平成25年4月1日 「Yahoo!ジオシティーズ」で公開=@
平成31年3月31日 「Yahoo!ジオシティーズ」が終了し、「検索」できなくなる。
令和元年8月15日  「ケーブル」で再開することにする。 (「カウント」ぱ引き継ぎます)         
令和4年4月1日  更新  関連した「ページ」楫取素彦 ─吉田松陰・野村望東尼 にゆかり≠フ人─

吉田 松陰 の 「菩提寺」=「泉福寺」 のこと
─ (位牌・墓・「系図」・松陰自賛肖像・月性の叔父=大敬 他) ─



潮 音 山 泉 福 寺 ちょうおんざん せんぷくじ)のこと



         吉田 松陰 の 「位牌」

構      成

ほぼ=w本』一冊分ありますので、「下線部」をクリックして御覧くだ さい。該当箇所にジャンプします。
なお、「文中」においても、 (←クリック) と記している箇所のみならず、「下線のある箇所 」には、「リンク」設定 もしくは、ジャンプ$ン定しています。

(1) 私がこの「ページ」を作る「理由」

(2) 吉田松陰 につい て

(3) 「泉福寺」 について

 ─単に=@ 「菩提寺」であるということに留まらざる「泉福寺」であるということ ─

(その1) 月性「泉福寺」吉田松陰

 (その2) 「泉福寺」の  福間菊麿 は、「蛤御門の変」に率先して加わ り、亡くなった人物 ─

(3) 現在≠「泉福寺」を訪れられる「子孫」の方々

 O「萩市観光課」による「説明看板」&「萩市観光協会」による「ホームページ」

(4) ─ 吉田松陰「直 筆」について ─

(5)  「松下村塾」と「維新 」の代表的人物─松陰・久坂・高杉・木戸・伊藤

(6) 「明治百年」の時の「新聞記事」

(7) 吉田松陰「墓」  及び その「周辺」 について

(8) 「泉福寺」の「本堂」

(9) 「松陰先生関係の写真」&「杉家 の家系図

(10) 「吉田家先祖法名一覧

(11) 吉田松陰「位牌」

(12) 野村望東尼「楫取家」とのこと

(13) 松陰の理 解者であり、かつ、二人≠フ妹の配偶者でもある楫取素彦について

(14) 「吉田松陰自賛肖像」について

(15) 「山口芸術短期大学 演奏会 組曲 吉田松 陰」について

(16) 「吉田松陰の家紋」入りの「萩焼」の「盃」について

(参考) 「紹介」されるようになった「泉福寺」について






私は、かなりな年齢ですので、「無料」で使用させていただける「ホームページ」を幾つか利用させていただき、私に健康上の「問題」が生じても、引き続き「検索」ができると思ってきましたが、 残念なことに、既に、「infoseek」「tok2」の二つが「終了し」、三つ目の「Yahoo!ジオシティーズ」を利用させていただき、この「ページ」を平成25年4月1日にアップしました。 有り難いことに、[吉田松陰.com]の吉田松陰に関する史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしていただき、それもあって、「大河ドラマ 花燃ゆ」放映の際には、予想以上の「アクセス」がありました。
しかし、この「Yahoo!ジオシティーズ」も、2019年3月31日に、終了しました。
また、大きな「写真」が取り込める「Yahoo!ブログ」も、2019年12月15日に、終了しました。(この「ページ」に、幾つも「リンク設定」をしていましたが・・・。)
この「Yahoo!ジオシティーズ」は、膨大な「容量」のアップが可能なタメ、「写真」なども、たくさん取り込んでいました。
そのタメ、この「有料のページ」には、既に、多くの「ホームページ」を作成していますので、「Yahoo!ジオシティーズ」の「写真」をそのまま℃謔闕桙゙ことはできません。

そこで、年齢的なこともあってこの「ページ」を資料とした『自費出版』=『吉田松陰の菩提寺 「泉福寺」について』を用意しました。
というのも、少しばかりは「参考」になることを記しているツモリですので、『本』にしておけば、後世にも、残るからです。
「防府市立図書館」に、「ガリ版刷り」の「資料」が所蔵されていることに気づき、
私の「プリンター」による「手作り」の「印刷見本」を持参し、検討していただいてた結果、「郷土資料」ということで
「山口県立図書館」(2冊)・「防府市立図書館」(1冊)に、受け入れていただきました。
「貸し出し」もできるようですので、機会があれば、ご覧いただければと思います。
「山口県立図書館」に所蔵していただいたことで、「国立国会図書館サーチ」にも「反映」するので、「県外」の方の目にも触れるかも知れません。

その後、思い付いて、「郷土資料」として、「山口大学図書館」において、学生さんにも見ていただけないかと思い、持参して見ていただき、受け入れていただきました。
そのことで、「全国大学図書館の蔵書検索(CiNii)」にも「反映」するので、「研究者」の方々にも、「参考資・史料」にはしていだけるかもしれません。

なお、「手作り」の『吉田松陰の菩提寺 「泉福寺」について』以後、この「ページ」に追加している「新しいこと」があることとて、「業者」による『出版』も、検討しているところです。

そのこともあって、「疑問点」や、教えていただける「情報」がありましたら、、
Εメール ここをクリック して「連絡」を御願いします。






(1)  私がこの「ページ」を作る「理由」




吉田松陰抜き≠フ「日本の歴 史」はありえないワケで、当然、松陰への関心はあ るものの、
多くの研究・著作があり、私如きが云々する余地はないと思っていましたが、義母の「葬儀」に際して、「菩提寺」住職が、近年、空位となって 、「泉福寺」ご住職にお世話になるようになっ ていました。
そこで、「泉福寺」を訪れたワケですが、
お恥ずかしいことながら、「松陰神社」は当然のこと として、松陰関係については、ほぼ、訪れていたつもり でしたが、「泉福寺」「菩提寺」であるという ことは、知りませんでした。
「ネット」で調べても、詳しいものどころか、松陰「菩提寺」について、記しているものは、ほとんどないように思います。
ということは、私のみならず、多くの方も、ご存じないのではないかと思います。

しかも、由緒正しい「寺」であるにもかかわらず、「下」に記している ように、今の地への移転「正保元(1644)年」と、既に、「萩城下」がほぼ 完成していたタメでしょう、通りからの「入口」は、気がつきにくく「本堂」 は立派なのですが、多くの大規模な「寺」と異なり、「通り」から「本 堂」までがゆったりとしていないことと、「石柱」「解説板」が見あたらない タメ、「泉福寺」松陰 「菩提寺」であることを知っておられたとしても「萩」以 外の方、特に、「県外」から訪れようとする方には、わかりにくいのではないかと思いました。
わずかに、「松陰先生(吉田家)菩提寺」と書かれた 薄い「板」が、「本堂」の「入り口」近くにあるにすぎないから です。

このような次第で、松陰「菩提寺」を「紹介」する意味があろうと思います。
(現在≠ヘ、「解説板」がありますし、[吉田松陰.com ]の 吉田松陰に関す る史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしていただいています。)
                                 

それに併せて、
既に、他の「ページ」で紹介していることですが、私の必要に迫られた「研究」[野村望東尼&係わりのある人物]から、楫取素彦及びその妻である松陰 の妹= 寿子についても、述べています。
(野村望東尼は、『 防州日記』において、九月十二日、山口にまだすみける時、小田村子の君がもとにて≠ニしていますが、
楫取能彦氏に 「過去帳」に、寿と教えていただきました。)


「写真」は、野村望東尼「葬儀」の行われた防府「正福寺」入口です。
大規模な「寺」の多くは、「入口」がすぐわかるようになっています。





(2) 吉田松陰について



吉田松陰は、明治維新の精神的指導者・理論者として知られ、「松下村塾」で薫陶を受けた人物によって、「明治維新」・「近代国家」への 道 が築かれたといっても、 過言ではないと思われます。

文政13(1830)年萩城下松本村長州藩士 杉百合之 助次男として生まれる。
幼名虎之助

天保5(1834)年叔父山鹿流兵学師範である吉田大助養子となる。
吉田家に養子入り後、大次郎と改める。
通称寅次郎
矩方(のりかた)。
義卿
松陰の他、二十 一回猛士
松陰は寛政の三奇人の一人で尊皇家の 高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられたという。
「二十一回」については、名字の「杉」の字 を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、
および、「吉田」「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解して、これら を組み合わせると「二十一回」となることによりつけられているという。

なお、松陰意思とはいえ、「浄土 真宗」「法名」としては異例な [松陰二十一回猛士] が認められるにあたっては、「一一世 正倫」 による「本願寺」 への要請がなされたことによるようです。


