潮 音 山 泉 福 寺 (ちょうおんざん せんぷくじ)のこと |
吉田 松陰 の 「位牌」 |
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吉田松陰抜き≠フ「日本の歴 史」はありえないワケで、当然、松陰への関心はあ るものの、 多くの研究・著作があり、私如きが云々する余地はないと思っていましたが、義母の「葬儀」に際して、「菩提寺」の住職が、近年、空位となって 、「泉福寺」のご住職にお世話になるようになっ ていました。 そこで、「泉福寺」を訪れたワケですが、 お恥ずかしいことながら、「松陰神社」は当然のこと として、松陰関係については、ほぼ、訪れていたつもり でしたが、「泉福寺」が「菩提寺」であるという ことは、知りませんでした。 「ネット」で調べても、詳しいものどころか、松陰の「菩提寺」について、記しているものは、ほとんどないように思います。 ということは、私のみならず、多くの方も、ご存じないのではないかと思います。 しかも、由緒正しい「寺」であるにもかかわらず、「下」に記している ように、今の地への移転が「正保元(1644)年」と、既に、「萩城下」がほぼ 完成していたタメでしょう、通りからの「入口」は、気がつきにくく、「本堂」 は立派なのですが、多くの大規模な「寺」と異なり、「通り」から「本 堂」までがゆったりとしていないことと、「石柱」や「解説板」が見あたらない タメ、「泉福寺」が松陰 の「菩提寺」であることを知っておられたとしても、「萩」以 外の方、特に、「県外」から訪れようとする方には、わかりにくいのではないかと思いました。 わずかに、「松陰先生(吉田家)菩提寺」と書かれた 薄い「板」が、「本堂」の「入り口」近くにあるにすぎないから です。 このような次第で、松陰の「菩提寺」を「紹介」する意味があろうと思います。 (現在≠ヘ、「解説板」がありますし、[吉田松陰.com
]の 吉田松陰に関す
る史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしていただいています。)
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吉田松陰は、明治維新の精神的指導者・理論者として知られ、「松下村塾」で薫陶を受けた人物によって、「明治維新」・「近代国家」への 道 が築かれたといっても、 過言ではないと思われます。
松陰についての詳しい≠アとは、他の方々の「 研究」・『著作』に拠っていただくことにして、ここでは省略し、 「山口県大島郡出身」の作詞家 星野哲郎氏の「吉田松陰」を「紹介」しておきたいと思います。
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「泉福寺」の住職=正倫は、 松陰が「刑死」し、「百日目」の 万延元(1860)年2月7日に、萩の地に、松陰の遺髪を埋葬して「墓」が作られると、 足繁くお参りすることの難しい吉田家・杉家に代わ って、「墓」の清掃・お供え等を福間の家族ぐるみで、日々、されていたとのことです。 (正倫は、松陰の亡くなった翌年に没していますが、正順の代にも引きつがれたとのことです。
「墓」と「寺」とは、かなりの「距離」があり、江戸末期〜明治初期のことと て、おそらく、徒歩だったと思われますが、決して近距離≠ニは言えません。)
その後、「松陰の墓を守る会」といったものができ、さらには、「萩市」が係わるよう になって、 (「吉田松陰の墓ならびに墓所」として、「昭和47年2月9日
」、「市指定文化財(史跡)」になっています)
今日は、係わっておられないとのことでしたが、
「泉福寺」は、次に記すように @ 松陰と勤皇僧 月性 の「出会いの場」でもあったし、 A その月性とは、親族 ということもあって、 正倫、正順は、「安政6(1859)年10月27日」に斬刑に処された松陰の「墓」を福間家 で、世話をされていたといったことは、記憶しておきたいことです。 |
