[おことわり] 年を取っていますので、「契約」が切れても、「ホームページ」なるものが存在する限り、引き続き、見ていただくことができるように、 無料で使用させていただける「Yahoo!ジオシティーズ」を平成25年1月23日から使用させていただき、・・・・。 と記して、「Yahoo!ジオシティーズ」を利用させていただいてきましたが、平成31(2019)年3月31日で、終了するそうです。 そこで、いくつかの「ページ」は、「ケーブル」にし、≠ノ変更しますが、 「写真」については、当面=A「空白」になる箇所が何カ所もあります。 さらに、この「ページ」のように、「ケーブル」の「ページ」に「リンク」させている ≠ナ示している「Yahoo!ジオシティーズ」は、 「ご指定のURLは、このサーバでは見つかりませんでした。」という「メッセージ」が出るようになります。 私の「手元分」との「関係」で、このママにします。 それに、年を取っていますので、「ケーブル」による「ホームページ」も、止める時は、そう遠くはないと思いますので・・・。 お許しいただけたらと思います。 なお、Yahoo!ブログも、2019年12月15日で、終了するそうです。 ≠焉Aまもなく、「リンク」できなくなります。 |
構 成
(「下線部」をクリック≠キると、該当箇所にジャンプ≠オます) 関係者生没年の一覧//楫取素彦の顕彰 楫取素彦 楫取素彦と吉田松陰//(その1)//(その2)//(その3)//松陰の死//「長州藩」における「時」の流れ 「慶応3年」//野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻//「倒幕」へ 「維新後」の「悲劇」//三田尻宰判管事//群馬県令//楫取素彦の「扇面の漢詩」//寿子の死//「寿子」について//「世界遺産」と素彦のこと 美和子との再婚//『涙袖帖』//「美和子」について//現在の「防府市」に屋敷を//望東尼の「墓」を中心になって 楫取素彦の「宴席」での「漢詩」//素彦、明治天皇の第十皇女=貞宮の御養育主任に//楫取素彦・楫取美和子の貴重≠ネ「写真」 素彦の死//美和子の死 楫取素彦・美和子の「墓」//「大楽寺」//参考としての「リンク」一覧//「萩往還」からの粋//大河ドラマ「花燃ゆ」 |
◆ 生没年「一覧」 ─生年順─ 野村望東尼=1806年10月17日(文化3年9月6日)〜1867年12月1日(慶応3年11月6日) 楫取 素彦=1829年4月18日(文政12年3月15日)年4月18日〜1912(大正元)年8月14日 吉田 松陰=1830年9月20日(文政13年8月4日)〜1859年11月21日(安政6年10月27日) 楫取寿子(松陰の二番目の妹で、楫取素彦の最初の妻) =1839(天保10)年〜1881(明治14)年1月30日 高杉 晋作=1839年9月27日(天保10年8月20日)〜1867年5月17日(慶応3年4月14日) 久坂 玄瑞=1840(天保11)年〜1864年8月20日(元治元年7月19日) 文→美和子(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる) =1843(天保14)年〜1921(大正10)年9月7日 |
楫取素彦の「顕彰」のこと
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楫取素彦は、藩主の毛利敬親公の側近として東奔西走、倒幕に向けた薩長同盟の舞台裏で活躍をした人なのですが、 明治新政府では、中央の官職につかず、群馬県令、元老院議官、貴族院議員、明治天皇皇女貞宮養育係など地道な活動だったため、伊藤博文、山縣有朋など、中央政界で活躍した長州閥の政界人に比べ、知る人は多くはないと思われます。 しかし、初代の「県令(知事に相当)」を勤めた「群馬県」では、楫取を慕う人は多いといわれ、「群馬県庁」北側の「高浜公園」(というより、「群馬県警察本部」の真後ろという方が適切です)には大きく、立派な「功徳碑」が建立されています。 以上のような「前置き」で、「平成21(2009)年」に、野村望東尼に深い関わりを持つ楫取素彦の「ホームページ」を立ち上げたのですが、 楫取素彦の「没後百年」になる平成24(2012)年8月に、 「群馬県」において、『楫取素彦読本』なるものが、小中学生はもとより、一般の方々に広く読んで頂き、勇気と希望を生み出す一助になればとして吉田松陰との関係に重点をおいて「出版」され、「版」を重ねているようです。 「山口県」においても、『男爵 楫取素彦の生涯』なるものが「出版」されています。 さらには、「平成27(2015)年」の「NHK」の「大河ドラマ」において、吉田松陰の妹で、久坂玄瑞の妻、玄瑞の死後、楫取素彦の妻となった 「文」→「美和子」を「ヒロイン」とする「花燃ゆ」が発表されました。 しかし、残念ながら、99&ナにして、「活字」が、大きく、「群馬」で出版されている『楫取素彦読本』のみならず、380&ナという『男爵 楫取素彦の生涯』においても、野村望東尼と楫取素彦に関しては、ほとんど語られていません。 (わずかに、313&ナに5″sで、晋作の死後、望東尼は楫取素彦により下関から山口の熊丸家へ移った£度です。) この「ページ」を見ていただければ、楫取素彦・寿子の人となりを語るのに、望東尼とのことを語るのは不可欠だと、わかっていただけるのではないかと、思っています。 「花燃ゆ」においては、是非とも、言及してほしいのですが、 残念ながら=A「NHK」の「番組」においても、流布している or 「肩書」のある人物の「説」が取りあげられることが無きにしもあらずで、 私は、「NHK」に「意見」を述べたこともあります。(受付番号[#848038])
ありがたいことに、現時点≠ノおいては、私のこの「ページ」は、 [Google]。[Yahoo]の 楫取素彦=E楫取美和子=E楫取素彦・美和子%凵Xの「検索」の最初の「ページ」に出していただいており、 「NHK」の「大河ドラマ」の「発表」以後は、驚くほど≠フ「アクセス」をいただいていますので、 「NHK」の「大河ドラマ」の「関係者」の目にも触れるのではないかと、淡い♀待を抱いているのですが・・・・・。 「写真」は、「左」=楫取素彦の「功徳碑」、「中」=『楫取素彦読本』の「表紙」、「右」=『 〃 』の中の「十、 楫取素彦と吉田松陰との絆」の箇所。 |
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楫取素彦 ─文政12(1829)年〜大正元(1912)年 ─ |
楫取素彦と吉田松陰
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吉田松陰の激論を受け止め、互いに、敬愛しあっていたことから、縁あって、後年、望東尼になにかと心配りをした松陰の妹=寿(子)と結婚します。(「結婚」は、寿子が15歳の時とのことですので、嘉永6(1853)年と思われます。
なお、「義弟=vですが、年齢的には、楫取の方が一歳、年上です。) 安政2(1855)年、帰萩して、「明倫館舎長書記兼講師見習」となります。 翌3(1856)年2月相模出衛を命ぜられ、 同4(1857)年4月帰国、「明倫館都講役兼助講」となります。 (楫取は、萩以外の地に赴任し、さまざまの役職を担いますが、以後は、特記すべきもの以外は、略します)
「松下村塾」には、しばしば訪問し、間接の援助を与え塾生とも相知ることとなります。 松陰の入獄中には、本の差し入れや文通等の便宜を図っています。 |
吉田松陰が、小田村素太郎=楫取素彦に、
「松下村塾」の将来を託して贈った書。