松陰についての詳しい≠アとは、他の方々の「 研究」・『著作』に拠っていただくことにして、ここでは省略し、
「山口県大島郡出身」作詞家 星野哲郎氏の「吉田松陰」を「紹介」しておきたいと思います。

時と命の 全てを賭けた  吉田松陰 憂国の  夢 草莽に 果つるとも
松の雫は 久坂に宿り  花は桂の 枝に咲く


口で言うより 行なうことが  志士の志士たる 誇りなら  かくごの罪の 踏海忌
下田港の 弁天島の  波も讃える 男意気

何も持たない 若者たちの  無欲無限の 赤心が  日本の明日を 創るのだ
松下村塾 長州魂
  いまも生きてる 萩の町


  



(3) 「泉福寺」について


「写真」は、「 泉福寺」「本寺」的存在安 芸高田市にある「高林坊」です。
明応5年(1496)に福間浄誓により開基 され、浄土真宗本願寺派巨刹です。
寺宝の梵鐘は広島県の重要文化財に指定されているようです。
また、「慶長の庭」とも呼ばれる寺の庭は、安土桃山時代様式を今日に伝える見事な名 園と言われます。

「毛利」萩へ封じられることになった 際、この「高林坊」第四世 西 願三男である玄修が 、「毛利家」にお供してに入り、 開基したのが、「泉福寺」です。
玄修は、既に、沼田郡東原村(現、広島市安 佐南区) 泉福寺 の八世であったのですが、 「毛利」から、先祖が厚い恩をうけていたので、
弟 祐尊にまかせ、
へお供して来て、橋本に寺地を拝領して創建し、泉福寺 と号したといいます。





宗 派   浄土真宗本願寺派
所在地  〒758-0022 萩市浜崎町一区
沿 革  開基 は、玄修
広島県甲田町(現 安芸高田市)にあった 「高林坊」 第四世 西願 の「福間政重」の三男で、俗名 「藤左衛門」。                      

毛利輝元は、慶長九年(1604)に、 築城を開始し、慶長十三年(1608)完成
それを受けて、玄修
は、三男であったことで、 輝元秀就に従って、に入り、
慶長十八(1613)年毛利家から橋本町に寺地を拝領して「 泉福寺」開基。                       
しかし、何度も水害に見舞われたので、願い出て「正保元(1644)年」今の地へ移転したとい います。

この「正保元(1644)年」は、30年余を経過し、「萩城下」がほぼ完成 していたハズで、
そのうえ、この「浜崎」は、城下町の形成にともなって開かれた港町で、「御舟倉」があり、
北前船の寄港地として廻船業と水産業で栄えた地域で、江戸時代以来の街路、敷地割がよく残り 、南北を走る本町筋を中心に江戸時代から昭和初期に建てられた町家が数多く残っているとして、
平成13年11月に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されているところです。

そのタメ、由緒ある「寺」にしては、「通り」に面した「入り口」は、驚くほど、 つつましやか≠ナ、通りからは、わかりにくいのですが、「本堂」は立派な建物です。
但し、その「本堂」は、「浜崎」移転当時のものではなく、建て替わっているようです が、規模ほとんど違いはないと思われます。


歴代住職      (代々福間姓)
 開基 玄修(延宝 三年没)/ 第二世恵隆(元禄十五年没)/ 第三世春応(正徳元年没)
/ 第四世了玄(延享元年没)/ 第五世碩瑞(宝暦十四年没)/ 第六世碩門(明和三年没)/ 第七世 智孝(天明六年没)
/ 第八世順応(文政五年没)/ 第九世正超(天保二年没)/ 第一〇世 大敬(弘化四年没)
/ 第一一世正倫(万延元年没)/ 第一二世 正順(明治三十五年没)/ 第一三世信順(昭和三十三年没 )
/ 第一四世武雄(平成四年没)/第一五世公昭
   
               


「泉福寺」住職正倫は、
松陰「刑死」し、「百日目」 万延元(1860)年2月7日に、萩の地に、松陰遺髪を埋葬して「墓」が作られると、
足繁くお参りすることの難しい吉田家・杉家に代わ って、「墓」の清掃・お供え等を福間の家族ぐるみで、日々、されていたとのことです。
正倫は、松陰の亡くなった翌年に没していますが、正順の代にも引きつがれたとのことです。
 「墓」「寺」とは、かなりの「距離」があり、江戸末期〜明治初期のことと て、おそらく、徒歩だったと思われますが、決して近距離≠ニは言えません。)
松陰の墓の側に、養母吉田久満があり、その側の「解説」が「左」の「写 真」です。
松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。
とあり、上に記した「福間家」の方々が「墓」を見 られていたということと、一見、「矛盾」するようですが、
夫の没後は実家森田家に寄寓。≠ニあり、その「森田家」は、旧「黒川村」の庄屋を勤めた家柄であり、この住宅は毛利藩主の鷹狩の際 などには休息所にあてられたといわれ、上層農家として、現在「国指定重要文化財」に 指定されていることとて、知っている方も少なくないと思われますが、
「墓」との距離は、東萩駅から防長交通バス津和野行きで22分(複数の情報で一致)といわ れ、駕籠を利用したとしても、当時としては、決して、行き来しやすいものではないのです 。
松陰も、何度も訪れていたと言いますし、健脚 ぞろいのかつての日本人のこととて、
久満は、長い道のりをもいとわず、亡くなるまで、 しばしば「墓参」に訪れていたと解すればよいと思われ、
「福間家」の方々が、松陰の「墓」を守っていたと いうことと両立すると思います。
なお、久満は、明治5年に亡くなっています 。
(大助は、「下」に 記しているように、天保六年(一八三五)没。行年二十九才で、松 陰は、まだ、六歳でした。
松陰の亡くなったのは、周知のように、安政六年 (一八五九年)、享年30(満29歳)ですから、久満松陰との結びつき強かっ たのも当然と言えそうです。)


その後、「松陰の墓を守る会」といったものができ、さらには、「萩市」が係わるよう になって、
(「吉田松陰の墓ならびに墓所」として、「昭和47年2月9日 」、「市指定文化財(史跡)」になっています)
今日は、係わっておられないとのことでしたが、
「泉福寺」は、次に記すように
@ 松陰勤皇僧 月性 「出会いの場」でもあったし、
A その月性とは、親族
ということもあって、
正倫正順は、「安政6(1859)年10月27日」に斬刑に処された松陰「墓」福間家 で、世話をされていたといったことは、記憶しておきたいことです。





単に=@「菩提寺」であるということに留まらざる「泉福寺 」であるということ 

─ (その1)  「明治維新」において、 松陰劣らぬ役割を果たした
月性という傑物を間接的≠ネがらも、「結びつけた¥黶vと考えられる こと ─



有名な「将東遊題壁」が併せて記されている 月性  の絵を
財団法人 僧月性顕彰会」からお借りして示しています。
「月性展示館」には、松陰 からの「書簡」もあります。






● 月性生誕地&妙円寺・「 月性展示館」場所について、

現在≠ヘ、「柳井市遠崎」で問題ないのですが 、多くの資料には、以前の「周防国大島郡遠崎村」併記されているハズです。
平成の広域合併で、「柳井市」も広くな っていますので、この「大島郡」目安にされそ うですので、ここで、「注記」しておきます。

藩政時代柳井大畠岩国領に属していましたが、
毛利氏遠崎及び、大島郡のおもな区域「大島宰判」としていました。
そのため、「周防大島」(「屋代島」)ではないのに、大島郡 遠崎は含まれました。
しかし、大畠瀬戸を隔てていることで、行政上の支障が少なくないため、明治9年11 月玖珂郡に編入されたのです。
「神代村」「鳴門村」「大畠町」といったようになり、
平成17年2月21日柳井市となったワケ です。

月性生誕地&妙円寺・「月性展示館」 を訪ねられる時は、「山陽本線」「柳井港駅」目安にされ、周辺の「地理」を確認され るとよいと思います。

なお、平成30(2018)年は、「維新150年」ですし、その前年の平成29(2017)年は、月性 生誕  200年です。
訪ねてみられる方も少なくないのではないでしょうか。






「右」の「系図」は、「財団法人僧月性顕彰会」の「僧月性略伝」を、 スキャナ≠オたものですが、
泉福寺第十代住職の大敬(だいきょう)は柳井の 勤王僧 月性(1817年11月6日〜1858年6月21日) の 叔父 にあたります。
(「印刷文字」が薄いタメ、わかりにくいかと思いますが、中央≠ノ 大敬(萩泉福寺住職)とあるのを確認ください。)