単に=@「菩提寺」であるということに留まらざる「泉福寺 」であるということ ─ (その1) 「明治維新」において、 松陰に劣らぬ役割を果たした 月性という傑物を間接的≠ネがらも、「結びつけた¥黶vと考えられる こと ─ |
有名な「将東遊題壁」が併せて記されている 月性 の絵を 「財団法人 僧月性顕彰会」からお借りして示しています。 「月性展示館」には、松陰 からの「書簡」もあります。 |
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「右」の「系図」は、「財団法人僧月性顕彰会」の「僧月性略伝」を、 スキャナ≠オたものですが、 泉福寺第十代住職の大敬(だいきょう)は柳井の 勤王僧 月性(1817年11月6日〜1858年6月21日) の 叔父 にあたります。 (「印刷文字」が薄いタメ、わかりにくいかと思いますが、中央≠ノ
大敬(萩泉福寺住職)とあるのを確認ください。)
そのこともあって、月性は、ここ泉福寺で、 吉田松陰(1830年8月4日〜1859年 10月27日)、 高杉晋作(1839年9月27日〜1867 年5月17日)らと出会い、少なからぬ影響を与えたようです。 この「僧月性略伝」によりますと、 月性は 文化14年
(1817年)9月27日 山口県玖珂郡大畠町遠崎の
妙円寺 に生まれた。
大敬と泰成が、それぞれ萩の泉福寺と 光山寺の住職となっていたので、月性は早くから萩に出て諸名士と交際する機会を得た。 とくに吉田松陰の兄梅太郎(注 1828〜1910 一般的には民治と言われます) と交わり、周布政之助や北條瀬兵衛らと 早くから相知りえたのは、この叔父たちの紹介であった。 月性は優れた詩人としても多くの傑作をの こした。 その著「清狂吟稿」は、今萩の松陰神社に所 蔵、三巻二冊より成・・・・・安政2年正月に吉田松陰の兄梅太郎 を通じて月性が松陰におくったもので、松陰は 月性の護国論と吟稿は松下 村塾において、これを出版して天下の同士に寄示するよう 「留魂録」に書き遺したが果たされなかった。 月性はこのように文に詩に多くの業績を遺したが 、月性の真面目は 尊皇攘夷の徹底した持論を特異の弁舌を以て、大衆に向かって 宣揚したその実践活動にある。 当時の封建社会に於て、これが出来るのは独り僧侶のみであった。 僧侶は仏の道を説く者として、殆んど権力の外におかれた。月性は勿論安心立命の道も説いたであろうが、それ以 上に時局を論じ特に海防の急を説いた。 当時長州藩の重臣村田清風、藩老の益田弾正、福原越後、浦靱負などは月 性の海防護国の主張に共鳴して、しばしば自分の領内に講説せしめた。 後には 藩命により防長二州の全域にわたった。 萩清光寺の講演の折には 松陰は村塾の授業を休んで塾生を聴講させている。 その論旨は 時に幕政の非議に及び、しばしば幕吏に狙われた事もあった。 このことは、安政3年6月、松陰の月性宛書簡中に「上人虎口を免れたりと て世上大評判なり云々」とあるによってもわかる。 また 婦女子に対しては服装の華美を戒め、外夷を一歩も神州の地に近づけないため武芸をたしなむこ とを諭した。 後に四国連合艦隊が馬関に来襲したとき、萩の婦人が女台場を築いて長州婦人の意気を示したこ とも決して偶然ではなかった。 要するに我が国社会組織の中に厳として打破ることの出来ない士農工商と言う 階級意識を 対外危機感をかためることによって、大きく変えてゆく契機を造ったことは、やがて四境の戦 から戊辰の役まで藩をあげて一丸となって進んだ長州藩の原動力としての役割を果たしたものと言えよう。 とあります。
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「泉福
寺」の「本堂」の一角
「左」から ・ 「吉田家先祖法名一覧」 (クリック) ・ 「山口県文書館」の「ポスター」 (クリック) ・ 「僧月性顕彰会」の「ポスター」 ・ 「松下村塾」の「ポスター」 (クリック) ・ 「杉家」・「吉田家」・「楫取家」の「系図」 (クリック) |