松陰は、「投獄」後の、「松下村塾」を楫取に托したワケですが、楫取は、 「長州藩」の「重責」を担い、 「倒幕」の中心≠なした人物の一人ですので、 いつまで「松下村塾」に係わったかは わかりませんが、この「書」も、次の「自賛肖像」への「自賛」を勧めたこと同様、 楫取と松陰との強い絆を示すものといえましょう。 楫取能彦(よしひこ)氏所蔵。 「萩博物館」の「没後100年記念 楫取素彦と幕末・明治の群像」展にあったタメ、能彦氏にお願いし、提供していただきました。 |
◇ この「書」について 一般的≠ノは、寅次郎ですが、この寅二も、松陰のことです。 村君は、老練な長老的漁民を意味していたと推定≠ウれる語ですが、当時≠ヘ、小田村$ゥですから、楫取をこう呼んだのかもしれません。 いずれにしても、素彦の手元にあることから、楫取素彦を指すとみて間違いないハズです。 さて、比較的、読みやすい文字ですが、これを「書き下し文」にしてみますと、次のようになります。 吾を送る十三名 訣別なんぞ多情なる 松塾當に隆起すべし 村君義盟を主(つかさ)どる 贈 村塾来送の諸君に 寅二拝
「蛇足」とは思いますが、 ・曷は、なんぞ、いつ、いずくんぞ、なに≠ェ「訓読み」として「辞典」にあります。 ・當は、まさに・・・・べし≠ニ読む「再読文字」です。 |
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「左」の「写真」は、有名な「吉田松陰自賛肖像」を「表紙」にした『山口県文書館蔵 吉田松陰関係目録』の「表紙」を撮ったもの(「掲載の許可」の手続き済み)ですが、
この松陰が自賛を書き残すことになったのは士毅(=小田村伊之助=楫取素彦)の勧めによるものだと、「山口県文書館」の山田 稔氏が、「山口県立図書館」における「人物で知る明治維新講座」において、語られました。 私は知りませんでしたので、山田氏に、その「根拠」を尋ね、『吉田松陰全集』の「東行前日記」(とうこうぜんにっき==u東(=江戸)に行くことになる前の日記」の意)にあるとのことで、確認しました。 十六日 朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、 之れに賛するは士毅の言に従ふなり。とありました。
松陰と楫取との深い結びつきは、このことからも確認できるということです。 (『山口県文書館蔵 吉田松陰関係目録』の「表紙」が、凝ったもの=″Lげれば原寸大≠フ「自賛肖像」になっていることも、山田氏の「紹介」で知りました。)
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時の流れ 1853(嘉永6)年 6月 ペリー、浦賀に来航 1854(安政元)年 1月 ペリー、再来航 1859(安政6)年 9月 「安政の大獄」始まる 10月 吉田松陰処刑 |
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「左」の「写真」は、松陰の
当初≠フ「位牌」ですが、永い年月を経ているタメ、松陰の「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、新しく″られた「位牌」が「位牌堂」におかれ、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。
「萩市浜崎」の「泉福寺」の許可をいただいて、特別に、紹介させていただいています。 この当初≠フ「位牌」からも、「松陰二十一回猛士」とあるのがわかると思います。 「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、 および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解して、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられているといいます。 「右」の「写真」は、萩市の松陰誕生の地に隣接した地にある「「松陰二十一回猛士墓」です。(「松陰の墓」は、他にもあります。) |
越氏塾沿革碑(華浦小学校内)
「右」が、楫取が撰文し、明治41年に建立された沿革碑です。 明治41年10月に、河野養哲の「越氏塾」の「系譜」をもつ華浦小学校が現在地に移転する経緯を述べています。 この「越氏塾」については、「華浦公民館」の館長の坪郷好夫氏(元「中学校長」)が、『華浦小学校の歴史』という「冊子」に纏められており、「華浦公民館」において、数に限りはありますが、無料で配布しておられます。 ◇ 越氏塾のこと ・ 生前、養哲先生は「己の死後も塾の永続を」と遺言し、その思いは門下生に受け継がれ、私塾の名前を、先生の河野姓が越智氏であることから、越氏塾と呼ばれるようになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 養哲先生の門人である、山根華陽、小田村◇山、小倉鹿門は明倫館の学頭や都講として活躍した。 ・ 明和4年(1767年) 越氏塾は明倫館の付属校となる。 ・・・・・・・・・・・・・ 要らぬことですが、「華浦小学校」に母が勤務することになり、野村望東尼にゆかり≠フある「借家」と知らずに、入ったことが、私たちが望東尼に係わりをもつことになりました。 私たち兄弟は、この華浦小学校の卒業ですし、この「ページ」に名前を記している坪郷好夫氏や岩本邦男氏も「同窓」です。 |
時の流れ 1864(文久6・元治元)年 7月 「禁門の変」(蛤御門の変) 久坂玄瑞、鷹司邸内で自刃。享年25歳。 8月 幕府、第一次長州征討を始める 「恭順」を主張する「俗論派(高杉晋作の命名)」が「藩政」の実権を握る 「長州藩」の危機を招いたとして「正義派(高杉の命名)」を弾圧。 11月 高杉晋作、野村望東尼の「平尾山荘」に匿われる 12月 楫取素彦、「野山獄」に投獄される 〃 高杉晋作、一か八かの「功山寺挙兵」に踏み切る 〃 松島 剛蔵(素彦の兄)、処刑(斬首)される。享年40歳 (「甲子殉難十一烈士」(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)の一人。
「甲子殉難十一烈士」は、「俗論派」によって、萩の「野山獄」で処刑された長州藩士11人を総称した名称。) 1865(元治2・慶応元)年 2月 「正義派」が「藩政」の主導権を奪還 〃 楫取素彦ら、「野山獄」を出獄 5月 楫取素彦、太宰府に赴き、坂本龍馬と会し、「薩長連合」の端緒となる。 11月 野村望東尼、「姫島」の「獄舎」に「入獄」 1866(慶応2)年 9月 野村望東尼、高杉晋作の手配により流刑地「姫島」の牢から救出される 1867(慶応3)年 4月 高杉晋作死去。29歳 〃 楫取素彦、野村望東尼を「山口」の自宅で、当面、世話(しばらくして、「熊丸家」へ移る) 9月 野村望東尼、「三田尻(現 防府)」へ 11月 野村望東尼、寄寓先の「荒瀬家」で死去。62歳 〃 「倒幕」に向けて出陣。翌年1月、「鳥羽伏見の戦い」という「戊辰戦争」の緒戦が始まる |
1864(文久4/元治元)年 |
1865(元治2/慶応元)年 |
1867(慶応3)年 |
野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻のこと
〈ここで、楫取と望東尼との関わりを、まとめて記しておきます。〉 |
高杉が1864(元治元)年、望東尼の「平尾山荘」に身を潜めるのは、中村円太の仲介によるのですが、その前年の「1863(文久3)年」、中村円太が、政変で、福岡藩の弾圧を受けるに至り、捕らえられていた「枡木屋牢」から脱獄し、「長州」へ出奔するに際して、楫取が力を貸しています。