そのこともあって、月性は、ここ泉福寺で、
吉田松陰(1830年8月4日〜1859年 10月27日)、
高杉晋作(1839年9月27日〜1867 年5月17日)らと出会い、少なからぬ影響を与えたようです。
この「僧月性略伝」によりますと、
月性は 文化14年 (1817年)9月27日 山口県玖珂郡大畠町遠崎の  妙円寺 に生まれた。
大敬泰成が、それぞれ泉福寺光山寺住職となっていたので、月性は早くから萩に出て諸名士と交際する機会を得た。
とくに吉田松陰の兄梅太郎(注  1828〜1910 一般的には民治と言われます) と交わり、周布政之助や北條瀬兵衛らと 早くから相知りえたのは、この叔父たちの紹介であった。
月性優れた詩人としても多くの傑作をの こした。
その著「清狂吟稿」は、今萩の松陰神社に所 蔵、三巻二冊より成・・・・・安政2年正月に吉田松陰の兄梅太郎 を通じて月性松陰におくったもので、松陰は 月性護国論吟稿松下 村塾において、これを出版して天下の同士に寄示するよう 「留魂録」に書き遺した果たされなかった。
月性はこのように文に詩に多くの業績を遺したが 、月性の真面目は 尊皇攘夷の徹底した持論を特異の弁舌を以て、大衆に向かって 宣揚したその実践活動にある。
当時の封建社会に於て、これが出来るのは独り僧侶のみであった。
僧侶は仏の道を説く者として、殆んど権力の外におかれた。月性は勿論安心立命の道も説いたであろうそれ以 上に時局を論じ特に海防の急を説いた。
当時長州藩の重臣村田清風、藩老の益田弾正福原越後浦靱負などは月 性の海防護国の主張に共鳴して、しばしば自分の領内に講説せしめた。
後には 藩命により防長二州の全域にわたった。
萩清光寺の講演の折には 松陰は村塾の授業を休んで塾生を聴講させている。
その論旨は 時に幕政の非議に及び、しばしば幕吏に狙われた事もあった。
このことは、安政3年6月、松陰の月性宛書簡中に「上人虎口を免れたりと て世上大評判なり云々」とあるによってもわかる。
また 婦女子に対しては服装の華美を戒め、外夷を一歩も神州の地に近づけないため武芸をたしなむこ とを諭した。
後に四国連合艦隊が馬関に来襲したとき、萩の婦人が女台場を築いて長州婦人の意気を示したこ とも決して偶然ではなかった。
要するに我が国社会組織の中に厳として打破ることの出来ない士農工商と言う 階級意識を 対外危機感をかためることによって、大きく変えてゆく契機を造ったことは、やがて四境の戦 から戊辰の役まで藩をあげて一丸となって進んだ長州藩の原動力としての役割を果たしたものと言えよう。

とあります。

「考古学者・文学者」である小川五郎氏のご子息で、「山口県農業協同組合」→「衆議院議員」であった小川 信氏は、
私の父=英男がわずかぱかり♀ヨ係している「土井ヶ浜遺跡」の「参考」として、私に、多くの「資料」を 、送って下さっています。
その中に、直接は関係ないものの、
私の亡き父(=五郎氏)が、歌人としての久坂玄瑞に心酔していたことを思い出し、拙文を寄稿させ てもらいましたので、ご一読いただければ幸いです
という「手紙」とともに、送って下さった、「自費出版」による、貴重≠ネ岡崎兵衛氏著 『維新の礎士 久坂玄機  玄瑞兄弟』という「書籍」があります。
著者は、岡崎氏ですから、氏の手元には、数少ないハズなのですが、送ってくださったのです。
「自費出版」については、「購入」はお ろか、「寄贈」でサエ、受納しようとしない「図書館」が少なくないのですが、この『維新の礎 士 久坂玄機 玄瑞兄弟』には、参考になることが少なくありません。
この「著書」は、「山口県外」の「図書館」には、まったくなく、わずかに「山口県立図書館」「萩市立図書館」 にあるに過ぎないようです。
この中には、久坂玄瑞の曾孫恵一氏の「七言絶句」もあり、356&ナからなる「 大冊」です。
玄瑞・文の間には、 子供はありません。
その「漢詩」=「遺懐」は、
  曾 祖 声 名 鳴 四 海  赫 然 遺 業 任 人 評  何 期 宿  志 継 承 願  毀 賑 家 門 寄 此 生
です。

なお、この『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』によると、久坂玄 瑞(1840年5月〜1864年7月19日)が 松陰と知り合ったのは、
鎮西に遊び宮部鼎蔵を訪れた際、宮部松陰賞賛=E欽慕すること、一通りならず≠ニいうことで、
松陰「手紙」を送ったことがきっかけ ということのようです。 )


僧月性略伝」と重複≠キる箇所もありますが、松陰に関することを、ごく一部=A紹介しておきます。
松陰も、月性『(佛法)護国 論』に影響されたところが少なくない。
松陰は、その遺著『留魂録』 に、月性『護国論』『月性吟稿』を天下の同志にわかちたい、と書いている。

月性は、母の手で育てられたが、叔父 大敬泰成が 、それぞれ萩の寺の住職だったので、早くからに出ていた。
月性は、安政五年(1858年)五月十日(太陽暦で六 月十九日) 自坊・「妙円寺」で病死した。四十二歳であ った。     (以上89&ナ)
(月性が亡くなったのは、)で、松陰 を支援して僅か二ヵ月余り後である。    (143&ナ)


この『維新の礎士 久坂玄機 玄瑞兄弟』によりますと、
松陰養父吉田大助 は、松陰百合之助であり、
性剛直にして大志あり 深く経史を講究し 多く文章を作為す 
常に幕府の専横を怒り 王覇弁一扁を作りて 極論するところあり

と記録に残されている人物とのことですが、二九歳で病没したため、松 陰は、六歳「兵法師範」の家を継承することになり、
いかに松陰であったとしても、幼少であるこ ととて、実質「吉田家」「法要」 には、「杉家」深く関わったのみならず、
松陰が取り仕切るようになっても、当然=A「吉田家」の「法要」には、「杉家」 も、深く関わったダケでなく、松陰の後を継いだ小太郎も、兄=杉 民治次男ということで、「 吉田家」は無論のこと、「杉家」も、「泉福寺」とは、深いつながり があったということです。









「泉福 寺」の「本堂」の一角

     「左」から
・ 「吉田家先祖法名一覧」 (クリック)
・ 「山口県文書館」の「ポスター」 (クリック)
・ 「僧月性顕彰会」の「ポスター」
・ 「松下村塾」の「ポスター」 (クリック)
・ 「杉家」・「吉田家」・「楫取家」の「系図」 (クリック)





単に=@「菩提寺」であるということに留まらざる「泉福寺」であるということ 

─ (その2)  「泉福寺」の 福間菊麿 は、「蛤御門の変」に率先して加わ り、亡くなった人物 ─




「泉福寺」正倫次男=菊麿は、18歳金剛隊僧侶や山伏で編成された隊。隊長=長蔵寺今雄 、兵数約80人)に参加、
蛤御門の変」の戦闘で奮戦し、被捕・獄死しています。

福間光子氏(武雄 氏の「長女」)は、
菊麿のことについては、おじいちゃんからなんど も聞かされた。」
お前はまだ行かんでええと親からは言われたが、今行かなくて、いつ行くのか。
と、振り切って参加したのだということです。
率先して国のため長州のために手本にならなければという思いが強かった人だ」
と、祖父(=信順)は誇りにして語っていたといいます。



「写真」は、「京都東山霊山」にある菊麿(法名=「釋恵定」)の「墓」です。

「右後」は、吉田稔麿の「墓」です。
なお、近くに、高杉久坂の「墓」もあります。




要するに、「泉福寺」は、単に松陰「菩提寺」というダケの係わりではなく、 「維新」深いかかわりがあるということです。




「泉福寺」は、「吉田家」「菩提寺」であって 、 「杉家」「楫取家」「菩提寺」ではありませんが、
「吉田家」の方が東京からお出でになるだけ でなく、
松陰の没後、百六十余年を経過していますが 、
現在もなお、
「杉家」「楫取家」 の方々も、
東京 (「楫取家」)、
「神奈川」 (「杉家」)から、
萩の地にお出でになり
「泉福寺」及び「墓」にお参りされているよ うです。

ここ2・3年の「写真」を見せていただいた中に、
吉田基子氏、
楫取能彦(よしひこ)氏が、
「泉福寺」にお出でになっている「写真」がありまし た。
「左」は、平成24年に、「泉福寺」を訪れられた時の楫取能彦 氏と福間光子氏が写っておら れる「写真」です。