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「萩市観光課」の 萩まちあるきマップ 維 新の先覚者 吉田松陰ゆかりの地を巡る! は、無料で手にできますが、 残念≠ネがら、以前は、 「コース」としてあるのは、 @「至誠館」→A「松下村塾」→B「吉田松陰幽囚の旧宅」→C「松陰神社」 →D「松浦松洞誕生地」→E「吉田稔麿誕生地」→F「伊藤博文旧宅・別邸」→G「玉木文之進旧宅」 →H「吉田松陰誕生地・墓所」→I「明安寺」 ダケでしたが、 観光≠フ対象ではないとはいえ、ゆかりの地ということでしたら、「泉福寺」は、「吉田家」の「菩提寺 」であり、 松陰がまだ、幼少の時から「吉 田家」の「当主」として係わっていたのであり、この「泉 福寺」は、月性、志士達など、「維新」に関わる人物との邂逅≠フ「場」となっていたのですから、当然¥ミ介すべきだと、私は思いましたし、 それに、なによりも、松陰の「位牌」もあるのですから、 ここにある「他の箇所」に比しても、遜色はないハズだとして、「萩市観光課」に、提言していたのですが、 「令和2年10月」に、「泉福寺」が追加されました。 |
以前≠ヘ、「写真」のように、「泉福寺」で用意された薄い「板」に書かれた 吉田松陰の「菩提寺」 を示すものしかありませんでした。 「解説板」や「石柱」が設置済みの 他とのバラ ンス(あまり知られていない人物についても、その「生誕地」・「居 住地」の「石柱」・「解説板」が、数多く設置されています)からしても、 「石柱」・「解説板」といったものを「設置」してはどうですかということを「萩市 文化財保護課」に提案しました。
「吉田松陰の菩提寺」という「解説板」は、 結局、「観光課」の谷野芳之 氏が「窓口」となって、「対応」してくださり、小さめ≠ナすが、 「入り口」の「右」に、「説明看板」が設置されまし た。 なお、「左」の「写真」のように、縦長の「白い」松陰先生(吉田家)菩 提寺と書かれた「白板」は、現在もあります。
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吉田松陰から三代後の吉田家当主・吉田庫三氏の
妻の茂子氏が、
「山口県」に、 「吉田松陰像」や「文書類」を寄贈され るに先だって、 「泉福寺」に、松陰の直筆 の幾つかは「寄贈」しましょうと言われた際、 研究・管理のタメには、「山口県」が管理するのが適当と考え、 「菩提寺」として「位牌」とともに保存 するのに適当なもので、 かつ、管理可能なものをとして、 いただいた松陰の「直筆」であるとのことです。 (吉田倉三・茂子両氏の「写真」は、ここをクリック
してください。)
「写真」は、 吉田松陰研究の方々が、 松陰の直筆を御覧になっているところです。 「後ろ姿」ですので、お借りした「写真」をスキャナ≠ナ取り込んでアップしました。 (この「写真」でも、ごく、親しい方にはどなたかがわかると思います。
もし、不都合でしたら、ここをクリックすると、「Eメール」設 定した箇所にジャンプ≠オますので、そこからご指示ください。) 残念ながら、私は、実物を見ていません。 「観光協会」の「ホームページ」に 松陰先生直筆の書などが所蔵されており、毎年5月に開催される「浜崎伝建 おたから博物館」で年に1回公開されます。 とありますので、私も、出掛けてみようと思っていますが、皆さんも、直接、実物 を鑑賞されることをお勧めします。 |
「泉福寺」にある「松陰の直筆」についての 山田 稔氏 による「解説」 この「泉福寺」にある「松陰の直筆」についての「解説」を、「急がないならば」ということで、山田 稔氏にお願いしていましたが、、お忙しい中、「一年余」を経て、次に示すような「情報」をお寄せくださいました。 次の「下線部」をクリック≠オてご覧ください。 「松陰の菩提寺」にある「松陰の直筆」のこと 約束を忘れられることなく、「一年余」という「歳月」、山田氏に「負担」をかけたことを、申し訳なく思いますが、「後世」にも、伝わって欲しいと思っています。 この山田 稔氏 による「解説」は、令和5年春に予定している『楫取素彦・野村望東尼 付 吉田松陰の「菩提寺」について』に取り込むつもりです。 |
