[答え] 13−[1] 「一年」の違いの持つ意味
「貝の加工品」をきっかけに、やがて、人骨、土器の破片といった"発掘品≠ェ金関氏の元に集められますが、その年は、伝えられているような「昭和二八年」ではなく、前年の「昭和二七年」でした。
「人類学者」としての金関氏は、当然、(貝の加工品と)同時に多数出土した人骨を対象とされるのですが、当時は、人骨そのもの≠ナ年代を鑑定するというよりも、同時に出土した出土品≠ナ推定≠キるという方が有効な方法であったと言います。 ところで、そのきっかけ≠ニなった、「その貝の加工品≠ヘどこにあるのか。」ということになるのですが、衛藤氏は、当初は「永井さんが持っているはずだ」とおっしゃったのですが、永井氏に電話すると、「そんなことはない。返したよ。たしか、考古館≠ノあったと思うよ」とおっしゃったのです。 事実=A「考古館」に展示してありました。 その所在確認≠フ際、永井氏は、その「貝の加工品」のことは、「書いて発表しているよ」とも教えてくださったのです。 金関氏が九州大学に赴任された際に助手となられ、土井ケ浜遺跡発掘のメンバーであるとともに、金関氏の協力者、後継者として後には教室の教授となられた永井昌文氏は、『日本民族文化とその周辺考古編』〈昭和五五年十月発行 国分直一博士古稀記念論集編纂委員会〉という質・量とも立派な本の中に収められている論文=「土井ケ浜出土の異型貝製品」に書かれていたのです。
ここで逆に、「なぜ、発掘まで一年間の空白があるのか」ということが問題となります。 この私の問いに、永井氏は、「金関教授は弥生時代の人骨≠ニいう可能性が高くなかったら、発掘はされなかった」という、重要な証言≠されたのです。 そして、後日、『仁幾女』〈第六号〉にも次のような金関氏から衛藤氏に宛てた手紙が紹介されたのです。 手紙には、はっきりと、「弥生式人骨の研究」とあるのです。
金関氏は、原田忠昭氏ら「教室の助手」に依頼しての予備調査≠ノ、自らの調査も加えられて、「青年研修所」建設の際はもとより、それ以前の「出土調査」から、「弥生式の人骨」の可能性を確信されたのです。 (この頃でも、当然「人骨だけ」で時代を決定することは無理でした。 但し、「発掘調査」の過程においては、人骨から、年代推定の方法が取れるようになったとのことです。) 原田氏は、「近くの角島≠フ出土品まで確認した上で、発掘に踏み切られた」と、証言してくださいました。
事実、『日本農耕文化の生成』〈昭和三六年三月発行/東京堂出版〉という本が「二五の遺跡」の報告書であって、概報≠ノならざるをえなかった『山口県土井浜遺跡』の項であるにもかかわらず、 昭和二七年春「煙草乾燥場」建設に伴って出土した人骨・弥生式土器のこと、 昭和六年の「駒井」氏の弥生式土器破片採集のことは、 記されているのです。 (但し、なぜか、直接のきっかけ≠ニなったはずの「青年研修所」のことは記されていません。) つまり、「財政が豊かではなかった」当時、「すぐ掘る」などということはありえぬことだったのです。 学界がこぞって、ほとんど発見されていなかった=u弥生時代の人骨」を求めていたからこそ、踏み切られたことだったのです。 「京都大学」では発掘調査をしなかったのに、「九州大学」だから発掘調査をしたというわけではなく、時代の要請≠セったということです。 それに、既に触れたように、金関氏は、「京都大学」において、三宅氏の兄貴分であったのです。それが「清野事件」の関係で、三宅氏が「退官」されたのに対し、金関氏は「台北帝国大学」への転任をされたということで、それが更に、「敗戦」に伴って、「九州大学」に赴任されたということなのです。 しかし、実際の「発掘調査」においても、出土する≠ニいう確信≠ェあったわけではないようで、金関氏の当初の発掘予定地は、金関氏から衛藤氏にあてた手紙(二八/九/二八投函分=『仁幾女』六号掲載=)で示した図によると、「四ケ所」あり、「2〜4」は都合でやめるかも知れませんとあるのです。 「1」は、私の調べでは、「再埋葬地」ということなので、確信≠ェなかったということになるのでしょう。 衛藤氏によると、「試掘」もされているとのことですが、結局、「2」や「3」でなく、「4」の位置が中心となったのは、「註」のごとく、1メートル四方程度から出土したということと、「弥生式土器片」が駒井氏によって「表面採集」されていたことが拠りどころとなったのではないでしょうか。 また、「青年研修所」がまったく対象にされていないのは、工事の規模からして、「もう出てこない」と判断されたものではないでしょうか。 こうして、確信≠ヘなかったものの、「弥生人骨」の可能性を確認していながら、この「土井ケ浜」の発掘が、一時見送られうになったことがあるといいます。 今日、「三津永田遺跡」と称される地において、水害によって偶然甕棺が出土、相当量の弥生人骨が発見され、九州大学の金関研究室は、その整理に追われることになったからだといいます。 衛藤氏への金関氏の書簡に、場合によっては、一度出土した人骨を「再埋葬」したもののみを持ち帰ることになるかも知れないとあるのはこのためです。 13−[2] 「発掘」は一回切り≠ナ終了? 「発掘調査」開始後も、当初、思ったような成果があがらず、「一回」だけで「中止」が検討されたことがあると、金関 恕氏は教えてくださいました。 このことは、衛藤氏が、『仁幾女』に発表された金関丈夫氏から衛藤氏に宛てた「手紙」でも裏付け≠轤黷ワす。 しかし、 金関氏の一回目の発掘時の状況から、人骨の出土する箇所の推測≠ェ衛藤氏に伝えられ、その依頼≠ノよって衛藤氏の単独発掘調査の継続≠ェなされ、 その結果、調査は継続となり、周知のように、五次まで実施され、多大な成果が得られたのです。
13−[3]金関発掘」の結果 「一次」から「五次」にわたる調査の結果、「土井ケ浜遺跡」は、「弥生時代の集団墓地」とわかり、学界にセンセーショナルな波紋を広げることとなりました。
(但し、「弥生時代」の遺物のみではないことは"概報"にも説明がある。) そして、金関氏は、出土人骨をもとに、師の一人、清野氏の「混血説」を別の角度から発展させ、大きな業績をなされたのです。 現在もなお(というより、以前以上に)、いわゆる「金関の渡来説」は、その後の研究進展の中で着実に評価を高め、今日の日本人起源論の主柱となっているのです。 なお、出土人骨総数は、一応、 昭和六年の六体
発掘以前の採集人骨 三体 合計 二○七体 再発掘の人骨 二三体 金関発掘での純粋な発掘数 一七五体 と、"概報"という『日本農耕文化の生成』「山口県土井浜遺跡」では発表されているが、それ以前の発表数より、多少増えているのはもとより、九州大学で引き続き研究の結果、「一七五体」の中の「一体」とされてきた人骨に「六〜七体」の可能性があることがわかったのは特別としても、他の数体についても、複数の可能性があるらしく、研究の進展とともに、人骨数は変化しているのです。 そして、後にふれる坪井氏の注意≠契機に、「土井ケ浜遺跡」は、再び、発掘を継続する状況が生じ、主体を「山口県・豊北町」に移して続けられ、「縄文人的な特徴をもつ人骨」の出土が報告されるなど、「土井ケ浜遺跡」は、いまなお、熱い視線を浴び続けているのです。 |