福間光子氏は、 「坊守」(「浄土真宗」では「住職の妻のこと」)です。





「萩市観光課」の 萩まちあるきマップ 維 新の先覚者 吉田松陰ゆかりの地を巡る!
は、無料で手にできますが、
残念≠ネがら、以前は、
「コース」としてあるのは、
@「至誠館」→A「松下村塾」→B「吉田松陰幽囚の旧宅」→C「松陰神社」
→D「松浦松洞誕生地」→E「吉田稔麿誕生地」→F「伊藤博文旧宅・別邸」→G「玉木文之進旧宅」
→H「吉田松陰誕生地・墓所」→I「明安寺」
ダケでしたが、
観光≠フ対象ではないとはいえ、ゆかりの地ということでしたら、「泉福寺」は、「吉田家」の「菩提寺 」であり、 松陰がまだ、幼少の時から「吉 田家」の「当主」として係わっていたのであり、この「泉 福寺」は、月性、志士達など、「維新」に関わる人物との邂逅≠フ「場」となっていたのですから、当然¥ミ介すべきだと、私は思いましたし、
それに、なによりも、松陰「位牌」もあるのですから、 ここにある「他の箇所」に比しても、遜色はないハズだとして、「萩市観光課」に、提言していたのですが、 「令和2年10月」に、「泉福寺」が追加されました。




   








以前≠ヘ、「写真」のように、「泉福寺」用意された薄い「板」に書かれた 吉田松陰の「菩提寺」  を示すものしかありませんでした。

「解説板」「石柱」設置済みの 他とのバラ ンス(あまり知られていない人物についても、その「生誕地」・「居 住地」「石柱」・「解説板」が、数多く設置されています)からしても、
「石柱」・「解説板」といったものを「設置」してはどうですかということを「萩市 文化財保護課」提案しました。
林 百非の場合は、「生誕地」≠フ誤解があってのことのようですが、
楫取素彦の場合は、山田顕義の「顕義園」 の近くに
「楫取素彦の旧宅地」なるものがあり、
この地は、時期は明らかではないが、素彦が住まいした旧宅地といわれている
といった程度の「史跡」であり、
しかも、単に、「空き地」といった程度のものですが、そこには、「石柱」のみならず 、2≠ツの「解説板」まであるのです。
「写真」は、その「一つ」ですが、今ひとつの小さい&の「解説板」が、「 泉福寺」に設置されたのと、ほぼ同じ形態です。

なお、「顕義園」は、「松下村塾」の「門下生」であり、
松陰から 「与山田生」  として、 「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」
立志の目標が書かれた扇面を与えられており、
高杉晋作からも厚い信頼を得ていた人物で、
「明治維新」を成し遂げた「立役者」の一人といって も過言ではないと思われる人物
顕義が、「日本大学」の「 創設者」であるとして、、「日本大学」によって、設置されたものです。


「吉田松陰の菩提寺」という「解説板」は、 結局、「観光課」谷野芳之 氏が「窓口」となって、「対応」してくださり、小さめ≠ナすが、 「入り口」の「右」に、「説明看板」が設置されまし た。
なお、「左」の「写真」のように、縦長の「白い」松陰先生(吉田家)菩 提寺と書かれた「白板」は、現在もあります。


泉 福 寺   (吉田松陰(吉田家)の菩提寺)

泉福寺は幕末に松下村塾で多くの志士達を育て た吉田松陰(吉田家)の菩提寺です。
泉福寺は、安芸国高田郡甲立村(現、広島県安芸高田市甲田町)にあった高林坊第4世西願の3 男 玄修が、安芸国沼田郡東原村(現、広島市安佐南区 )泉福寺の8世となったことがはじまりです。
毛利輝元が居城を萩へ移した時、玄修は自分の先祖が厚い恩をうけていたので、1841年(寛 永18年)萩に入りました。
毛利家より橋本町に寺地を拝領し「泉福寺」を創建しましたが、度重なる水害により 願い出て現在の場所に移転しました。
吉田松陰の遺言のとおり、「松陰二十一回猛士」と刻まれた位牌が安置されています。
※ 見学をされる際には、お寺の方へお声をかけてください。





なお、「観光」の「対象」ではありませんが、「萩市観 光協会公式サイト」「浜崎」「寺社・仏閣」に、「泉福寺 」が、「吉田松陰」「菩提寺」であることを、
江川麻美氏によって、追加していただきまし た。      ( ◎ ここをクリック≠キ る と「アクセス」できます。)
                       (平成25年5月13 日 確認)
この「観光協会」「ページ」には、
松陰先生直筆の書などが所蔵されており、毎年 5月に開催される「浜崎伝建おたから博物館」で年に1回公開されます。
                    【平成25年は、5月19日(日) 9:00〜16:00に開催さ れます
という「情報」も記されています。
なお、この「ホームページ」には、「地図」が付けられており、しかも、「マウス」に よって、動かして見ることも可能ですので、市外からお出でになる場合は、私の「泉福寺」への 「経路」と併せて、御覧になると、便利かと思います。









(4) 吉田松陰 の「直筆」






吉田松陰から三代後の吉田家当主吉田庫三氏の 茂子が、
「山口県」に、 吉田松陰像「文書類」寄贈され るに先だって、
「泉福寺」に、松陰の直筆 幾つかは「寄贈」しましょうと言われた際、
研究管理のタメには、「山口県」が管理するのが適当と考え、
「菩提寺」として「位牌」とともに保存 するのに適当なもので、
かつ、管理可能なものをとして、
いただいた松陰の「直筆」であるとのことです。
(吉田倉三茂子両氏の「写真」は、ここをクリック してください。)


「写真」は、
吉田松陰研究の方々が、 松陰直筆を御覧になっているところです。
「後ろ姿」ですので、お借りした「写真」をスキャナ≠ナ取り込んでアップしました。
(この「写真」でも、ごく、親しい方にはどなたかがわかると思います。
もし、不都合でしたら、ここをクリックすると、「Eメール」設 定した箇所にジャンプ≠オますので、そこからご指示ください。)

残念ながら、私は、実物を見ていません。

「観光協会」「ホームページ」に 
松陰先生直筆の書などが所蔵されており、毎年5月に開催される「浜崎伝建 おたから博物館」で年に1回公開されます。
とありますので、私も、出掛けてみようと思っていますが、皆さんも、直接実物 を鑑賞されることをお勧めします。



「泉福寺」にある「松陰の直筆」についての 山田 稔氏 による「解説」

この「泉福寺」にある「松陰の直筆」についての「解説」を、「急がないならば」ということで、山田 稔氏にお願いしていましたが、、お忙しい中、「一年余」を経て、次に示すような「情報」をお寄せくださいました。
次の「下線部」をクリック≠オてご覧ください。

「松陰の菩提寺」にある「松陰の直筆」のこと

約束を忘れられることなく、「一年余」という「歳月」、山田氏に「負担」をかけたことを、申し訳なく思いますが、「後世」にも、伝わって欲しいと思っています。

この山田 稔氏 による「解説」は、令和5年春に予定している『楫取素彦・野村望東尼 付 吉田松陰の「菩提寺」について』に取り込むつもりです。






(5) 「松下村塾」と「維新」の代表的 人物─木戸孝允(桂小五郎)・高杉晋作・吉田松陰・ 久坂玄瑞・伊藤博文







「松陰神社」にあ る 「松下村塾」 を背景に、
維新の代表的な5$lを配した「ポスター」です。
「萩駅の待合室」にありました。              (平成25年5月17日)

史跡と維新のまちとあるように、「萩市」には、維新関係の史跡が数多くあります。
なかでも、この「松下村塾」は代表的なものです。

読みにくいかと思いますので、「文字」の部分を「紹介」しておきます。
なお、「松下村塾」の中の「左端」にわずかに見える 「肖像写真」は山田顕義>のハズです。


日本を動かした私塾は、私のこころも動かしました。

萩藩の城下町として260年にわたり栄えたこの町には、
武家屋敷や土塀など当時の町並みがそのまま残っています。
幕末には吉田松陰のもとここ松下村塾で、
高杉晋作伊藤博文 ら数多の維新の志士が育まれ、
新しい時代へと進む原動力となりました。