そして、元治元年(1864)年、京都の政変で敗れ、下関でも敗れた長州に今度は幕府の征長軍が迫る中、長州藩でも大きな政権交代が起こります。 「正義派」が失政を責められ失脚、代わりに幕府に対し恭順謝罪を唱える「俗論派」が台頭、高杉の良き理解者である周布政之助も自決、井上聞多も刺客に襲撃され重傷を負うといった状況において、下関の白石邸で知り合った筑前脱藩浪人中村円太から高杉は、九州亡命を勧められたというわけです。
11月、高杉は、「平尾山荘」にわずか¥\日余、潜伏するワケですが、この十日余は、「維新史」において、大きな「意味」を持ちます。 (司馬遼太郎氏もそう書いておられます。ここをクリック≠オてください) このように、高杉と望東尼を結びつけたのは、いささか強引ではありますが、楫取だとも言えないことはないと思うのです。 だとすると、坂本龍馬と出会い、薩長同盟の端緒役を担ったことと併せると、楫取の「維新史」においてなしたことは、極めて、大きなものがあるといってよいハズです。 高杉の死後の望東尼の世話を、
楫取素彦が、
寿子ともどもで、親身に世話をしたという事実は、
その「生涯」・人となりを語るには不可欠≠ネハズです。
高杉の、「長州藩」を「倒幕」へと方向付けたことへの感謝という意味もあって、その協力者=望東尼に対して、亡くなった高杉の代わりということでしょうが、それにしても、楫取及びその妻=寿子の望東尼への篤い「配慮」が、私には不思議≠ナした。 しかし、『男爵 楫取素彦の生涯』における、小田村四郎氏、小山良昌氏の「一文」によって、納得ができたように思います。
いずれにせよ、楫取素彦を語るのに、望東尼とのことを、落とすのは、私には、納得できません。 その幾つかを挙げてみますと、 高杉の死後、望東尼の「山口」滞留時の世話、「熊丸市右衛門」宅の紹介、 望東尼が「三田尻(防府市)」に行くことになる「薩長連合」の情報を伝えたのも、楫取です。
当然、楫取にとっては、命取り≠ニもなりかねないことですが、望東尼に対する「信頼」から、楫取は、望東尼への情報提供≠止めなかったのみならず、藩主=毛利敬親に進言し、侍医=竹田祐伯を山口から来させています。 このように、高杉の死後、妻=寿子と共に、望東尼が亡くなるまでの間、特別の配慮をしたのが 楫取素彦・寿子夫妻なのです。 死期の迫った望東尼を、霜月朔日(西暦では、「11月26日」)という寒い時期に、 当然、徒歩ではなく、「駕籠」等を利用したとしても、山口から遠き山坂こえて見舞い、 望東尼から露ばかり思ひおく事なかりけり ついのきわまで君を見しかば と歌で感謝されている楫取氏細君(私は寿子と見ています。こここをクリックしてください。) であることからしても、その精神的なつながりは、浅くはなかったハズです。
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─1867(慶応3)年は、全面対決となる「戊辰戦争」の前年であり、「翌1868(慶応4)年=明治元年」に至る激動≠フ時代─
望東尼は、薩摩藩兵が[9月25、6日]頃、「三田尻」に到着し、その上で薩長連合軍として倒幕に向かうということで、 三田尻に来ていたのですが、実際≠ノやってきたのは、[10月6日」でした。 「軍艦」は、小田浦に投錨すなのですが、 私には、なぜ、「向島」の「小田浦=vなのかが、疑問でしたが、これについては、「善正寺」の「住職」で、「山口県議会議長」を12年間、務められた島田 明氏、「中学校長」をしておられた坪郷好夫氏から、 「中関港」は、今でこそ、「自動車会社=マツダ」の「車の積出港」となっているが、昔は「遠浅」で、大きな船が着けられるのはごく一部であったため、「対岸」の小田港沖に投錨していたハズという「証言」を得ています。 なお、「大型船」が、「小田港」に接岸でなく、小田浦に投錨なのかは、現在でも、確認できます。 (島田氏は、「平成26年1月8日」にお亡くなりになりました。なお、後述しているように、坪郷氏は、「華浦公民館長」になっておられます。) このとき、薩摩兵の「食事・休息」・「入浴」の「場」となったのが、「光永寺」(「左写真」)と「善正寺」(「右写真」)でした。 残念ながら、「光永寺」は、現在は存在しません。 ただ、埋め立てられ、現在は、わずかに℃cっている「海」ですが、「左の写真」で、海の側にあったということが確認できると思います。 「善正寺」の方は、「海」からかなり@」れていますが、島田氏によると、「善正寺」も、かつては、すぐ側まで、「海」だったとのことでした。 「船」から、何回かに別れて、順次、利用が可能だったのです。 「善正寺」は、立派な寺として、地域活動にも大きな役割を果たされていますが、「光永寺」は、残念ながら、「大正中頃」に「廃寺」となっており、「墓地」のみになっています。 この「光永寺」がどこにあったかについては、「派出所」や「支所」等で、親切に対応していただいたものの、「中関本町」という「記録」こそあるものの、実際の場所はわからず、何度も、「中関本町」に出向き、通りかかられる方に尋ねていたのですが、「平成24年3月27日」に、幸運にも、出会った、川橋 勉氏に、教えていただくことができました。 なお、野方春人氏は、『野村望東尼防長紀行 明治維新胎動の地─ 馬関・山口・三田尻 ─ 』の175<yージに、「写真」入りで、掲載・説明してくださっています。 |
「右」が「小烏神社」で、「左」は「厳島神社」です。 野方春人氏は『野村望東尼の周辺』において、『三藩連合東上一件』(楫取が係わっていることを、次に記しています。)を引きながら、詳しく解説しておられます。 六隻の船、千二百人。「八田烏神社」に参詣の後出発。 「八田烏神社」というのは神武天皇が東征(大和征服)の時、鉾の先に止まって勝利を導いたとされる神話の八田烏を祀ると伝えられていた小烏神社のことで、今は厳島神社境内(宮司は荒瀬氏)の中にあるが、幕末当時は現在の華浦小学校のグランド内に位置していたという。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『三藩連合東上一件』からの「引用」 十一月廿五日
暁七ツ号砲三発にて諸兵鞠府に揃ひ内匠殿(註 毛利藤内=維新戦争長州軍総大将)軍令読知整列畢て順次八田烏神社に謁し神明に誓ひ夫より各隊問屋口並び近傍より通船にて諸艦乗組。 内匠殿並びに諸官員山田市之允片野十郎鞠府艦に乗組み、小田港へ廻し投碇。 夜九つ時祝砲各七発宛てにて諸艦一同出発致し候。 各艦乗組みは左の如し。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
◆ 『三藩聯合東上一件』と楫取素彦とのこと 野方春人氏は、『修訂防長回天史』に目を通され、 『修訂 防長回天史』の記事は『三藩連合東上一件』という資料に基づくようである。 末松謙澄によれば、この文書は慶応三年九月から同年十二月までの記録であり、楫取素彦(毛利内匠の参謀)の手になるものという。 (『修訂 防長回天史』四百八十七頁)
長州藩関係の基本的文献であり、信憑性も最高度に高いとされ、『修訂防長回天史』をはじめとして多くの原資料とされている第一級の史料である。
別名を「指華入京日裁」ともいい、『西郷隆盛傳』(勝田孫弥著)などではこの名称で呼ばれている。 と記しておられます。(『野村望東尼の周辺』) ただ、野方氏は、『原本』ではなく、「東京大学史料編纂所」の「データペース」を元にしておられ、 私が「山口県文書館」で『原本』を確認したところ、 異なった、複数の人物によるとしか思えない「筆跡」ですので、 案ずるに此諸協定の事楫取素彦自筆の 三藩聯合東上一件一名指華入京日裁に見ゆ 但し最後の一條なし=i『修訂防長回天史』第五編下九 の487頁8行目〜) とある 楫取素彦自筆のとあることには、疑問がありますが、 多少なりとも=A楫取素彦の手で「記録」として残されているとしたら、これまた、楫取を語るには欠かせないことと思います。 なお、野方氏には、『原本』のことは伝えてありますので、「福岡県糸島市」から何度も、来県調査されるのは、大変ですが、 どの程度、楫取が係わっているかを、いずれ、検証されるのではないでしょうか。 |