「松陰神社」にあ る 「松下村塾」 を背景に、 維新の代表的な5$lを配した「ポスター」です。 「萩駅の待合室」にありました。 (平成25年5月17日) 史跡と維新のまちとあるように、「萩市」には、維新関係の史跡が数多くあります。 なかでも、この「松下村塾」は代表的なものです。 読みにくいかと思いますので、「文字」の部分を「紹介」しておきます。 なお、「松下村塾」の中の「左端」にわずかに見える 「肖像写真」は山田顕義>のハズです。
「松陰神社」は、 松陰の実家=「 杉家」の地(松陰の「誕生 地」ではなく、嘉永元(18488)年、一家は松本村清水口=現在の松陰神社境内に転居 。)を中心に創建されたものといわれ、 「松陰神社本社」のほか、 この「写真」にある「国指定史跡」の「松下村塾」 同じく 「国指定史跡」 の「吉田松陰幽囚ノ旧宅」 「山口県指定有形文化財」の「花月楼」のほか、 石碑に、 ・「親思ふ・・・」 ・「明治維新胎動之地」 ・「薩長土連合密議之處」 ・「明治九年萩の變七烈士殉難之地」 があり、 さらには、「歴史館」・「至誠館」 といった「施設」などがあります。
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父=英男の「明治百年」〈昭和43(1968)年10月〉という 『スクラップ帳』から抜き出してみました。 「右」の記事には、当然のこととして、松陰 と「松陰神社」が取り上げられ、 松陰の「像」と「松陰神社」の中にある「松下村 塾」の写真があることがわかると思います。 しかし、残念ながら=A父の膨大な=u切り抜き」の中に、「泉福 寺」を記した「記事」は、見あたりません。 「毎日新聞」(昭和44年1月17日)を始め、 「NHKテレビ」にも取り上げられた父の整理のこととて、「切り抜き」にないということ は、なかったということだと思います。 間近に迫った「維新150年・明治150年」(厳 密≠ノは1年違います)の時には、「泉福寺」 も 取り上げられ、松陰 の「位牌」を拝む人が多いことを期待しています。 「松陰神社」の重要性はいうまでもありません が、松陰は、亡くなる時、「神」になること を予測してはいなかったと、私は思いますので、「菩提寺」 も 忘れてはなるまいと思うのですが、いかがで しょうか。 (松陰の「150回忌 」である「平成21(2009)年10月」の時には、父は「昭 和62年6月」に亡くなっているタメ、「松陰神社」を中 心に、各種の「企画」がなされたことは知っていますが、父と違い、複数の「新聞」を買い求め るということはしていませんので、「150回忌」 の時の様子は、わかりません。)
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「左」から 吉田庫三=吉田家第十一代(松陰の甥にあたる) 鳥取県第一中学校長(現在の県立鳥取西高校) 神奈川県第二中学校初代校長(現在の県立小田原高校) 神奈川県立第四中学校初代校長(現在の県立横須賀高校)を務める。 著書に「松陰先生遺著」等あり 。大正十一年(一九二二)没 行年五十六才 →吉田松陰 →吉田大助=吉田家第七代で松陰の義父。松陰実 父の杉百合之助の弟。天保六年(一八三五)没。行年二十九才 →吉田久満=吉田大助の妻。松陰の養母 夫の没 後は実家森田家に寄寓。松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。明治五年(一八七二)没 行年五十九才 の「墓」です。( ≠ヘ、「墓」のそばにある「解説」の文字。) なお、「上」に見える「墓」は、高杉晋作の「墓」 です。 久坂玄瑞の「墓」は、「右」方向の、やや離れた場 所にあります。 |
「松陰誕生地」(「萩市指定文化財(史跡)」〈
平成13年12月21日指定〉)
からの眺望 「中央」の「山」が指月山です。 |