「松陰神社」は、

松陰実家「 杉家」の地松陰「誕生 地」ではなく、嘉永元(18488)年、一家松本村清水口=現在の松陰神社境内に転居 。)を中心に創建されたものといわれ、

「松陰神社本社」のほか、
この「写真」にある「国指定史跡」「松下村塾」
同じく 「国指定史跡」 の「吉田松陰幽囚ノ旧宅」
「山口県指定有形文化財」「花月楼」のほか、
石碑に、
・「親思ふ・・・」
・「明治維新胎動之地」
・「薩長土連合密議之處」
・「明治九年萩の變七烈士殉難之地」
があり、
さらには、「歴史館」・「至誠館」
といった「施設」などがあります。


萩の「松陰神社」の「ホームページ」

松陰神社≠ナ検索すると、
 「松陰神社 山口県萩市鎮座 吉田松陰先生と松下村塾
  という「ホームページ」が出てきます。
  詳しくは、その「ホームページ」を御覧下さい。




   


(6) 「明治百年」の「新聞記事」より






父=英男「明治百年」〈昭和43(1968)年10月〉という 『スクラップ帳』から抜き出してみました。
「右」の記事には、当然のこととして、松陰「松陰神社」が取り上げられ、 松陰「像」「松陰神社」の中にある「松下村 塾」写真があることがわかると思います。
しかし、残念ながら=A父の膨大な=u切り抜き」の中に、「泉福 寺」を記した「記事」は、見あたりません
「毎日新聞」(昭和44年1月17日)を始め、 「NHKテレビ」にも取り上げられた整理のこととて、「切り抜き」にないということ は、なかったということだと思います。
間近に迫った「維新150年・明治150年」(厳 密≠ノは1年違います)の時には、「泉福寺」  取り上げられ、松陰 「位牌」を拝む人が多いことを期待しています。
「松陰神社」重要性はいうまでもありません が、松陰は、亡くなる時、「神」になること を予測してはいなかったと、私は思いますので、「菩提寺」  忘れてはなるまいと思うのですが、いかがで しょうか。

松陰「150回忌 」である「平成21(2009)年10月」の時には、は「昭 和62年6月」に亡くなっているタメ、「松陰神社」を中 心に、各種の「企画」がなされたことは知っていますが、と違い、複数の「新聞」を買い求め るということはしていませんので、「150回忌」 の時の様子は、わかりません。)

「東京」の「松陰神社」の「ホームページ」の鎮座の由来に、
明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、(註 小 塚原回向院から移された、松陰遺骸が眠る 「墓」のことです)を築いて先生の御霊 を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。
とあり、
「萩」の「松陰神社」の「ホームページ」の御由緒という箇所に、
松陰神社の御祭神、吉田矩方命(以下松陰先生)が殉節されてから31年後明治23年 (1890)8月松下村塾出身者などの手により松下村塾の改修が行われました。
このとき松陰先生のご実家、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造り のほこらが建立されました。
これが松陰神社の前身であります。
とあって、松陰意思とは関わりないように なっていますが、
「ウィキペディア」の「松陰神社」には、「萩」の「松陰神社」の説明の中に、
明治23年(1890年)、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄= 杉 民治が土蔵造りの小祠を建て、松 陰の遺言により愛用していた赤間硯と松陰の書簡とを神体として祀ったのが当社の創建である≠ニあります。
この「ウィキペディア」によると、松陰自身「神」として 祀られることを望んでいたようになりますが、私は「疑問」に思っています。

「神」として祀られている方々は、私の知るダケでも松 陰に限らず、相当数の方々がありますが、その多くは、「 明治」以降のことのハズです。
幕末維新期の方々
毛利敬親元徳(山口市・「野田神社」)・木戸孝允( 山口市)・大村益次郎(山口市)

西郷隆盛大久保利通 坂本龍馬平野国臣

さらには、「明治期」の「軍人」である
乃木希典(東京都港区 ・下関市他)・児玉源太郎(周南市・藤沢市)

といった方々が祀られておられます。



   

(7) 吉田松陰「墓」及 び その「周辺」

─ 平成25年5月17日、再訪し、以前の「写真」と取り替えました。─


吉田松陰の「墓」のこと

 「墓」は、4箇所にあるようです。

@ 斬首された松陰の遺骸を弟子たちが取り戻 し葬った小塚原回向院の「墓」
墓碑銘 「松陰二十一回猛士墓」

A 文久3年、高杉晋作らの手により小塚原回向院から、毛利家の別邸があった太夫山、現在の東京世田 谷に改葬され、遺骸が眠る東京の「松陰神社」内にある「墓」   墓碑銘 「吉田寅次郎藤原矩方墓」

B 山口県萩市松陰誕生の地に隣接した「墓」   墓碑銘 「松陰二十一回猛士墓」
           万延元年(1860)2月7日、は松陰の没後百ヵ日に当たり、生家の杉家では 百ヵ忌を営み
遺髪を埋めて造られたものという。  (「写真 」はこの「萩市」の「墓」です)


C 山口県下関市にある「桜山神社」の「招魂墓」  墓碑銘 「松陰吉田先生神霊」
 (次は、「解説板」より引用)

元治元年(一八六四)一月、高杉晋作 の発議によって創建された招魂場で、慶応元年(一八六五)八月には社殿 も造営され、招魂社としてはわが国最初のものといわれている。
創建当初は、文久三年(一八六三)五月十日に始まる下関攘夷戦において戦死した奇兵隊士の霊を弔う ものであったが、後、小倉戦争(四境戦争)や北越戦争(戊辰の役)で戦死した者、さらには長州の尊王討 幕運動に輝かしい名をとどめる吉田松陰高杉晋作久 坂玄瑞山縣有朋らの霊も加 え、今日では三百九十六柱の志士がここに祀られている。
この招魂場のもつ尊い 意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られている ことで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を超え た新しい時代への理念を伝え、胸を打つものがある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









「左」から
吉田庫三=吉田家第十一代(松陰の甥にあたる)  鳥取県第一中学校長(現在の県立鳥取西高校) 神奈川県第二中学校初代校長(現在の県立小田原高校)  
神奈川県立第四中学校初代校長(現在の県立横須賀高校)を務める。 著書に「松陰先生遺著」等あり 。大正十一年(一九二二)没 行年五十六才 
吉田松陰
吉田大助=吉田家第七代で松陰の義父。松陰実 父の杉百合之助の弟。天保六年(一八三五)没。行年二十九才
吉田久満=吉田大助の妻。松陰の養母 夫の没 後は実家森田家に寄寓。松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。明治五年(一八七二)没  行年五十九才
「墓」です。(  ≠ヘ、「墓」のそばにある「解説」の文字。)
なお、「上」に見える「墓」は、高杉晋作の「墓」 です。
久坂玄瑞の「墓」は、「右」方向の、やや離れた場 所にあります。




「松陰誕生地」(「萩市指定文化財(史跡)」〈 平成13年12月21日指定〉)
からの眺望
「中央」の「山」が指月山です。

   





(8) 「泉福寺」の「本堂」






(9) 「松陰先生関係の写真」&「 杉家 の家系図」  ─ 「泉福寺」の「本堂」 ─






上の「写真」は、本堂の「右側」にある、
   @ 松陰「画像」中央に して、明治以降に撮影された松陰の血縁者「写真」
↑ (「系図」の中の、赤い○の数字と一致し ています。)
と、   
   A 「杉家」の家系図
です。

この「写真」に写っていただいているのは、「泉福寺」の 福間 真 氏(公昭・光子夫妻の長男)です。

この「系図写真」において、
まず、松陰である
杉百合助常道母= 滝子 )が記され、
その「左」に、
松陰叔父であると共に義父となる 吉田七代=吉田大助賢良義母= 久満子
続いて、やはり叔父であり「松下村塾」の創立者 である 玉木文之進

二段目に、
長男=民治修道
その「左」に、

吉田八代
吉田寅次郎松陰
安政6・30


続いて、
児玉千代(芳子)
楫取寿子

この方までは、「写真」に写っていますが、続いて、
久坂文子、後に、楫取美和子
敏三郎
とあります。

「NHK」の「大河ドラマ」=「花 燃ゆ」「 ヒロイン」といわれるのは、
楫取美和子ですので、
ここに記されている方々も、「大河ドラマ」に登場することと思われます。


「中央」の「柱」[松陰先生の画像]として、小さめ≠フ「松陰の絵」があります 。
しかし、現在、この「系図」の「左横」には、「山口県文書館」 「吉田松陰自賛肖像展」「ポスター」が、
「文書館」から、送っていただいたそうで、
「系図」の「左」に併せて、「ケース」に入れて、飾られています。
この「ポスター」の松陰は、「山口県文書館」に、吉田茂子氏から寄贈された「自賛 肖像」からのものですが、
「自賛肖像」[松陰像]よりも、はるかに拡大されています。