「明治維新」後の「悲劇」について
「維新戦争」における「会津藩」の悲劇は、「大河ドラマ」=『八重のさくら』等で知られますが、
「勝者」にとっても、必ずしも、バラ色≠ナあったワケではありません。
ご承知と思いますが、「近代日本」を建国していくには、中央集権¢フ制が不可欠であり、武士階級の必要性が薄れ、のみならず、戊辰戦争のタメに ふくれあがっていた&コは整理対象となり、 その「基準」も明確とは言えないタメ、「勝者」においても、「内乱」が勃発、悲劇を生んでいます。
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熊谷県権令→「群馬県令」
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「1876(明治9)年頃の
楫取素彦の「書」 「群馬の古墳」について、 素彦が詠み、「扇面」に認めた「漢詩」です。 「所蔵」しておられる楫取能彦氏の撮られた「写真」を提供していただきました。 |
寿子の「墓」は、「東京青山墓地」にあります。 「左」が「楫取家」の「墓」で、 「右」の大きい墓が、寿子の個人墓です。 「表面」には従五位 楫取素彦 妻 杉氏 墓とあり、 「裏面」には、素彦が執筆した「墓誌」が刻されています。 その「墓誌」は、「群馬県前橋市の「清光寺」の「清光寺だより第13号」を元にして、 『男爵 楫取素彦の生涯』等に、紹介されています。
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「楫取寿子」について 困ったこと≠ノ、楫取寿子と野村望東尼のことに触れたものは、ほとんど≠ネいといった状況にあります。 「ウィキペディア」には、楫取寿子がありませんし、 [Google]・[Yahoo]共、楫取寿子という「検索」で、この「ページ」が、最初≠フ「ページ」にでてきますので、 私の「調査・研究」を少し=A「紹介」してみます。 杉百合之助の次女。吉田松陰の妹。寿。(なお、寿子、久子、希子とも書いたものがあります。) 15歳の嘉永6(1853)年 小田村伊之助(のちの楫取素彦。なお、後に示すように、幾通りもの「名」がありますが、以後は、便宜的に、楫取素彦≠ニします。)と結婚しています。 文=美和子と久坂玄瑞の結婚に、松陰が深く関わったのと異なり、松陰が関わったものではなかったが、松陰と楫取との絆は、以前にも増して深まったといいます。 松陰は楫取をして、「正直で、気力・詩力・酒力は自分より上だ」と言っていたといいます。 結婚した翌年の安政元(1854)年日に長男篤太郎(小田村希家)、安政5年に次男粂次郎(楫取道明)(「次」の「枠」参照)をもうけています。 時あたかも、幕末物騒の世の中で、勤王、佐幕の二党が鎬を削り、「萩藩」にもおのづから、そうした空気が漂い、夫=素彦は尊王党の一人として、常に東西に奔走し、幾度か身を危険にさらし、家にいることも少なかったのです。 元治元(1864)年、夫が椋梨藤太らにより「野山獄」に投獄・入牢の身となったことでも寿子は、甲斐々々しくも風雪をおかし、深夜、牢獄を訪うて食物を運ぶ等のこともあったといいます。 処刑も覚悟していた慶応元(1865)年2月15日、高杉晋作によって救出され、以後、「維新の大業」の功労者の一人となります。 慶応二年には、幕府が大挙して長州征伐に乗り出し、先ず、毛利敬親公を廣島に召喚したが、藩公は病気と称して、家老宍戸備後助を正使に、その副使として楫取素彦が遣わされた。 幕府はこの二人を囚えて還さないため、一藩の騒動は一方ならぬものがあった。 こんな時にも、寿子は武門の常と覚悟して、少しも乱れることなく、難局を乗り越え、藩公から恩賞を賜ったとも伝えられています。 慶応2(1866)年9月、姫島の「獄」にいた野村望東尼が晋作の指示により、福岡脱藩志士=藤四郎、多田荘蔵らによって救出され、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われながら、 翌年4月、晋作の最期を看取った望東尼を楫取素彦が、晋作に代わって、 篤く、世話をしています。 当然のように、寿子も、望東尼に、篤く、接しています。 ここをクリック≠した「野村望東尼と楫取素彦・寿子夫妻のこと」と重複≠オますが、少しばかり、重ねて、記しておきます。 慶応3年9月25日、「松崎天満宮」に、薩長連合軍の東征の成就を祈願かつ、見送るタメ、望東尼は、山口から三田尻(防府)へやって来て、寄寓先の「荒瀬邸」で、11月6日に亡くなるのですが、 11月1日・2日に、寿子は、山口から、望東尼を見舞い、望東尼は、次のような歌を『防州日記』に残しています。 霜月朔日、楫取氏細君へ、 わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして 同二日、御同人山口へかへらるる 暇乞に参られし時、 露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば 本来、信仰心の篤い寿子ですから、夫が獄に繋がれていた「体験」もあることとて、望東尼へのいたわりは、当然ともいえるのですが、 もともと、楫撮が中村円太を助け、そのことで、高杉晋作が望東尼の「平尾山荘」に身をよせることになる遠因を夫=素彦を作り、 それも大きな「理由」として、望東尼が姫島に流されたこと、 さらには、望東尼が晋作を匿ったことが、 素彦の命を救い、「倒幕」という流れに繋がっていることも、当然、関係していると、私は思っています。
明治4(1871)年、夫とともに三隅村二条窪(現長門市)に隠棲し、小堂を建て村民向けに法話を開いています。 夫が群馬県令に就任すると、浄土真宗の布教を望み、「西本願寺」の仲介で山口県から僧侶を招き、県内各地の説教所開設に尽力しています。 (このことは、同じ「浄土真宗」で吉田松陰の「菩提寺」=「泉福寺」の福間光子氏に詳しく、お聞きしています。) 寿子には、こんな逸話も残っています。 まだ「官営富岡製糸場」のできる以前、前橋藩は明治3(1870)年、藩営製糸所を開設しており、その中心であった前橋藩士・速水堅曹の伝習生・星野長太郎は、明治7(1874)年、生家のある勢多郡水沼村(桐生市黒保根町)に「水沼製糸所」を開業したといいます。 長太郎は県令の楫取素彦の勧奨と援助で、生糸の直輸出を行おうと弟の新井領一郎をアメリカに派遣する計画を立てたといいます。 つまり、生糸は、当時の日本の「輸出品」の主力でありながら、外国商人に買い叩かれ、薄利だったからです。 それが明治5(1872)年にフランスの技術を導入して、官営模範工場として「官営富岡製糸場」ができ、「水沼製糸所」も明治32(1899)年まで、続き、特に、明治14(1881)年には従事者数は674人という隆盛ぶりだったといいます。 しかし、それには、明治9(1876)年、領一郎が、実際に、渡米したことも貢献しています。 領一郎は、渡米前に、挨拶に「楫取邸」を訪れますが、その時、寿子は、兄 松陰の形見としての短刀を渡したといいます。 そして、その時、寿子は「この品には兄の魂が込められているのです。その魂は、兄の夢であった太平洋を越えることによってのみ、安らかに眠ることが出来るのです。」と言ったといいます。 (松陰は、安政元(1854)年、伊豆下田港にて、再航したペリー艦隊に金子重之輔と二人で赴き、アメリカに行こうとして、拒否され、幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されたことは周知のことと思います。)