上の「写真」は、本堂の「右側」にある、 @ 松陰の「画像」を中央に して、明治以降に撮影された松陰の血縁者の「写真」 ↑ (「系図」の中の、赤い○の数字と一致し ています。) と、 A 「杉家」の家系図 です。 この「写真」に写っていただいているのは、「泉福寺」の 福間 真 氏(公昭・光子夫妻の長男)です。 この「系図写真」において、 まず、松陰の父である 杉百合助常道(母= 滝子 )が記され、 その「左」に、 松陰の叔父であると共に義父となる 吉田七代=吉田大助賢良(義母= 久満子) 続いて、やはり叔父であり「松下村塾」の創立者 である 玉木文之進、 二段目に、 長男=民治修道、 その「左」に、
続いて、 児玉千代(芳子)、 楫取寿子、 艶。 この方までは、「写真」に写っていますが、続いて、 久坂文子、後に、楫取美和子、 敏三郎 とあります。 「NHK」の「大河ドラマ」=「花 燃ゆ」の「 ヒロイン」といわれるのは、 楫取美和子ですので、 ここに記されている方々も、「大河ドラマ」に登場することと思われます。
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あたらしい=u系図」になりました |
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「泉福寺過去帳」よりとして、 元禄六年四月から記されています。 「写真」は、「右」から、 書き出しの部分 →松陰=松陰二十一回猛士 八代 (安政六年己未 十月二十七日) を中心にした箇所 →終わりの部分です。 |
「写真」の右下に 2012/05/20
とあるように、「平成24年」の「浜崎伝建おたから博物館」
の日に、
多くの方が訪れられることを予測して、 「史都萩を愛する会」会長で、「萩市のホームページ」において、 吉田松陰研究の第一人者で、吉田松陰先生の志を世に伝えることに情熱を注がれていますと 紹介されている 松田輝夫氏が「泉福寺」 に待機しておられ、 「杉・吉田・楫取の系図」 「吉田家先祖法名一覧」〈頭上 に「横長」にある「表」〉 を利用して、わかりやすく「説明・解説」しておられるところです。 (「写真」には多くの方が写っておられ、どなたかもわかりませんの で、カット≠オ、了解をいただけた松田氏のみにして います。) 松田氏は、多くの「論文発表」や 編著書として『吉田松陰と塾生 松陰の塾生についての記録集』 (「松陰神社」刊) があり、 各地の「講演」や「松陰関係」の史跡の案内等を精力的にされている方です。 |
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ここには、「仏」としての「松陰」を強調するタメ、当初≠フ「位牌」の「写真」を載せていたのですが、 ありがたいことに、ほぼ、目的は達せられたと思われますので、「ケーブル」で再開するにあたって、 松陰の「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、新しく作られた「位牌」のみを、示すに留めます。 さいわいなことに、これまでは、「このページ」から、「写真」を取り込み、変な形で使用されたということは、ないようです。 私の『自費出版』の中には、当初≠フ「位牌」の「写真」を載せます。 『本』における「位牌」の「写真」なら、今後も、変な使用はされないと思うからです。 なお、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経が あげられています。 |
松陰と望東 尼とは、直接的な=u関係」はありませんが、 松陰の「門下生」=高杉晋作を「平尾山荘」 に匿い、そのことで、「明治維新」の成就に深く関わっており、 松陰の2番目の妹= 寿子は、楫取素彦(小田村素太郎)の「妻」として、晋作の死後、 野村望東尼を親身になって世話をした人物で、 望東尼の『防州日記』 にも、