松陰以外の「写真」の方は、「右」から、
・@ 杉 民治(松陰の兄。)
・A 児玉千代松陰の一番目の妹・倉三の 母。)
・B 楫取美和子松陰の3番目の妹久坂玄瑞で「久坂 文」。
   後、楫取素彦の妻であった「松陰の2番目 の妹寿子」が亡くなったタメ、素彦の後妻 となる。
   しばらく前から、美和≠ニいう名を用いていたらしいが、素彦の妻となって、正式に、楫取美 和子と名を代える。
       (残念ながら、ここには、楫取寿子  の「写真」がありませんが、『男爵楫取素彦の生涯』や「ネット」には、同じ「写真」が載せられています 。)
・C 玉木豊子(杉 民治の長女)
・D 杉 たき子(杉 民治の次女)
・E 吉田倉三(児玉千代の次男。
   松陰の墓の側に、倉三、茂子夫妻の「墓」があり、
   倉三には「説明」板(←「下線部」をクリック)が 設けられている。
・F 吉田茂子(吉田倉三の妻。倉三亡き後、松陰の「自賛肖像」・「文書類」を「山口県」に寄贈 )



「左」が楫取美和子 で、「右」が楫取素彦です。 この「写真」も、「泉福寺」にあります。

なお、  楫取素彦(かとりもとひこ) ─ 吉田松陰・野 村望東尼にゆかり≠フ人 ─ には、
より詳しく、楫取素彦楫 取美和子( 杉 文 )について、記していますので、
できましたら、クリック≠オてみてください。





あたらしい=u系図」になりました








(10) 「吉田家先祖法名一覧」



「泉福寺過去帳」よりとして、
元禄六年四月から記されています。

「写真」は、「右」から、
書き出しの部分
松陰=松陰二十一回猛士  八代 (安政六年己未 十月二十七日) を中心にした箇所
終わりの部分です。









「写真」の右下に 2012/05/20  とあるように、「平成24年」「浜崎伝建おたから博物館」 の日に、
多くの方が訪れられることを予測して、
「史都萩を愛する会」会長で、「萩市のホームページ」において、
吉田松陰研究の第一人者で、吉田松陰先生の志を世に伝えることに情熱を注がれていますと 紹介されている
松田輝夫氏が「泉福寺」 に待機しておられ、
「杉・吉田・楫取の系図」
「吉田家先祖法名一覧」〈頭上 に「横長」にある「表」〉
を利用して、わかりやすく「説明・解説」しておられるところです。

(「写真」には多くの方が写っておられ、どなたかもわかりませんの で、カット≠オ、了解をいただけた松田氏のみにして います。)


松田氏は、多くの「論文発表」
編著書として『吉田松陰と塾生 松陰の塾生についての記録集』 (「松陰神社」刊) があり、
各地の「講演」「松陰関係」の史跡の案内等を精力的にされている方です。






  




(11) 吉田松陰の「位牌」













ここには、「仏」としての「松陰」を強調するタメ、当初≠フ「位牌」の「写真」を載せていたのですが、
ありがたいことに、ほぼ、目的は達せられたと思われますので、「ケーブル」再開するにあたって、
松陰「位牌」に、お参りをしたいという方々のタメに、新しく作られた「位牌」のみを、示すに留めます。
さいわいなことに、これまでは、「このページ」から、「写真」を取り込み、変な形で使用されたということは、ないようです。
私の『自費出版』の中には、当初≠フ「位牌」の「写真」を載せます。
『本』における「位牌」の「写真」なら、今後も、変な使用はされないと思うからです。

なお、当初≠フ「位牌」は、大事に「安置」され、毎日、お経が あげられています。


   







(12) 野村望東尼「楫取家」とのこと


松陰望東 尼とは、直接的な=u関係」はありませんが、
松陰の「門下生」=高杉晋作「平尾山荘」 に匿い、そのことで、「明治維新」の成就に深く関わっており、
松陰2番目の妹 寿子は、楫取素彦(小田村素太郎)「妻」として、晋作の死後、 野村望東尼親身になって世話をした人物で、
望東尼『防州日記』 にも、

霜月朔日、楫取氏細君へ、
    わが為に遠き山坂こえてこそ心おもへば涙のみして

同二日、御同人山口へかへらるる暇乞に参られし時、
   露ばかり思ひおく事なかりけりついのきわまで君を見しかば


と、感謝の言葉が記されています。

なお、寿子は、明治14年に43歳でなくなっ ており、後妻に、久坂玄瑞で、久坂の死により、22歳の時から未亡人になっていた松陰4番目の妹文(美和子) がなっています。
この二人の結婚は、松陰 寿子らの勧めであったといわれており、それほど、 楫取は、「杉家」からの信頼があったということでしょう。
楫取素彦も、「維新戦争」時 には、「長州軍総大将」右田毛利家 毛利内匠 (藤内)のもとで、参謀として活躍、維新後も、「群馬県令」など、大きな実績をあげた人物であること とて、
杉 文は、「久坂 文 」→「楫取美和子」として、 「歴史」に残る人物のであったということになります。

既述しているように、松陰養父吉田大助は、松陰の父杉 百合之助の弟であり、 吉田大助の代から、「吉田家」 「法事・法要」に、「杉家」は、参列していますので、
当然、[杉 寿子→楫取寿子]、[杉 文→久坂 文→楫取美和子]は、「 泉福寺」を何度となく、訪れていることとて、
この「泉福寺」の「ページ」において、少しばかり、 述べておきます。
なお、[松島伊之助→小田村伊之助→文助→素太郎→楫取素彦]も、何時の時代からかは、はっきりしませんが、寿子との「結婚」以前≠ゥら、「泉福寺」を 訪れているようです。


(14) 「吉田松陰自賛肖像」について





(13) 楫取素彦  ─文政12(1829)年〜大正元(1912)年 ─



文政12(1829)年3月15日、萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・ 松島瑞蟠の次男として生まれました。
小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)、12歳の時で、その家は儒官の家柄でし た。
弘化元(1844)年明倫館に入り、近藤芳樹らに学び、同(1847)年19 歳で司典助役兼助講となります。
嘉永3(1850)年、22歳の時、大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを 受けています。

吉田松陰の激論を受け止め、互いに、敬愛しあ っていたことから、縁あって、後年、望東尼になにかと 心配りをした松陰の妹=寿子と結婚します。(「結婚」は、寿子が15歳の時とのことですので、嘉永6(1853)年と思われます。)
安政2(1855)年、帰萩して、明倫館舎長書記兼講師見習となります。
翌3(1856)年2月相模出衛を命ぜられ、同4(1857)年4月帰国、明倫館都 講役兼助講となります。 (楫取は、萩以外の地に赴任し、さまざまの役職を担いますが、以後は、特記すべきもの以外は、略します)
「松下村塾」には、しばしば訪問し、間接の援助を与え塾生とも相知ることとなります。
松陰入獄中には、本の差し入れや文通等の 便宜を図っています。

「左」の「写真」は、有名な「吉田松陰自賛肖像」を「表紙」にした『山口県文書館蔵  吉田松陰関係資料目録』「表紙」を撮ったもの(「掲載の許可」の手続き済み〈ここをクリックすると「ブログ」に移行し、 拡大写真が見えます〉)ですが、
この松陰自賛を書 き残すことになったのは士毅(=小田村伊之助=楫取素彦)の勧めによるものだと、「山口県文書館」山田 稔 氏が、「山口県立図書館」における「人物で知る明治維新講座」において 、語られました。
私は知りませんでしたので、山田氏に、その「根 拠」を尋ね、『吉田松陰全集』「東行前日記」(とうこうぜんにっき==u東(=江 戸)に行くことになる前の日記」の意)にあるとのことで、確認しました。
十六日 朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、 之れに賛するは士毅の言に従ふなり。とありました。
松陰楫取との深い結びつきは、このことからも確認できるということです。
(『山口県文書館蔵 吉田松陰関係資料目録』「表紙」 が、凝ったもの=″Lげれば原寸大≠フ「自賛肖像」になっていることも、山田氏の「紹介」で知りました。)

◇  「吉田松陰自賛肖像」に ついて 

一般的≠ノは、「至誠而不動者、未之有也」とされている『孟子』 を、「至誠不動兮自古未之有」=「至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有 らず」と「引用」(注 松陰『孟子』がこ の「引用」のママだったのかも知れません)し、 かつ、松陰の尊敬する諸葛孔明、賈彪、貫高、魯仲連 らを挙げながら、松陰の思いを述べた格調高いも のですが、 「ネット」の「維新史回廊トピックス」なるものに、山田氏が「紹介」されたものがありますので、ここでは、その中の「大意」部分を「引用」して みます。 (「色文字」や、文字の太さは、私(河野)が勝手にしたことです。)