このことは、領一郎の孫にあたるというハル・松方・ライシャワー氏(元駐日大使夫人)の『絹と武士』に記されており、「山口県立図書館」にありますので、確認できます。
明治14年(1881)年、死去。享年43歳。 素彦は、寿子のタメに、立派な「墓」を作り、心のこもった「墓誌」を記しています。 なお、後に引用している「上毛新聞」にあるように、明治維新政府の最高官庁「太政官」は1880年11月、全国の官営工場の払い下げ案を示し=A規模が大き過ぎる「官営富岡製糸場」については、民間資本の希望がなく、「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まった。 ということが、病床にあった寿子の耳にも入りますが、寿子の亡くなった十ヶ月後に、素彦による「意見書」が出され、 政府は翌年には官営製糸場の継続を決め、1893年に三井家が所有するまで官営が続いた。のです。 おそらく、素彦が「意見書」の提出をするという考えは、寿子に伝えられていたと、私は思っています。 兄 松陰のいわば=A魂が「群馬」の、この「製糸事業」には込められているとも言えるのですから。 |
素彦・寿子 の 次男 楫取道明 について 道明は、所謂「芝山巌事件」において、 1895年5月17日、下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日より日本による統治が始まると、 当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に 「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、 同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。 最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。 次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。 その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。 その伊沢の帰国中に事件は起こる。 1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、 日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、 彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。<^メ、 台湾教育に殉じ≠驍アとになった (「ウィキペディア」より) ということで、「六氏先生」として敬われている人物の一人です。 「萩市」の、奇数代の「萩藩主」の「墓」のある「東光寺」に「墓」が作られていますが、 父の 素彦による「楫取道明遺骨碑」の「撰文」によると、 道明安政五年五月萩に生る≠ニいうことで素彦が建てたもののようですが、 父(註 松若氏)から「道明さんが台湾で非業の死を遂げなければ、こんな立派な毛利家の菩提寺に弔われることはあり得なかったのだよ」と教えられた(『楫取素彦の生涯』30頁) とあるように、敬われ、評価されているということです。 なお、道明は、一番年長ですが、まだ、38歳の若さでした。
「楫取家」・「小田村家」について
以前、楫取能彦氏にお尋ねし、
と、当時≠フ「医学」においては、夭折される方も避けられなかったと思われますが、その方々についても、記してくださっています。 ただ、この「回答」をいただいた後、『男爵 楫取素彦の生涯』において、小田村四郎氏がより詳しく¥曹「ておられることに気づきました。 そのタメ、楫取能彦氏には、ご面倒をおかけし、申し訳ないことながら、より詳しい&がよかろうと思い、重なります≠ェ、小田村氏の書かれているものを引用しておきます。
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「世界遺産」=「富岡製糸場」と楫取素彦のこと
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◇ 官営製糸場の存続訴え 初代県令・楫取素彦に脚光 明治政府が開設した官営富岡製糸場が一時閉場の危機に陥った1881(明治14)年、初代群馬県令(知事)の楫取素彦が、官営製糸場の存続を強く国に訴えた資料があらためて注目されている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 世界遺産登録に向けた準備が進む中、楫取の功績の再評価につながりそうだ。 富岡市教委が35年前に発行した「富岡製糸場誌」に、楫取の国への意見書が載っており、出典は国立公文書館が所蔵する明治14年の公文録という。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 明治維新政府の最高官庁「太政官」は1880年11月、全国の官営工場の払い下げ案を示したが、富岡製糸場は規模が大き過ぎて民間資本の希望がなく、翌年には「請願人がいない場合は閉場」する方針が決まった。 このため、楫取は富岡製糸場が全国製糸工場の模範となったことや欧米にも名声が広まっていることを指摘し「政府がこれ(富岡製糸場)を廃滅すれば工業が日新の今日、各国に対してすこぶる恥。(中略)しばらく官設に」などと記した意見書を農商務省へ81年11月に提出。 政府は翌年には官営製糸場の継続を決め、1893年に三井家が所有するまで官営が続いた。 山口県出身の楫取は製糸場開設から4年後の1876年、第2次群馬県の初代県令に就任。 政府から養蚕県群馬の近代化を託され、生糸が最大の輸出品だった時代に、県令として8年間、養蚕、製糸業の発展と教育振興に力を注いだ。 県立歴史博物館の学芸員、手島仁さんは「時代背景や内容をさらに検討する必要があるが、製糸場存続における楫取の役割を示す貴重な資料」と話している。 「上毛新聞」(3月25日)より |
「世界遺産」の「登録」の日=平成26年6月21日(土)のこと
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「左」は、「群馬県庁」において、「登録決定」を待つ人々に配られた「うちわ」です。 二人で出掛けていますので、2枚、いただけましたので、「両面」を写しています。 (なお、「ホテル」で「朝日新聞」が配布されるタメ、「朝日新聞」の見出しダケでもと、背景として利用しています。)
という「看板」と 「大型テレビ」が設置された「会場」には、人があふれていました。 「写真」も撮っていますが、多くの方の顔が見え、了解も取りにくいこととて、省略します。 「右」は、「富岡製糸場」の入口付近にあった「掲示」です。 なお、次の「ホームページ」も、クリック≠オて御覧ください。「富岡製糸場」の「写真」を中心に構成しています。 |
美和子との「再婚」
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「写真」は、以前、「山口県」における「芥川賞」・「直木賞」受賞作家ということで、 古川 薫氏に、「高校生」に向けてとして御願いし、快く、書いていただいた「色紙」です。 高樹のぶ子氏からもいただき、かつて私が「勤務」していた学校の「図書館」にいまもあるハズです。 |
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「ネット」で涙袖帖≠ニして「検索」し、[画像]をクリック≠オてみたところ、「出版」された『涙袖帖』の「写真」はありますが、実物の「写真」は出ていないように思います。 そこで、『週刊朝日』2014年6月6日号に、楫取能彦氏が、 嫁ぐとき、美和子は亡き夫・久坂からの手紙を抱いて持って来ました。