と、感謝の言葉が記されています。 なお、寿子は、明治14年に43歳でなくなっ ており、後妻に、久坂玄瑞の妻で、久坂の死により、22歳の時から未亡人になっていた松陰の4番目の妹=文(美和子) がなっています。 この二人の結婚は、松陰・ 寿子・文らの母= 滝の勧めであったといわれており、それほど、 楫取は、「杉家」からの信頼があったということでしょう。 楫取素彦も、「維新戦争」時 には、「長州軍総大将」=右田毛利家 毛利内匠 (藤内)のもとで、参謀として活躍、維新後も、「群馬県令」など、大きな実績をあげた人物であること とて、 杉 文は、「久坂 文 」→「楫取美和子」として、 「歴史」に残る人物の妻であったということになります。 既述しているように、松陰の養父= 吉田大助は、松陰の父=杉 百合之助の弟であり、 吉田大助の代から、「吉田家」 の「法事・法要」に、「杉家」は、参列していますので、 当然、[杉 寿子→楫取寿子]、[杉 文→久坂 文→楫取美和子]は、「 泉福寺」を何度となく、訪れていることとて、 この「泉福寺」の「ページ」において、少しばかり、 述べておきます。 なお、[松島伊之助→小田村伊之助→文助→素太郎→楫取素彦]も、何時の時代からかは、はっきりしませんが、寿子との「結婚」以前≠ゥら、「泉福寺」を 訪れているようです。
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これは、松陰
が、素彦に、
松下村塾の将来を託して贈った書です。
楫取は、「長州藩」の「重責」を担って いますので、いつまで「松下村塾」に係わったかは わかりませんが、この「書」も、上の「自賛肖像」への 「自賛」を勧めたこと同様、 楫取と松陰との強い絆を示すもの といえましょう。 楫取能彦氏所蔵
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(参考) 古川 薫氏の『故園の花』 より ・・・・・・・・・・・・・ 医師久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾に突如現われ松陰に師従することになった。 後に高杉晋作とともに松陰門下の双璧と称されるまでに頭角を現す。当時の塾は、松陰の実家(杉家) にあり、松陰の末妹、文は、玄瑞に心ひかれ、やがて松陰の薦めにより結婚する。 しかし、結婚して2ケ月後には玄瑞は藩命により江戸へ発つ。吹き荒れる幕末の嵐は、松陰の死刑、安 政の大獄、攘夷運動の急展開から激しい倒幕運動へと発展し、二人に安定した結婚生活を許さなかった。 玄瑞は、松陰なきあと志士として政治運動に参画し中心的な役割を果たす。 そして元治元年ついに京都で壮烈な討死をとげる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 文は、周囲の薦めもあり、後に楫取素彦と再婚、男爵夫人として幸せな余生を送り、素彦に遅れるこ と9年、大正10年79才で逝った。 素彦は、生前に、文が携えてきた玄瑞の21通の書簡を整理し「涙袖帖」として箱書してやった。 彼女の臨終の枕元にはその「涙袖帖」があった。あくまで玄瑞の妻であることを誇示するかのように ・・・・ |
防府市の「桑山」東麓の
「大楽寺」にある「楫取家
」の「墓」と、楫取素彦が
「祭主」となって新しくした野村望東尼の「墓」。
「左」=楫取家の「墓」(ご住職の「左」=楫取家之墓
(「裏面」に美和子(=「文」)の名があります)・
「右」=正ニ位 勲一等男爵 楫取素彦 墓
「中」=楫取素彦個人の「墓」(「写真」から、正ニ位 勲一等男爵 楫取素彦 墓≠ニあるのが読めると思います)、 「右」=野村望東尼の「墓」 「大楽寺」には、の二箇所、「墓域」が あり、「大楽寺」そばの「墓域」に、 「楫取家」の「墓」があると思われがちですが、 「楫取家」の「墓」は、そこではなく、 南側100メートルくらい歩いた所にある、古い方の「墓域」にあります。 そこには、野村望東尼の主治医であった秋本里美(あきもとさとよし)の「墓」や、「荒瀬家」を池田氏を経 由して購入した、林川家の「墓」などがあります。 「写真」の方は、案内して下さったご住職の 林 公雄氏です。