[答え] 当時、考古学研究の学問を研究する大学は少なく、「東京帝国大学」の原田淑人・「京都帝国大学」の浜田耕作両氏が親しかったというだけでなく、学生を含め、研究室全員が親しかったといいます。
更に、「考古学」の専攻ということが始まったばかりでもあり、卒業生を含めて、その結びつきは今日とは比べものにならないくらい、強かったと言います。 親分肌%Iな要素のある小川氏であるがゆえに、「他大学=東京帝国大学」「副手」の駒井氏の研究にも役立つのではと思われ、情報≠寄せられたのです。 そして、駒井氏は、「早稲田大学」卒業でありながら、「高校時代」に指導を受けた原田氏が「教授」となられた「東京帝国大学」の「副手」となられ、その後、「教授」になられたことからも推測できるように、誠実な人柄≠ナ、研究熱心≠ネ方で、当時≠ニしては、大変な「時間」がかかるにも係わらず、小川氏の親切≠ノ応えられようと、「神玉村土井ヶ浜」を訪れられ、「弥生式土器片」を採集され、かつ、それを三宅氏に届けられたのです。
この、駒井氏が「弥生式土器片」を採集されたという「記録」が、後の、「金関発掘調査」に踏み切られるためののきっかけ≠フ一つになっていることは忘れてはならないハズです。 |