と、語られていますので、楫取氏に、「写真で紹介をさせていただけませんか」とお願いし、「上」の『涙袖帖』の「写真」及び「次」に紹介する久坂の「手紙」の「写真」をいただいたワケです。
忘れられない大切な思い出だったんでしょうね。 現代の感覚でいうと、「昔の亭主のことをまだ忘れられないのか」というふうに、ひと悶着あるかもしれないんですが(笑)。 その手紙を素彦が「涙袖帖(るいしゅうちょう)」として、きれいな巻物にしたんです。 久坂と素彦は同志でしたから、素彦にとっても大事な忘れ形見だったんだと思います。 それが、今もわが家に残っています。 久坂の妻をもらうというのは、彼の思いや思い出も背負うということ。 また、美和子は松陰の妹で、前妻(寿)の妹でもあります。 ただの夫婦じゃないというか。絆が深かったと思いますね。 なお、『涙袖帖』は「三巻」あったそうですが、「昭和20年3月」の「空襲」のタメ焼失したと思われ、現存するのは「写真」の「壱」のみとのことです。 但し、現時点では、私は確認していませんが、戦前出版された『楫取家文書』には、全部掲載されているとのことです。 |
『涙袖帖』の中の、 久坂玄瑞=よしすけから美和子=おふみどのへの「手紙」も、楫取能彦氏の御好意で、「写真」をいただきました。 「尊攘派」が京都から追放された「文久3年8月18日」の政変直後の「手紙」の「はじめ」と「終わり」とのことです。 『楫取素彦の幕末・明治の群像』には、小さめ≠ナすが、「手紙」の全文の「写真」があり、その下に、『楫取家文書 一』を参照して作成。≠ニいう「書き下し文」なるものがついています。 私は、『楫取素彦と幕末・明治の群像』にある「書き下し文」を参照させていただきますが、私なりに、楫取氏からいただいた「写真」(3MB近い、鮮明な「写真」)を 「検討」しています。 なお、私には判読が難しい箇所(書き手特有の「略字」があり、研究しないと、その書き手特有≠フ文字は判読が難しいのです)は『楫取素彦と幕末・明治の群像』を利用させていただくことにし、黒の太字にしています。 また、私の「解読」による箇所は、赤文字にしています。ご批判をいただければさいわいです。
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「楫取美和子」について 私の「野村望東尼研究」には、美和子は、「望東尼の墓」を新しくする際に、素彦に協力したことはまず、間違いないとはいえ、あまり関係が深いとは思えないタメ、大した「調査・研究」はしていないのですが、 [Google]・[Yahoo]共、楫取美和子という「検索」で、この「ページ」が、最初≠フ「ページ」にでてきますので、美和子につして、知ろうとして「アクセス」された方に、 楫取能彦氏に提供していただいた「写真」、及び 古川氏の『故園の花』については、「参考」になろうかと思っていますが、その他、少しばかり≠フ、私の「調査・研究」でわかったことについても、ここで「紹介」しておこうと思います。 天保14年(1843年)、杉百合之助(常道)の四女として誕生。 兄に梅太郎(民治)、寅次郎(吉田松陰=既に吉田家の家督を継いでいた、姉に千代、寿、艶、弟に敏三郎がいました。 艶は文の生後すぐに夭折していますが、長女の千代は児玉祐之に、次女の寿は小田村伊之助(楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁いでいます。 なお、文という「名」は、叔父であり、松下村塾の創立者である玉木文之進が自分の名から文の一字をとって与えたといいます。 久坂玄瑞の母=富は嘉永6(1853)年8月4日に亡くなり、 その半年後の嘉永7年(安政元年)2月27日には、20歳∴痰、兄 玄機が、35歳で亡くなり、さらに一週間もしない3月4日には父=良迪が亡くなるという不幸が続き、玄機は妻子がなかったタメ、 15歳で、全くの孤児になっていた玄瑞は、 安政4年(1857年)12月5日、文と結婚します。 時に玄瑞18歳、文15歳でした。 この結婚について、玄瑞は、乗り気なったかのような=u情報」が「ネット」等にあふれて≠「ます。 松下村塾の年長者である中谷正亮に対して、玄瑞は「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾した。
といったものが「それ」です。しかも、好みの容姿ではないを、器量が悪いといった言い換えまでされているものも少なくありません。
今の時代、容姿を云々するのは、不適当と思いますが、私には疑問あることが流布≠オているため、一言、言っておきたいと思います。 若い時の「写真」はありませんが、54″ホと思われる この「ページ」に示している「写真」(←ここをクリック=v) からして、 好み≠フ問題はあるにしても、文に、容姿に問題があるとは思えません。 ただ、玄瑞は、色白で鼻筋の通った美男子であったこととて、文にはあこがれ≠フ人であったし、 兄=吉田松陰の玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めが、二人の「結婚」となったことは確かなことのようです。 実際の久坂玄瑞 防長年少第一流人物 固亦天下英才矣哉で始まる「手紙」も、かなり、知られていますが、 『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』 (岡崎兵衛氏の「自費出版」。「土井ヶ浜遺跡」の「調査・研究」でお世話になった、小川 信氏(小川五郎氏のご子息で、「衆議院議員」等をなさった方です。)にいただいた貴重な=u書籍」です。)
によって紹介しておきます。
松陰は、妹・文に贈ることばで、次のようにいっている。
とあります。
久坂玄瑞は 防長における年少第一流の人物であり 天下の英才である 少妹には過ぎたる人物だ しかし人の憂うべきは 自ら励まざるにある 自ら励み 自ら勤めるならば 何の 成らざることがあろうか 酒食のことを工夫し 父母に心配をかけぬように 家事を間違いなくやっていけ 『女誠』にある貞節 専心のごときは 嫁ぐ初めの覚悟が大切なのだ 少妹すべからく怠ることなかれ ここに過ちをするほかに憂うことなく 稚拙な汝が 天下の英才に妻たるの道もこのほかにない 玄瑞はまもなく京都・江戸に遊学したり尊皇攘夷運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちとなります。 元治元(1864)年7月19日、「禁門の変」が起こり玄瑞は奮闘ののち自害します。 玄瑞は、美和子に ふそ月に一度は六ケ敷候得ば三月に一度は保福寺墓参はおんまゐらせ候申す と書き送っているように、 「久坂家」を気に掛けていたこととて、二人の間に、子供がないため、美和子は、楫取素彦・寿子の「次男=粂次郎」を 玄瑞の亡くなる一年前の文久3(1863)年に、「久坂家」の「養子」としてもらい、 玄瑞の死の二ヶ月後、7歳で家督を相続させ、「久坂家」に尽くしていましたが、 品川弥二郎、野村和作らによって、玄瑞にそっくり≠ネ子供が京都にいることがわかり、 明治12(1879)年9月、その子供=秀次郎に、家督を譲って、粂次郎は、「楫取家」に戻ります。(粂次郎については、ここをクリック≠オてください)
玄瑞の亡くなった後、文は毛利元徳(=定広)の正室・安子の御側女中の一人(はな・津屋・美和の三人の名がわかっています)、およびその長男興丸 =毛利元昭
の守役を勤めています。