(「賛文」大意)

私が尊敬する諸葛孔明賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高(か んこう)や魯仲連(ろちゅうれん)のような功績を残すこともできなかった。
こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。
故郷の人は私を非難するが、私は、国のために命を投げ出す覚悟はできている 。
誠意を尽くせば、心は通じると古くから言われているように、人は、是非とも 高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も敢えて追い求めたい。

(「跋文」大意)

安政6年5月、私は江戸に送られるが、二度と帰って来られないと思い、周りの人々に最期の別れ を告げた。
人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言 葉を添えることを求めた。
私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。
ましてや私が言葉を添えるのだから。
人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。
もし私が処刑されても、この絵の中に私は生きているのだ。

(この中に、「像」を描いた松洞 の名はありますが、を勧めた人物は、諸友(山田氏は、人々)としかなく、『日記』に拠って、楫取とわかるワケです。)



     ◆ その他の山田氏による「解説」を 幾つか、紹介しておきます。


O 吉田松陰像(自賛)はいつ頃作られたものですか。
安政6年(1959年)5月、萩の野山獄に入獄中の松陰に幕府から江戸送 りの命が下されました。
その年の10月に江戸伝馬町で処刑されましたので、この後松陰が生きて萩の地を踏むことはありませ んでした。
この吉田松陰像は、最期の旅立ちを前に、松 陰門下の松浦松洞(まつうらしょうどう)が描いた師の 肖像に門下生達の求めに応じて、松陰が自賛したものです。

O 松陰の自賛肖像は、いくつ作られたのですか。
諸説ありますが、定本『吉田松陰全集』によると、松陰が自賛したものは 全部で8幅あり、このうち「自賛肖像」は、 1.吉田家本、2.萩松陰神社本 、3.品川本、4.久坂本
5.岡部本、6.中谷本の計6幅「自賛のみ」で、肖像を伴わないもの福川本松浦本の計2幅とされています。
(松浦本は後に人をして肖像を描かせたといわれています。所在不明。 )

O この「吉田家本」が文書館に収蔵された経緯を教えてください。
山口県文書館が所蔵する吉田松陰像(自賛)は、昭和29年(1954年) 4月、東京都在住の吉田茂子さんから山口県に寄贈さ れたものです。
茂子さんは、吉田松陰から三代後の吉田家当主庫三氏のにあたる方です。
(参考 「杉家の家系図」「左」EFという「番号」で示された「写真」の方がお二人です。
寄贈された資料は、当初、県立山口図書館に収蔵されましたが、昭和34年(1959年)の山口県文書館 開設に伴い、当館へ移管されました。
 
O 「吉田家本」の特徴は、どのようなものですか。
自賛肖像の中では唯一のあぐらをかいて座った像であり、羽織をまとわず、刀は左脇に置いて、ややくつろいだ姿勢 をとっています。
紺色の着物が画面に締まりを与え、賛文の整然さとあいまってバランスの良い自賛肖像となっています 。
「顔やや長し、隆準にして、白面に痘痕を帯ぶ。一見威風の人を襲うものなし。ただ眼光の爛々として 他を射るのみ。」
    (面長で鼻が高く、色白の顔に天然痘の痕がある。一見威圧感はないが、目は鋭く爛々と輝い ている。)
と評される松陰の面貌をよく表しています。




これは、松陰 が、素彦に、 松下村塾の将来を託して贈った書です。

楫取は、「長州藩」の「重責」を担って いますので、いつまで「松下村塾」に係わったかは
わかりませんが、この「書」も、上の「自賛肖像」への 「自賛」を勧めたこと同様、
楫取松陰との強い絆を示すもの といえましょう。
楫取能彦氏所蔵

なお、楫取は、のために、久坂からへの手紙を整理し、『涙袖帖』として残しています。

             (参考)  古川 薫氏の『故園の花』 より

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医師久坂玄瑞は、吉田松陰の松下村塾に突如現われ松陰に師従することになった。
後に高杉晋作とともに松陰門下の双璧と称されるまでに頭角を現す。当時の塾は、松陰の実家(杉家) にあり、松陰の末妹、文は、玄瑞に心ひかれ、やがて松陰の薦めにより結婚する。
しかし、結婚して2ケ月後には玄瑞は藩命により江戸へ発つ。吹き荒れる幕末の嵐は、松陰の死刑、安 政の大獄、攘夷運動の急展開から激しい倒幕運動へと発展し、二人に安定した結婚生活を許さなかった。
玄瑞は、松陰なきあと志士として政治運動に参画し中心的な役割を果たす。
そして元治元年ついに京都で壮烈な討死をとげる。
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文は、周囲の薦めもあり、後に楫取素彦と再婚、男爵夫人として幸せな余生を送り、素彦に遅れるこ と9年、大正10年79才で逝った。
素彦は、生前に、文が携えてきた玄瑞の21通の書簡を整理し「涙袖帖」として箱書してやった。
彼女の臨終の枕元にはその「涙袖帖」があった。あくまで玄瑞の妻であることを誇示するかのように
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防府市の「桑山」東麓「大楽寺」にある「楫取家 」の「墓」と、楫取素彦 「祭主」となって新しくした野村望東尼の「墓」。
「左」=楫取家の「墓」(ご住職の「左」=楫取家之墓 (「裏面」に美和子(=「文」)の名があります)・ 「右」=正ニ位 勲一等男爵 楫取素彦 墓
「中」=楫取素彦個人の「墓」(「写真」から、正ニ位 勲一等男爵 楫取素彦 墓≠ニあるのが読めると思います)、
「右」=野村望東尼の「墓」


大楽寺」には、の二箇所、「墓域」が あり、「大楽寺」そば「墓域」に、楫取家」の「墓」があると思われがちですが、
楫取家「墓」は、そこではなく、 南側100メートルくらい歩いた所にある、古い方の「墓域」にあります。
そこには、野村望東尼の主治医であった秋本里美(あきもとさとよし)の「墓」や、「荒瀬家」を池田氏を経 由して購入した、林川家の「墓」などがあります。

「写真」の方は、案内して下さったご住職の 林 公雄氏です。長兄(=頼人)と同級生であったこともあるかとは思い ますが、とても親切に、対応してくださいました。
「写真」は、[平成20年11月]当時のものです。
「平成24年」に、「墓域」の入り口に、「百回忌」を機会に設置された「 顕彰標」があり、比較的、わかりやすくなりましたが、
大きく=A立派な=u墓」のハズという思い込み≠ェあったタメ、それまで、何度となく 、「桑山」周辺を捜してみたのですが、わからず、住 職に案内していただいたワケです。

なお、野村望東尼「年 忌法要」「大楽寺」で行われるタメ、勘違いされる 方もあり、「書籍」「ホームページ」・「ブログ」等においても、
誤った=u紹介」をしたものが少なからずありますが、望東尼「墓」は、「大楽寺」の「墓域」にはありません。
「桑山中学校」に近い、「桑山」の南西麓 にあります。

その望東尼の「墓」は、 1894(明治27)年、 野村望東尼に、「 贈正五位」の宣下のあったのを契機に、楫取祭主 となって、新しくした、立派な「墓」です。
明治二十七年 三月 従三位勲二等男爵 楫取素彦   撰 という長文が「裏面」に刻まれています。
その「墓」の「表面」・「裏面」とも、写真」で、比較的多く紹介されていますので、
ここでは、「側面」からの「写真」により、その規模≠知っていただこうと思いま す。
この望東尼の「墓」の周囲にある「墓」と、楫取の「墓」は、大きさ・高さ共、ほとんど変わりませ ん。

楫取は、「正二位・勲一 等男爵」(「従三位勲二等」から昇格)なのですが、
その「」は、楫取が尽力して、 新しくした望東尼「墓」に比して、つつ ましやか≠ナす。
望東尼は、「正五位」なのですから、 「正二位・勲一等男爵」の楫取 の「墓」は、より、立派≠ナあってもおかしくはないハズです。
楫取の「遺言」でもあったのでしょうか。
(但し、「位階」に「違い」があったということで、望東尼が、楫取よりも、貢献の度合いが低かったと言っているワケではありません。)

なお、初代の「県令(知事に相当)」を勤めた「群馬県」では、楫取 を慕う人は多いといわれ、「群馬県庁」北側の「高浜公園」には大きく、立派な「功徳碑」が建立されています 。

