【メッセージNo.2】 2011.6.5
私は蕎麦の花が好きです。本当に幼いとき、父方の祖父母の畑に蕎麦が植えてありました。じい様は厳格な人で笑顔を見たことはありません。ばあ様は足が悪くいつも松葉杖を付いていました。500メートルぐらい離れた私の家に向かい「ボンヤーン」と大声で兄を呼ぶ。大急ぎでばあ様の元へいくと芸術的につぎを当てた(今で言うとキルト風)大きな前垂れの中からお菓子を取り出してくれました。その後、私と兄は蕎麦の花の咲く畑で鬼ごっこをして遊びました。幼くして父親のいない私たち兄妹に満開に咲く清楚な花は優しい思い出をくれました。 NHKの連続ドラマ「おひさま」は日本アルプスの麓の町が舞台。蕎麦の花咲く野面の美しさに感動します。しかし、たまたま見た場面は戦時下の子どもたちの生活を思い出させるものでした。昭和20年、戦局の悪化はこの宇部という地方にもさまざまな困難な状況をもたらしました。私は小学2年生であり、毎日毎日が昼間は授業途中の警戒警報で学校の前の小高い林に駆け込み、夜は夜で眠りの最中に母に叩き起こされ、防空壕へ逃げ込み、じっとしゃがんで敵機の退散をひたすら待つ繰り返しでした。一番嫌だったのは梅雨季の雨のため防空壕に水が溜まり、かび臭く蚊に刺されながら耐えていなければならないことでした。 更なる苦しさは、ひもじかったことです。ドラマの中では一人の子どもの弁当がなくなる事件があり、主人公の先生が「私は弁当を盗んだ人を責めません」というくだりに私の2年生の教室を思い出しました。疎開してきた児童も多く、背中に幼い弟や妹をおんぶして登校する子もいたように思います。母子家庭の母は我ら兄弟にどのように工面してくれていたのでしょうか。いつも弁当を持たせてくれていました。 しかし、教室の中には弁当を持ってこない子がいたのです。若い女学校出たての十代の代用教員といわれる先生はいつも弁当を分けてやっておられたように記憶しています。先生の素晴らしさは私たちに毎日下校前に本を読んで下さったことです。古今東西のいろいろの本。私たちはわくわくしながらこの時間を待ちました。みんなみんな、一生懸命聴き入りました。私はこの読み聞かせのおかげで抜群の想像力とまだ見ぬ世界への憧れが頭のなかに渦巻くようになるのです。このとてつもないエネルギーが音楽へ向かわせたように思うのです。 今、私は児童合唱の指導者で指揮者です。1989年、合唱団を連れてウイーンへ出かけていくとき、同じ地区の人からお祝儀を頂いたことがあり、そのお礼状に私の音楽はこの東岐波の風の音、瀬戸内の波の音、青空を流れる雲、日の山から見下ろせばとりどりの彩を見せてくれた四季の田畑、飢えていた私に空想力と憧れとをくださったお下げ髪の先生、松葉杖を付くばあ様の不思議な前掛け、そして共に東岐波という地域をふるさとにする人々の人情のよるものと書いたのであります。
【メッセージNo.1】 2011.3.18
新任の教師として初めて山間の無煙炭の町の小学校の門をくぐった時、未だ聞いたことの無いような子どもたちの合唱に出会いました。「なんて、澄み切った美しい声だろう」と驚きと憧れでいっぱいでした。私は教育実習生で音楽の授業を済ませた後、担当の教諭が「中村さん、勉強して合唱指導をしたらよいですね。」と助言してくださいました。「これがT先生のおっしゃった児童合唱なのか。」と思いました。やがて、それは愚直の一念を貫かせることとなりました。以来、50年近く、子どもの声に関わってきました。人は生きている限り、「真善美」を求め続けるものであります。この世で最も美しいものを、子どもたちの声とした私の長い道のりとなりました。変声期前のビブラートのかからない透明清澄な声は伸びやかに天井に向かって伸びていきます。時には天井から優しく降り注ぐ慈雨のようにわたしの心を満たし、時には洗い流してくれます。 それだけに、この時期にこそ、芸術作品としての合唱作品を歌わせたいと努めています。そこにいたるためには母国語によるわらべうたから出発し、楽譜を読むという訓練をしなくてはなりません。人間の声の最高芸術はア・カペラという合唱形態にあります。楽器に頼らない音楽です。草の実では幼稚園や小学校低学年から継続して指導していきます。確かなソルフェージュの力が必要です。 子どもたちは、学年、性別、地域、学校の枠を取り除き、少年期の最も美しい声を磨き、一生懸命に音楽や人間として必要な学習をしています。ヨーロッパのような児童合唱の歴史と伝統はありませんが日本の社会の中で子どもの芸術活動が理解され、すばらしい音楽の輪が広がることを願っています。 サボーヘルガ先生のご指導は永遠です。 間もなく、ヨーロッパへの最後の旅に出発するでしょう。私の尊敬するサボーヘルガ先生のご葬儀に参列します。先生は音楽の師であり、人生の師でもありました。コダーイの高弟で彼の音楽理念や方法を具現化した人です。先生のソルフェージュの授業は衝撃的でありました。1989年宇部に来てくださいました。ヴェルディの「聖母マリアへの賛歌」が草の実最初のレッスンでした。何故か今、再びこの曲に取り組んでいます。もうお聞かせすることはできません。 先生と2人でコダーイの話をしたり、ポプラの木陰で食事をしたり、花咲くこの下で手を振って見送ってくださったことなど暖かい思い出の数々が今のわたしの心を占めています。先生がご指導してくださった全てのことが大切に私の体全体に生きています。深い感謝を込めてご冥福を祈ります。
