平成19年7月5日 公開
平成21年2月1日 更新


● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える


1 今日の「土井が浜遺跡」の考古学史における重要な位置づけは三宅宗悦氏の「古墳人骨」という鑑定≠ノよるものではなく金関丈夫氏の「土井ヶ浜遺跡」の「発掘調査」に基づく「弥生人骨」の発見およびその考察に基づく、日本人起源の「渡来人」説の根拠となった遺跡としてのものである。
 ところが、「昭和初期」の「河野」の発見≠フことは記しているのに、「衛藤和行」氏の発見≠ェきっかけ≠ニなって、「金関発掘調査」が実施されることになったのに、略し=Aなんらのきっかけ≠轤オきものはないママ、「金関発掘調査」が行われたかのごとく記している「文献」が多い。
 なぜだろう?


但し、最近はこの点だけは、是正されています。「人類学ミュージアム」の開館に伴う、情報≠ェ理由でしょう。そして、また、私の『山口県地方史研究』への発表も、多少は影響しているようです。
ただ、私が調べ出した当時の状況は、こうだったのです。



▼ 「金関発掘調査」が、ごく必然的に≠ィこなわれたかのように受け取れる代表的な「文献」を幾つか示してみましょう。



● 『ジャポニカ大日本百科事典第13巻〈全18巻〉』
      〈昭和45/6/15〔初版発行〕〉=小学館発行=
 
土井ケ浜遺跡 
山口県豊浦郡豊北町神田上の砂丘地帯にある弥生時代前期の集団墓地遺跡。一九三一年(昭和六)に発見され、箱式石棺がみつかり六体の人骨が出土している。その後金関丈夫らによって五三年以来五七年まで、五次にわたる発掘調査が実施された。その結果、弥生時代の人骨二00体余が発掘された。これらの人骨の被葬状況には、埋葬施設のないもの、簡単な施設のあるもの、組合せ箱式石棺に入れられたもの(四種)がある。石棺内には一体を入れたもの、二体のもの、五体を入れたものなどがある。人骨には貝製・玉製などの装身具をつけたものもあった。また仰臥屈葬の姿勢をとるものが多く、仰臥伸展葬の明かなものは四例であった。また抜歯の有無が明らかに判別された人骨は八九例もあり、このうち抜歯の痕跡あるものは六八例あった。土井ケ浜遺跡の調査はまだ遺跡全域のごく一部であり、遺跡は東西約六0メートル、南北約七0メートルの範囲にわたっている。また出土人骨は縄文時代の人骨にくらべ、ひじょうに身長の高いものがあり注目された。
                                 〈江坂輝弥〉
 
 
 
● 『郷土史事典 山口県 松岡利夫「編」』〈1980/3/20=昌平社発行〉=
 
 ○ 砂丘に累々、土井ケ浜の弥生人骨
 
 山口県の西北端、豊北町に国の史跡土井ケ浜がある。昭和六年(一九三一)この浜の標高五・五メートルほどの砂丘のなかから、人骨が発見された。そして二八年から三二年にかけて五次の調査が行われ、弥生時代前期末の大規模な墓地区として注目を集めることになった。             〈中略〉    
 結局この地から二0七体におよぶ人骨が発見され、砂とそのなかにふくまれる貝の細片の保護によって、人骨は腐朽せずよく遺存していた。埋葬の方法はほとんど、あおむけに寝かされて足を折り曲げたいわゆる仰臥屈葬となっている。砂丘に穴を掘ってそのまま埋めたものや、遺骸の四隅に一個の礫を置いたもの、頭部付近に数個の石をならべたもの、全体を石囲いにしたもの、箱式石棺に埋葬したものなどがある。
 特異なものとして土器片を枕としたものや、ある遺骸の頭辺や足許に他の遺骸からとりはずした頭蓋を数個ならべたものがある。骨に石のやじりがささった男性や、鵜を胸に抱いて埋葬された女性もいる。なお、南方からもたらされるゴホウラ貝などを加工した腕輪をつけた遺骸もある。
 さて、これらの埋葬人骨が示す弥生時代前期の風俗はどうであったか。出土人骨のうち男性一0六体に対し女性五0体・幼小児二七体で、圧倒的に成人男性が多く、埋葬場所によって女性骨や幼小児骨にかたよりがみられる。また男性は背が高く、本州西端という位置から外国と関連づけた興味深い憶測も生れる。
 これらの人骨の歯牙をみると、上あごの第二門歯や犬歯をぬいたいわゆる抜歯の風俗がみられるものが六八例あり、七六パーセントを占めている。成人や結婚、あるいは服喪などのさいに行われた習俗であろうか。また比較的むし歯も多く、しかも隣接面がおかされている例が多い。一二0五本の歯のうち、むし歯が二三七本みられ、罹患率は一九・七パーセントとなるから、この時代としては異様に多く、かなり文化的な食生活をしていたことがわかる。      ==以下省略==
 
