、今少し、「検討」されるようです。 いずれ、「解説板」も、「訂正」されると思います。 |
「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」 |
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野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。 県指定 史跡 野村望東尼 終焉の宅 及び宅跡並びに墓 昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅 岡村町五の三 宅跡 三田尻本町十の二 墓 桑山一丁目四 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、 翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 (一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給え〈え≠ヘママ〉 (二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草 (三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ (四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋 (五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時 (六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな (七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。 平成十五年一月 山口県教育委員会
防府市教育委員会
上に紹介している「月輪寺」は、本格的な「修理」でしたので、多くの「古材」がありますが、それ以外の「文化財関係の古材」を、少し、紹介しておきましょう。
「左の写真」は、「手前左」から、 @ 「洞春寺」の「柱」を利用した「火鉢」。(加工は、父が「業者」に依頼。「2つ」セットです。) B 「キジア台風」で流失した「錦帯橋」の「木材」を利用して作られた「茶托」。 「錦帯橋再建記念 茶托 岩国市」 と「箱書」されており、関係者に渡された物。 B 「周防国分寺」の「古材」を利用した「表札」 昭和三十二年 解体修理記念 周防国分寺 仁王門古材 贈呈 河野英男殿 と「墨書き」 「奥」 C 旧 「長谷(泊瀬)観音堂」の「古材」。 「毛利家」の「家紋」があります。なお「裏面」に、山口市宮野長谷観音堂 古材 贈 河野氏 昭和二十八年十二月と「墨書き」 「右」の「写真」は、「@」に祀られていた「観音像」です。「観音堂」の荒廃にともない、現在は、「神福寺」に祀られています。 父が、『陶片の楽書』に「仏を慕うもの―○○薬師・神福寺観音立像―」として、係わったことを記しており、参考になると思いますので、 示しておきます。
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