維新後東京に移り、明治30年家督を継ぐ。貴族院議員となり公共事業への功績多大。 昭和13年(1938)歿、74才。 1881年(明治14年)1月30日、次姉の寿が43歳で死去。 姉の死の2年後=1883年(明治16年)、義兄であった楫取素彦と再婚します。 玄瑞の遺稿や、文に宛てた書簡21通を再婚するに際し、持参しますが、それをまとめて「涙袖帖」と題したのは、素彦でした。 晩年は山口県防府市で過ごし、1912(明治45年/大正元)年8月14日、素彦を看取り、 美和子は、1921年(大正10年)に79歳でこの世を去っています。 |
「1886(明治19)年1月21日の 楫取素彦の「書」 「酒席」に招かれた時に、詠んだ「漢詩」とのことです。 素彦は、「漢詩」を得意としており、 また、「酒」にも強かったとのことです。 「所蔵」しておられる楫取能彦氏の撮られた「写真」を提供していただきました。 |
くにのため尽くししのみか伝へたる みのりの道はふみはたがへず ─ 本願寺法主大谷光尊の「弔歌」とされています。 ─ |
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「写真」は、「防府市岡村町」の旧「楫取邸」の跡。 「所有者」が何代も代わっているそうで、当時を偲ぶものはないようです。 現在は、ほとんどが、「PL教会」の所有地になっていますが、「左の写真」の「P」の立て札のある所から、桃色っぽい建物(病院です)の手前までが、旧「楫取邸」であったようです。 「道路」の「左」には、今は、見えませんが、川(道路の色違いの下)があり、「道」から「楫取邸」に入るための「橋」は、 「右の写真」の「PL教会」の「横書きの文字」がある「手前」にあったと思うと、近くにお住まいで、『楫取素彦の生涯』に、「岡村楫取本邸想記図」を寄せておられる藤本傳治氏は、おっしゃっています。 なお、「右」の仕切りの向こうにある二階屋も旧「楫取邸」の敷地の一部に建っています。 なお、「楫取邸」は、広大な敷地ですが、この「岡村地区」には、貞永幽之助(庄右衛門)の「貞永屋敷」(現 「山口県立防府高校」の「体育館・プール」のある所)、 さらに、「小澤屋敷」、「江村屋敷」というより広大で、現在は、分譲されて、小さめの「団地」になっているところもありました。 |
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◆ 「防府望東尼会」のこと
受け継いだ「資料」が少ないため、「防府望東尼会」の現会長の上山喜譽氏は、「古書」等にあたられていますが、 現在≠ワでの「調査」によると、 「防府望東尼会」の先駆け≠ニもいえるものは、 1891(明治24)年12月、「女性」として、初めて=A野村望東尼に、贈正五位の宣下があった(参考 「贈正四位」の津崎矩子と同時期)ことを契機に、 3年後の1894(明治27)年、楫取素彦氏が中心となって、望東尼の「墓」が新しくされるが、 その「墓」を新しくしようと、楫取素彦氏が働きかけた時にあると推測しておられます。 昭憲皇太后を始め、三条公、毛利公といった方々からの協力も得て、立派な「墓」が、望東尼の命日の11月6日、楫取氏が祭主となって落成式を兼ねた、盛大な追祭が執行せられただけでなく、その後も、楫取氏を中心に、望東尼の顕彰に努められたのです。 楫取氏が、亡くなられた後も、他の方が「望東尼顕彰」を受け継がれたと思われるのですが、はっきりしないようです。 ただ、上山会長が、「マツノ」という山口県では有名な「古書店」から求められた『望東尼小傳』(山口県防府婦人会 昭和3年10月10日刊のごく薄い小冊子です。著者としては大澤 あい氏の名があり、巻頭には、香川 信代氏の名も併記されています。)に、御大典記念として「望東尼会」を起こした≠ニいう記述があり、会員も千五百人≠ニあることから、「有志」ではなく、「組織」となったのは、昭和初年のことと思われます。 ここに名のある香川氏も「会長」を勤められた一人のようですが、これまでどなたが「会長」を勤められたかは、はっきりしていません。 「伝聞」という形でなく、明らかとなっている「会長」を勤められた方々は、 ・・・→中村茂喜氏→山根 功氏→米沢 理氏→大西 力氏で、 大西氏が亡くなられた後を推されて、平成14年4月以来、上山氏が会長になっておられるワケですが、「望東尼生誕200年&140回忌」という大きな「節目」にあたられたことで、「防府望東尼会」としても「これまでの歩み=vを明らかに≠オておきたいと思われたことに加え、「マスコミ」・「研究者」等からの「問い合わせ」が重なったため、本格的≠ノ、諸資料にあたっておられるワケです。 新たに明らかになったことがわかった時点で、教えていただくことになっています。 「会員数」は、ここ十数年は、ほぼ一定で、百名余とのことです。 |
「平成24年」の
「大楽寺」における 「望東尼の法要」の「写真」です。 「右奥の3人目の女性」が 谷川佳枝子氏です。 |
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貞宮の亡くなられた年齢について、『楫取素彦の生涯』において一坂太郎氏が三歳で夭逝と書いておられるという「疑問」を寄せられましたが、 一坂氏の「一文」には、誕生日と亡くなられた年も記されており、「数え」でということだとわかります。 従来は、享年は、「数え」で記していたようです。 従って、「享年」とあれば、[数え=生まれた時点で、「1歳」、以降は、元日(1月1日)を迎えるごとにそれぞれ1歳を加える]という考え方になります。 ツマリ、貞宮は、満年齢では一歳半でお亡くなりになったのですが、数えでは3歳ということになるワケです。 なお、亡くなられた日を一坂氏は実際≠ヘ「1月10日」なのだが、 英照皇太后崩御と同日であったため、亡くなったのは11日午後11時50分と宮内省から公表された と「天皇紀」に拠るとして記しておられます。 |
「貞宮遙拝所」の「写真」と、 その側に「平成27年夏季」に 「防府ライオンズクラブ」が「55周年」・ 「防府中央ライオンズクラブ」が「50周年」 にあたることで、奉納するという 東京造形大学教授 小川幸造氏の 「楫取素彦と文の像」の「写真」です。 (この時は、文ではなく、美和子ですが、「大河ドラマ=花燃ゆ」の関連でのことでしょう。 [文の防府日和]のように、随所≠ノ文とあります。) |
楫取素彦・楫取美和子一緒≠フ貴重な=u写真」 |
元赤坂の 赤坂御用地 内の 「故貞宮殿下御座所北側御廊下」 に於いて 明治32年2月16日降雪飛々たる日 園 基資 撮影 残念ながら、当時のこととて、寿子の「写真」は、「楫取家」にもないそうです。 ただ、楫取能彦氏によると、美和子については、それも、素彦と一緒≠ノ写っているという貴重な=u写真」があるとのことでしたので、 お借りできないでしょうか、とお願いしました。 すると、わざわざ、「写真」を「複写」して送ってくださいました。 能彦氏によると、「写真」の裏には、「上」のように書かれているそうです。 また、「写真」についても、説明をしてくださっています。 とのことです。 素彦=68歳・美和子=54歳と思われます。 |
「楫取家」の方々のみの部分です。
「上」の説明と重複≠オますが、記しておきます。 「左」から、 楫取道明(素彦次男) 夫人=美寿子(みすこ) →楫取美和子 →楫取素彦 →小田村希家(ひさいえ・素彦長男で「小田村家」を相続)夫人=多賀子(たかこ) です。 なお、「杉家」寄贈という「写真」が、「萩博物館」にあります。
ただ、「萩博物館」は、「資料」は「財産」と考えており、「写真」類も、転載の許可はしない(「ネット」でも、「萩博物館」の「写真」には、博物館≠ニいう「白い文字」が中央に入っています。)とのことですので、示せませんが、『楫取素彦と幕末・明治の群像 図録』、「ウィキペディア=楫取美和子」には載っており、「ウィキペディア」の場合は、「写真部分」をクリック≠キると拡大します。 「人数」・「場所」・「並び方」に違いがあり、素彦の「烏帽子?」に違いはありますが、美和子については、ほぼ=u同じ」と見てよいようです。 ただ、能彦氏の「写真」は、「楫取家」の四人が、並んで 写っています ので、より貴重な「写真」と思いますので、 「楫取家」の方々のみの「写真」を示しました。) |