長兄(=頼人)と同級生であったこともあるかとは思い ますが、とても親切に、対応してくださいました。 「写真」は、[平成20年11月]当時のものです。 「平成24年」に、「墓域」の入り口に、「百回忌」を機会に設置された「 顕彰標」があり、比較的、わかりやすくなりましたが、 大きく=A立派な=u墓」のハズという思い込み≠ェあったタメ、それまで、何度となく 、「桑山」周辺を捜してみたのですが、わからず、林住 職に案内していただいたワケです。 なお、野村望東尼の「年 忌法要」が「大楽寺」で行われるタメ、勘違いされる 方もあり、「書籍」や「ホームページ」・「ブログ」等においても、 誤った=u紹介」をしたものが少なからずありますが、望東尼の「墓」は、「大楽寺」の「墓域」にはありません。 「桑山中学校」に近い、「桑山」の南西麓 にあります。 その望東尼の「墓」は、 1894(明治27)年、 野村望東尼に、「 贈正五位」の宣下のあったのを契機に、楫取が祭主 となって、新しくした、立派な「墓」です。 明治二十七年 三月 従三位勲二等男爵 楫取素彦 撰 という長文が「裏面」に刻まれています。 その「墓」の「表面」・「裏面」とも、写真」で、比較的多く紹介されていますので、 ここでは、「側面」からの「写真」により、その規模≠知っていただこうと思いま す。 この望東尼の「墓」の周囲にある「墓」と、楫取の「墓」は、大きさ・高さ共、ほとんど変わりませ ん。 楫取は、「正二位・勲一 等男爵」(「従三位・勲二等」から昇格)なのですが、 その「墓」は、楫取が尽力して、 新しくした望東尼の「墓」に比して、つつ ましやか≠ナす。 望東尼は、「正五位」なのですから、 「正二位・勲一等男爵」の楫取 の「墓」は、より、立派≠ナあってもおかしくはないハズです。 楫取の「遺言」でもあったのでしょうか。 (但し、「位階」に「違い」があったということで、望東尼が、楫取よりも、貢献の度合いが低かったと言っているワケではありません。)
なお、初代の「県令(知事に相当)」を勤めた「群馬県」では、楫取 を慕う人は多いといわれ、「群馬県庁」北側の「高浜公園」には大きく、立派な「功徳碑」が建立されています 。 「泉福寺」に、平和革命論を主張し、「日本共産 党」を指導、衆・参両議員を務めた、野坂参三の「 墓」もあるように、 「大楽寺」は、英雲公 こと長州藩第七代藩主毛利重就の分骨地であり、境内に供養塔があるのを初め、 既述の秋本里美、林川長兵 衛(「防府」で最初の「医学博士」)など、いろんな方々の「墓」があります。 「大楽寺」そばの新しい「墓域」に は、「女優」の夏目雅子の「墓」があります。 「ひまわり華の会花壇」と書かれている「文字板」の近くに、「西山家」のお墓があり、直 木賞作家=伊集院 静(本名 西山忠来)氏の夫人で 、 若くして惜しまれつつ亡くなった女優=夏目雅子が眠っています。 蛇足ですが、私が「修学旅行」の代休で、「岡村の家=野村望東尼終焉の宅」とされる両親の家 にいた時、「マスコミ」が押しかけ、騒々しいことで、「納骨日」であることを知りました。 静かになって、お参りし、[墓誌]に、「戒名」と「昭和六十年九月十一日 西山雅子 芸名 女優 夏目雅子 二十七才」という文字が彫り込まれているのを確認しました。 |
吉田松陰 の 生誕150年 にあたる「昭和55年」、 松陰 の「至誠」を建学の「教育理念」として開学した「山口芸術短期大学」は、 「写真」のような、大がかりな「演奏会」を企画し、世に問うたようで す。 (左下に坐っている「和服」の人物は、松陰役 の山本 學氏です。) |