「泉福寺」に、平和革命論を主張し、「日本共産 党」を指導、衆・参両議員を務めた野坂参三の「 墓」もあるように、
「大楽寺」は、英雲公 こと長州藩第七代藩主毛利重就の分骨地であり、境内に供養塔があるのを初め、
既述の秋本里美林川長兵 衛(「防府」で最初の「医学博士」)など、いろんな方々の「墓」があります。

「大楽寺」そばの新しい「墓域」に は、「女優」夏目雅子の「墓」があります。
「ひまわり華の会花壇」と書かれている「文字板」の近くに、「西山家」のお墓があり、直 木賞作家伊集院 静(本名 西山忠来)氏の夫人で 、
若くして惜しまれつつ亡くなった女優夏目雅子が眠っています。
蛇足ですが、私が「修学旅行」の代休で、「岡村の家=野村望東尼終焉の宅」とされる両親の家 にいた時、「マスコミ」が押しかけ、騒々しいことで、「納骨日」であることを知りました。
静かになって、お参りし、[墓誌]に、「戒名」と「昭和六十年九月十一日 西山雅子 芸名 女優  夏目雅子 二十七才」という文字が彫り込まれているのを確認しました。





       



(15) 「山口芸術短期大学 演奏会 組曲 吉田松陰」について




吉田松陰 の 生誕150年  にあたる「昭和55年」
松陰 「至誠」建学の「教育理念」として開学した「山口芸術短期大学」は、
「写真」のような、大がかり「演奏会」を企画し、世に問うたようで す。

(左下に坐っている「和服」の人物は、松陰山本 學氏です。)






私は、残念ながら、「昭和55年の演奏会」には行っていませんが、 「山口芸術短期大学 演奏会 組曲 吉田松陰」が、35年ぶりの「再演 」に際し、
私が、以前、御世話になった山口芸術短期大学教授中島俊泰 氏が、
私が吉田松陰を少しばかり≠ナすが、「調査・研 究」をしていることとて、
「案内」をいただきました。
「会場」が、私の住む所のすぐ近く≠フ「アスピラート」であることも、一因でしょ うか。

その後、お目に掛かった際、話の中で「山口芸術短期大学」松陰「至誠」「建学の教育理念」としていることから、
松陰の「菩提寺」であり、松 陰の「位牌」=「松陰二十一回猛士」をお守りしている 「泉福寺」のことを話すと、
「松陰神社」に加えて、「泉福寺」「招待」し、
「泉福寺」については、「組曲 吉田松陰」「資料」も、寄贈するよ うに、進めてみようと、言ってくださいました。

その後、私に、「昭和55年」の「演奏会」
貴重な=u台本」を、担当された吉田 稔 氏が、
これまた、「舞台全体」が写っている貴重な=u写真」今回の「演奏会」の「編曲・演 出」をされた田中照通氏が
さらに、この「昭和55年」の「演奏会」の「CD」を、「山口芸術短期大学」として
托してくださったので、「泉福寺」に持って行っています。

今回の小規模な声楽と電子オルガンを中心としたアンサンブル、そして60分程度に凝縮した 上演でも、十二分に感動的でしたので、「泉福寺」にあることをここに記しておけば、
松陰を慕われる方、研究される方の参考として、利用されることもあるので はあるまいかと、思っています。


 

(16) 「吉田松陰の家紋」入りの「萩焼」の「盃」について







「家紋萩焼」

山口県在住のフリーアナウンサー「ヤスベェ」こと大谷泰彦氏は、「山口県地酒大使」を10余年務めていたこととて、近年山口県の地酒が全国で大人気であることから、 「明治維新」から数えてちょうど「150年」の翌年、「萩焼に、松下村塾にかかわる歴史上の人物の家紋を入れる」ことを考えたと言います。
山口萩焼陶芸家の大和猛氏とサンドブラストアーティストの小山祐和氏の協力を得て、「吉田松陰」・「高杉晋作」の「家紋」のある「盃」を作り、販売したのです。
「好評」で、「山口県特産品振興奨励賞」も受賞したようです。
大谷氏(以後は「大谷君」と記します)は、私が「吉田松陰」について、少しばかり「調査・研究」していることから、「吉田松陰の家紋入り」の「盃」をくれたのです。
大谷君と私は、「都濃高校鹿野校舎」という、小さな「高校」で、「教師」と「生徒」という形で、関わりがありました。
「クラス」も、少人数でしたし、私もまだ二十代でしたので、担任した、一人一人の記憶が、現在もあります。
大谷君は、「マスコミ」の世界へという「夢」を語っていましたが、その「夢」を持ち続け、「大学」を卒業後も、カラオケの講師などをやり、柏村 武昭(かしむら たけあき)氏に「弟子入り」という形で、研鑽を続け、26歳の時「ラジオリポーター」としてデビュー、広島県内に本社を置く民間放送局の番組にも出ていたこともあるようですが、現在は、「山口県」の「ラジオ・「テレビ」に、「レギラー番組」を持つほか、 「イベントの司会」・「結婚式の司会」・「講演」なども精力的に行っているようです。
大谷君の「講演」を聞いたことがありますが、よく勉強していると思いました。
「今日の大谷君」があるのは、彼のひたむきな努力のたまものですが、少しばかりの「つながり」があることとて、大谷君の「活躍」を喜んでいます。

この「吉田松陰の家紋入り盃」は、私が持つより、「松陰の菩提寺」で、「保存」してもらう方が活かされると思い付き、「泉福寺」に寄贈しました。
「展示」される「機会」も、あろうかと、思っています。






(参考) 「紹介」されるようになった「泉福寺」について

              「萩まちあるきマップ」=次 //「大河ドラマ 花燃ゆ」放映後           





萩まちあるきマップ  維新の先覚者 吉田松陰ゆかりの地を巡る!] が、更新されたことについて

維新の先覚者 吉田松陰 ゆかりの地を訪ねてみよう!!
として

「松陰神社(@ 宝物殿 至誠館 ・ A 松下村塾 ・ B 吉田松陰幽囚の旧宅 ・ C 御本 殿)」 
「松浦松洞誕生地」
「吉田稔麿誕生地」
「伊藤博文旧宅・別邸」
「玉木文之進旧宅」
「吉田松陰誕生地・墓所」
「明安寺」
ダケで、補足的な [ここへも行ってみよう!!
においても、
「野山獄跡」
「涙松跡」
「萩博物館」
が「紹介」されているダケでしたが、
 [ここへも行ってみよう!!
において、
「写真」のように、(D)泉福寺 「追加」されました。
失礼ながら、私には、今少し、詳しい記述が欲しかったのですが、この「パンフレット」は、有り難いことでした。

私の「このページ」や、『吉田松陰の「菩提寺」「泉俯膜寺」について』にも、関心を持っていただくきっかけ
ともなろうかと思います。








「左」が、元の「パンフレット」の「表紙」で、「右」が新しい「パンフレット」の「表紙」です。












「左」が、元の「パンフレット」の「ここへも行ってみよう」で、「右」が新しい「パンフレット」の「ここへも行ってみよう」です。











なお、[ 大河ドラマ 花燃ゆの放映後には、
幾つも≠フ「紹介」がされるようになっています。

そのうち、
[文と萩物語 大河ドラマ ゆかりの地マップ]
及び
「大河ドラマ 花燃ゆ  幕末男子の育て方。 」
を「紹介」しておきます。

[吉田松陰.com]の 吉田松陰に関する史跡めぐりデータベース に、「リンク」設定をしてい ただいたこともあって、
この「ページ」への「アクセス」を、

楫取美和子 | インターネット内の検索結果 |
↑ クリック≠キれば「アクセス」できます。

思いの外、多くしていただいていることも、少しばかり≠ヘ関係があるのかもしれません。
だとすると、うれしいのですが・・・















この2ツの「解説」は、ほぼ%ッじですが、
  納骨堂の一番奥には、弟子たちが松陰像とともに 納 骨した 位牌 もある。
とあるのは、疑問です。
まず、「納骨%ー」ではなく、「位牌%ー」のハズですし、
さらに、納骨≠オた「位牌」ではなく、納めた=u位牌} のハズです。
また、既述のように(←クリック=j、当初≠フ「位牌」は、「納骨 堂」ではなく、別の場所に、大事に「安置」され、毎日、お経があげられているとのことです。

残念ながら=A月性(←クリック=j のことに触れられていませんが、「大河ド ラマ=花燃ゆ」において、佐久間象山スラも取り上げられていないタメ、やむを得ないと思いますが、 [維新150年] に向けての「資料」等においては、是非、検討してほしいと思います。