楫取素彦・楫取美和子の「写真」 |
楫取美和子の「写真」 |
楫取美和子の「写真」は、泉福寺などにあり、一般によく知られている @ 最晩年の紋付姿の上半身の写真 の外に、 楫取素彦氏所蔵の A ここに示した 「明治32年2月16日 撮影の写真」(「左」は、美和子一人を「スキャナ」で取り込んだ「写真」です。) と、「翌日撮影」の B 「萩博物館」にある「写真」の外に、 もう一枚あるようです。 「防府天満宮」の「蔵書」にあったという C 「右の写真」がそれです。 この「写真」は、少しばかり=A若い時の「写真」のようです。 (越智氏が「出典」を確認されれば、「撮影年月」がはっきりすると思います。)
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私なりに「書籍」を調べてみて、 『松陰先生にゆかり深き婦人』(昭和11年 武蔵野書院刊 「著作者」は廣瀬 敏とありますが、 「はしがき」を見ると、奥さんの廣瀬敏子氏が書かれたものとわかります。 ただ、主人は、廣瀬 豊氏のハズですので、子が抜けたものか、豊となるベキだと思います。 なお、「図書館」においては、いずれも廣瀬敏子氏が著者だとしています。) に、ほぼ%ッ時期の撮影と思われるこの「写真」 (D) が載っていることがわかりました。 見ればわかるように、当然、越智氏の発見≠ウれた「防府天満宮」の「蔵書」にある「写真」ではありません。 寿子の「写真」も載っていますが、広く、知られている、はっきりしない「写真」です。 なお、この『松陰先生にゆかり深き婦人』においては、いつ頃、どんな時の撮影かは記されていません。(「見落とし」かも知れませんが・・・。) この『松陰先生にゆかり深き婦人』においては、附 野村望東尼と楫取夫妻という「項目」で、かなり¥レしく、記されています。 幾つかの「図書館」には、所蔵されていますので、御覧になることをお勧めします。 「写真」の文字は、「右」から「左」に書かれています。 「右」から久坂文子筆玄瑞年譜=E久坂文子(後の楫取美和子)≠ニあるのが読めるでしょうか。 |
「本殿」の「右」にある 枝垂れ梅の咲き誇る「梅林」の「左の写真」の「右側」にわずかに見える「石碑」が、「千年式年大祭記念碑」なのですが、 これまで、数え切れないほど、参詣に訪れていながら、 気づかずにいました。 しかし、早朝散歩の際、警備の方というワタナベ氏に、親切に、案内していただくことができ、簡単ではありますが、説明をしていただきました。 |
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「菅公千年式年大祭」は、明治35年4月3日から5月2日まで、盛大に営まれたと言います。 『楫取素彦の生涯』において脇 正典氏は、書は有栖川宮威仁親王で碑の裏側に「総裁正三位男爵楫取素彦」他幹事の名前が記されている。 と書いておられますが、「中」の「写真」のように、文字が刻まれていることはわかりますが、一部≠オか見えないのみならず、その一部≠フ文字も、判読できません。 ただ、「右」の「写真」のように、明治三十五年とあるのは、はっきりと読めます。 |
明治29(1896)年1月1日 次男で「楫取家」を継承する道明が、 台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、 「リーダー格」の道明をはじめとして、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」 と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったことで、亡くなった(所謂「芝山巌事件」)タメ、 素彦の「葬儀」の「喪主」は、孫 の 三郎(明治12年7月22日〜昭和2年5月1日)が勤めています。 |
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現在の「墓」 |
「没後百年」ということで「入口」に「顕彰標」が建てられています。 |
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「大楽寺」
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◇ 関連した「ページ」への「リンク」 吉田松陰の「菩提寺」=「泉福寺」のこと ↑ この「ページ」と重複≠オたものもありますが、 松陰の「位牌」や吉田松陰に関連したこととして、寿子、美和子等についても、記しています。 山田顕義 ─松陰・晋作・望東尼に愛された男─ ↑ 楫取素彦のモトで、「維新実現」に大きな℃タ績を残し、 後に、「伯爵」になり、「日本大学」等を「創立」したといわれています。
「次」に、[歴史の道「萩往還」=鯖山峠・舟橋・松崎神社(防府天満宮)・英雲荘・御舟蔵跡]の中から抜粋≠オてみました。
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「防府駅」てんじんぐち前にある防府市地域交流センター=「アスピラート」という「建物」に掲げられたもの |
「左」は、「華浦地区」に、関係の史跡・建物があることで、「華浦公民館長」の坪郷好夫氏が「作成」された「小冊子」と、 坪郷氏の着任以前からある「華浦歴史かるた」を撮ったものです。 「華浦歴史かるた」は、「表」に「写真」、「裏」に「解説」という体裁で、「華浦小学校」等で、活用されているとのことです。 坪郷氏は、私の「後輩」であることとて、「写真」の中に入ってもらうよう、依頼し、了承をえました。 さらに、[平成26年 第2回防府市議会定例会]において、 「市会議員」の今津誠一氏が、 「防府市は維新の志士たちが闊歩したまちであるし、また、来年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』と4年後の維新150年に因んで『志士闊歩かるた』(『防府維新かるた』)の製作をし、防府に残る文化遺産が子供たちに伝わるよう、提案する。」
として質問・提案されたのに対して杉山一茂教育長が、前向きに検討すると答弁されたとのことです。
『花燃ゆ』の放映中には、実現している可能性があります。 |
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「防府天満宮 貞宮遙拝所」における「神事」 1897(明治30)年の項に述べているように、楫取素彦は、 明治天皇第10皇女第十皇女=貞宮内親王の御養育主任に任じられ、美和子も、貞宮に「御付き」として仕えてました。 しかし、貞宮が、1899(明治32)年1月11日に薨去(こうきょ)されたため、遺品を下賜、保存場所として天満宮境内に「貞宮遙拝所」建立し、 貞宮「遺物」は、「防府天満宮」に奉納され、現在も、 「防府天満宮」において、毎年1月11日に「遙拝式」が行われているとのことです。 と記しているように、この「開館セレモニー」の日=1月11日は「命日」でした。 私は、「ルルサス」における「開館セレモニー」に出掛けていたワケですが、多くの方々で溢れており、「天満宮」も当然、人で溢れていると思われ、行きませんでしたが、 楫取能彦氏のみならず、文を演じる女優の井上真央氏、小田村伊之助役の大沢たかお氏も「神事」に参加 したこととて、「NHKニュース」にも放映されました。 |