私は、残念ながら、「昭和55年の演奏会」には行っていませんが、 「山口芸術短期大学 演奏会 組曲 吉田松陰」が、35年ぶりの「再演 」に際し、 私が、以前、御世話になった山口芸術短期大学教授の中島俊泰 氏が、 私が吉田松陰を少しばかり≠ナすが、「調査・研 究」をしていることとて、 「案内」をいただきました。 「会場」が、私の住む所のすぐ近く≠フ「アスピラート」であることも、一因でしょ うか。 その後、お目に掛かった際、話の中で、「山口芸術短期大学」が松陰の「至誠」を「建学の教育理念」としていることから、 松陰の「菩提寺」であり、松 陰の「位牌」=「松陰二十一回猛士」をお守りしている 「泉福寺」のことを話すと、 「松陰神社」に加えて、「泉福寺」を「招待」し、 「泉福寺」については、「組曲 吉田松陰」の「資料」も、寄贈するよ うに、進めてみようと、言ってくださいました。 その後、私に、「昭和55年」の「演奏会」の 貴重な=u台本」を、担当された吉田 稔 氏が、 これまた、「舞台全体」が写っている貴重な=u写真」を今回の「演奏会」の「編曲・演 出」をされた田中照通氏が さらに、この「昭和55年」の「演奏会」の「CD」を、「山口芸術短期大学」として 托してくださったので、「泉福寺」に持って行っています。 今回の小規模な声楽と電子オルガンを中心としたアンサンブル、そして60分程度に凝縮した 上演でも、十二分に感動的でしたので、「泉福寺」にあることをここに記しておけば、 松陰を慕われる方、研究される方の参考として、利用されることもあるので はあるまいかと、思っています。 |
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[萩まちあるきマップ 維新の先覚者 吉田松陰ゆかりの地を巡る!] が、更新されたことについて、 [維新の先覚者 吉田松陰 ゆかりの地を訪ねてみよう!!] として 「松陰神社(@ 宝物殿 至誠館 ・ A 松下村塾 ・ B 吉田松陰幽囚の旧宅 ・ C 御本 殿)」 「松浦松洞誕生地」 「吉田稔麿誕生地」 「伊藤博文旧宅・別邸」 「玉木文之進旧宅」 「吉田松陰誕生地・墓所」 「明安寺」 ダケで、補足的な [ここへも行ってみよう!!] においても、 「野山獄跡」 「涙松跡」 「萩博物館」 が「紹介」されているダケでしたが、 [ここへも行ってみよう!!] において、 「写真」のように、(D)泉福寺 が「追加」されました。 失礼ながら、私には、今少し、詳しい記述が欲しかったのですが、この「パンフレット」は、有り難いことでした。 私の「このページ」や、『吉田松陰の「菩提寺」「泉俯膜寺」について』にも、関心を持っていただくきっかけ ともなろうかと思います。 |
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なお、[ 大河ドラマ 花燃ゆ]の放映後には、 幾つも≠フ「紹介」がされるようになっています。 そのうち、 [文と萩物語 大河ドラマ ゆかりの地マップ] 及び 「大河ドラマ 花燃ゆ 幕末男子の育て方。 」 を「紹介」しておきます。 [吉田松陰.com]の 吉田松陰に関する史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしてい ただいたこともあって、 この「ページ」への「アクセス」を、 楫取美和子 | インターネット内の検索結果 | ↑ クリック≠キれば「アクセス」できます。 思いの外、多くしていただいていることも、少しばかり≠ヘ関係があるのかもしれません。 だとすると、うれしいのですが・・・ |
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この2ツの「解説」は、ほぼ%ッじですが、 納骨堂の一番奥には、弟子たちが松陰像とともに 納 骨した 位牌 もある。 とあるのは、疑問です。 まず、「納骨%ー」ではなく、「位牌%ー」のハズですし、 さらに、納骨≠オた「位牌」ではなく、納めた=u位牌} のハズです。 また、既述のように(←クリック=j、当初≠フ「位牌」は、「納骨 堂」ではなく、別の場所に、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。 残念ながら=A月性(←クリック=j のことに触れられていませんが、「大河ド ラマ=花燃ゆ」において、佐久間象山スラも取り上げられていないタメ、やむを得ないと思いますが、 [維新150年] に向けての「資料」等においては、是非、検討してほしいと思います。 |