私の音楽の始まりは
私は蕎麦の花が好きです。本当に幼いとき、父方の祖父母の畑に蕎麦が植えてありました。じい様は厳格な人で笑顔を見たことはありません。ばあ様は足が悪くいつも松葉杖を付いていました。500メートルぐらい離れた私の家に向かい「ボンヤーン」と大声で兄を呼ぶ。大急ぎでばあ様の元へいくと芸術的につぎを当てた(今で言うとキルト風)大きな前垂れの中からお菓子を取り出してくれました。その後、私と兄は蕎麦の花の咲く畑で鬼ごっこをして遊びました。幼くして父親のいない私たち兄妹に満開に咲く清楚な花は優しい思い出をくれました。
NHKの連続ドラマ「おひさま」は日本アルプスの麓の町が舞台。蕎麦の花咲く野面の美しさに感動します。しかし、たまたま見た場面は戦時下の子どもたちの生活を思い出させるものでした。昭和20年、戦局の悪化はこの宇部という地方にもさまざまな困難な状況をもたらしました。私は小学2年生であり、毎日毎日が昼間は授業途中の警戒警報で学校の前の小高い林に駆け込み、夜は夜で眠りの最中に母に叩き起こされ、防空壕へ逃げ込み、じっとしゃがんで敵機の退散をひたすら待つ繰り返しでした。一番嫌だったのは梅雨季の雨のため防空壕に水が溜まり、かび臭く蚊に刺されながら耐えていなければならないことでした。
更なる苦しさは、ひもじかったことです。ドラマの中では一人の子どもの弁当がなくなる事件があり、主人公の先生が「私は弁当を盗んだ人を責めません」というくだりに私の2年生の教室を思い出しました。疎開してきた児童も多く、背中に幼い弟や妹をおんぶして登校する子もいたように思います。母子家庭の母は我ら兄弟にどのように工面してくれていたのでしょうか。いつも弁当を持たせてくれていました。
しかし、教室の中には弁当を持ってこない子がいたのです。若い女学校出たての十代の代用教員といわれる先生はいつも弁当を分けてやっておられたように記憶しています。先生の素晴らしさは私たちに毎日下校前に本を読んで下さったことです。古今東西のいろいろの本。私たちはわくわくしながらこの時間を待ちました。みんなみんな、一生懸命聴き入りました。私はこの読み聞かせのおかげで抜群の想像力とまだ見ぬ世界への憧れが頭のなかに渦巻くようになるのです。このとてつもないエネルギーが音楽へ向かわせたように思うのです。
今、私は児童合唱の指導者で指揮者です。1989年、合唱団を連れてウイーンへ出かけていくとき、同じ地区の人からお祝儀を頂いたことがあり、そのお礼状に私の音楽はこの東岐波の風の音、瀬戸内の波の音、青空を流れる雲、日の山から見下ろせばとりどりの彩を見せてくれた四季の田畑、飢えていた私に空想力と憧れとをくださったお下げ髪の先生、松葉杖を付くばあ様の不思議な前掛け、そして共に東岐波という地域をふるさとにする人々の人情のよるものと書いたのであります。
なぜ、児童合唱なのか。 (指揮者として指導者として)
新任の教師として初めて山間の無煙炭の町の小学校の門をくぐった時、未だ聞いたことの無いような子どもたちの合唱に出会いました。「なんて、澄み切った美しい声だろう」と驚きと憧れでいっぱいでした。私は教育実習生で音楽の授業を済ませた後、担当の教諭が「中村さん、勉強して合唱指導をしたらよいですね。」と助言してくださいました。「これがT先生のおっしゃった児童合唱なのか。」と思いました。やがて、それは愚直の一念を貫かせることとなりました。以来、50年近く、子どもの声に関わってきました。人は生きている限り、「真善美」を求め続けるものであります。この世で最も美しいものを、子どもたちの声とした私の長い道のりとなりました。変声期前のビブラートのかからない透明清澄な声は伸びやかに天井に向かって伸びていきます。時には天井から優しく降り注ぐ慈雨のようにわたしの心を満たし、時には洗い流してくれます。
それだけに、この時期にこそ、芸術作品としての合唱作品を歌わせたいと努めています。そこにいたるためには母国語によるわらべうたから出発し、楽譜を読むという訓練をしなくてはなりません。人間の声の最高芸術はア・カペラという合唱形態にあります。楽器に頼らない音楽です。草の実では幼稚園や小学校低学年から継続して指導していきます。確かなソルフェージュの力が必要です。
子どもたちは、学年、性別、地域、学校の枠を取り除き、少年期の最も美しい声を磨き、一生懸命に音楽や人間として必要な学習をしています。ヨーロッパのような児童合唱の歴史と伝統はありませんが日本の社会の中で子どもの芸術活動が理解され、すばらしい音楽の輪が広がることを願っています。
サボーヘルガ先生のご指導は永遠です。
間もなく、ヨーロッパへの最後の旅に出発するでしょう。私の尊敬するサボーヘルガ先生のご葬儀に参列します。先生は音楽の師であり、人生の師でもありました。コダーイの高弟で彼の音楽理念や方法を具現化した人です。先生のソルフェージュの授業は衝撃的でありました。1989年宇部に来てくださいました。ヴェルディの「聖母マリアへの賛歌」が草の実最初のレッスンでした。何故か今、再びこの曲に取り組んでいます。もうお聞かせすることはできません。
先生と2人でコダーイの話をしたり、ポプラの木陰で食事をしたり、花咲くこの下で手を振って見送ってくださったことなど暖かい思い出の数々が今のわたしの心を占めています。先生がご指導してくださった全てのことが大切に私の体全体に生きています。深い感謝を込めてご冥福を祈ります。