 
● 『山口県文化財要録=第1集・史跡編=山口県教育委員会発行/昭和49/3/30』
 
27 史跡 土井ケ浜遺跡
 
指定年月日
 昭和37年6月21日(文化財保護委員会告示第38号)
所在地
  豊浦郡豊北町大字神田上字土井ケ浜,字沼田
  (地域)土井ケ浜891の6のうち実測 124.335u
      沼田891の14のうち実測
      4,084.655u
      沼田891の15及び土井ケ浜891の17のうち実測
      5,299.73u
指定の一部解除
   解除年月日 昭和45年8月11日
         (文部省告示第266号)
   解除地域 土井ケ浜891の6のうち   実測124.335u
   解除理由 国道191号線拡幅工事に伴い土井ケ浜遺跡の東端(土井ケ浜891の6の東端)を延長50mにわたり幅1〜4m削らざるをえなくなったため。
指定地面積 9,591.325u
               〈実測面積〉
管理団体  豊北町(昭38.10.25指定) 
指定の事由 史跡の部第1による
指定説明
 土井ケ浜といわれる海岸の砂丘にある遺跡で、弥生式時代に営まれた墓地である。この遺跡は早くから学界に注目されていたものであり、昭和28から同32年にわたり、金関丈夫博士等によって、その一部地域が発掘査され、200余体の人骨が発見された。埋葬施設としては、礫石を四隅に配する簡単な施設をなすもの、礫石を四周に長方形に囲んだ一種の石囲いをなすもの、組合式箱形石棺などの各種のほかに何等の施設を伴わないものも存した。ことに同一施設内に人骨が2体以上埋存しているものや、枕辺または足もとに頭骨のみがならべられている特殊なものもあり、また貝製腕輪を着装し、石鏃、牙鏃が射込まれた状態で埋葬された例も発見された。頭向きはほぼ東枕である。副葬品として、硬玉製勾玉,碧玉製岩製管玉,貝製小玉,ガラス製小玉,貝製腕輪,貝製指輪等の装身具が出土したが、他に弥生式土器その他の遺物も検出された。この遺跡は、弥生式時代前期の終り頃を中心として営まれた集団墓地であり、当時における埋葬習俗や墓制を知るうえに学術上貴重な遺跡である。ことに完全人骨が多数発見されたことは、人類学上の研究に寄与するところが多い。
保存の条件 (1) き損しないこと
      (1) 遺物を採取しないこと      
      (1) その他みだりに現状を変更したり、保管に影響を及ぼす行為をしないこと
管理記録 
    昭和32年度 土井ケ浜考古館設立
    昭和38年度 標柱・説明版・囲柵・境界杭設置



[答え]

ここに挙げた「文献」に限らず、「金関発掘調査」は、さしたるきっかけ≠ネしに「実施」 されたかのような「記述」が少なからず≠ったのです。

ツマリ、執筆された方々は、「土井ヶ浜における一般人≠フ発見=vが、想像以上に大きな役割≠担っていたことに思いを寄せられていなかったのです。

小さなドラマ≠ェそこにはあり、人と人との邂逅≠フ不思議さ≠ェあったのです。
あとで触れますが、「昭和初期」の河野の役割≠ノしても、つい、巡り合わせた≠ニいったものではないのです。

衛藤氏の場合は、それこそ、「金関発掘調査」そのもの≠ノおいても、極めて大きな役割≠果たしておられるのです。
私が「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠とりあげる理由もここにあります。

以下、私の「設定した設問」に従って、そのありようを知っていただけるとありがたいと思います。


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