平成19年7月5日 公開
平成23年1月30日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



13 なぜ、京都大学は動かず、九州大学は発掘に踏み切ったのか?



[答え]

13−[1] 「一年」の違いの持つ意味
「貝の加工品」をきっかけに、やがて、人骨、土器の破片といった"発掘品≠ェ金関氏の元に集められますが、その年は、伝えられているような「昭和二八年」ではなく、前年の「昭和二七年」でした。
「人類学者」としての金関氏は、当然、(貝の加工品と)同時に多数出土した人骨対象とされるのですが、当時は、人骨そのもの≠ナ年代を鑑定するというよりも、同時に出土した出土品≠ナ推定≠キるという方が有効な方法であったと言います。
ところで、そのきっかけ≠ニなった、「その貝の加工品≠ヘどこにあるのか。」ということになるのですが、衛藤氏は、当初は「永井さんが持っているはずだ」とおっしゃったのですが、永井氏に電話すると、「そんなことはない。返したよ。たしか、考古館≠ノあったと思うよ」とおっしゃったのです。
事実=A「考古館」に展示してありました。
その所在確認≠フ際、永井氏は、その「貝の加工品」のことは、「書いて発表しているよ」とも教えてくださったのです。
金関氏が九州大学に赴任された際に助手となられ、土井ケ浜遺跡発掘のメンバーであるとともに、金関氏の協力者、後継者として後には教室の教授となられた永井昌文氏は、『日本民族文化とその周辺考古編』〈昭和五五年十月発行 国分直一博士古稀記念論集編纂委員会〉という質・量とも立派な本の中に収められている論文=「土井ケ浜出土の異型貝製品」に書かれていたのです。

今は周知の国の史跡「土井ケ浜遺跡」の初年度の発掘調査は昭和二八年夏に行なわれた。
実はその前年に発見され、本調査の端緒となった物の一つがここに論究する貝製品である。





「埋蔵センター」の乗安氏がその『本』を所蔵しているからとして、親切にも「コピー」してくださったものを「写真」にしたのが「左」です。
まったく面識もない私に、極めて親切に対応してくださった永井氏へは篤く感謝申し上げます。


ここで逆に、「なぜ、発掘まで一年間の空白があるのか」ということが問題となります。

この私の問いに、永井氏は、「金関教授は弥生時代の人骨≠ニいう可能性が高くなかったら、発掘はされなかった」という、重要な証言≠された
のです。

そして、後日、『仁幾女』〈第六号〉にも次のような金関氏から衛藤氏に宛てた手紙が紹介されたのです。
手紙には、はっきりと、「弥生式人骨の研究」とあるのです。

◆ 二八・九・二四 投函(速達) 金関教授より

拝啓 其後 永らく御無沙汰いたしております、 御変りありませんか。
さて、乍突然 この十月六日より約一週間の予定で貴地土井浜の発掘調査をいたし度く存じます。
いずれ詳細は小野田高校々長小川五郎氏よりお願ひすることゝ存じますが、地主との交渉、調査人(約六名)の宿舎の件等について御手数を煩はし度く御多用中恐縮ですが何卒御高配のほど御願ひいたします。
調査人メンバー中には貴方の御名も無断で入れておきましたが何卒御承知下さい。
また調査中は 貴校生徒諸君の御援助もお願ひいたし度く、貴校長へもよろしく御願ひいたします。
主催、文部省学術会議第四部(人類学)「弥生式人骨の研究」
  メンバー、小川五郎、金関丈夫、坪井清足(京大)、   衛藤和行、牛島陽一(九大)、永井昌文(九大)これだけ決定しています。
時日十月六日現地着、七日作業開始、十二日作業終り、十三日帰途の予定です。なおくわしくは小川氏より申上ます。
先は右とり敢ずお願ひまで  草々



金関氏は、原田忠昭氏ら「教室の助手」に依頼しての予備調査≠ノ、自らの調査も加えられて、「青年研修所」建設の際はもとより、それ以前の「出土調査」から、「弥生式の人骨」の可能性を確信されたのです。
(この頃でも、当然「人骨だけ」で時代を決定することは無理でした。
但し、「発掘調査」の過程においては、人骨から、年代推定の方法が取れるようになったとのことです。)
原田氏は、「近くの角島≠フ出土品まで確認した上で、発掘に踏み切られた」と、証言してくださいました。

◆ 「角島」の「出土品」のこと

衛藤氏も、私の「発表」ですが、『仁幾女 第7号』において、

三一年一〇月一日(月曜)晴   

神玉中学校は昨日の運動会で代休。
中野美文、岡村寛子両教諭が出校。
奉仕作業は角島中学校との事前連絡が悪かったので心配していたが発掘開始までに生徒三十五名揃い、教頭田村美男氏指導のもと熱心な発掘が開始された。
昨夕の連絡で、前角島小学校長中藤敷蔵氏が角島出土土器を持参され作業参加。
発掘の諸先生に見て戴いたところ、当遺跡と同時代のものとわかった。
・・・・・
と記しておられます。

私は、この、元「角島小学校長」で「郷土史家」の中藤敷蔵氏が詳しいからと、父母の同僚教師であり、後には「町長」にもなられた佃 三夫氏に教えていただき、「電話」、「手紙」でお尋ねし、中藤氏から、「毛筆」による丁寧な「手紙」もいただいていますが、中藤氏は、「原田氏に 出土品 を見せたことはないので、別の方に、原田氏は接触されたのでしょう。」ということでした。
その原田氏と接触された方が「どなた」であるかはわからなかったため、「発表稿」には記していません。



事実、『日本農耕文化の生成』〈昭和三六年三月発行/東京堂出版〉という本が「二五の遺跡」の報告書であって、概報≠ノならざるをえなかった『山口県土井浜遺跡』の項であるにもかかわらず、

昭和二七年春「煙草乾燥場」建設に伴って出土した人骨・弥生式土器のこと、
昭和六年の「駒井」氏の弥生式土器破片採集のことは、
記されているのです。
(但し、なぜか、直接のきっかけ≠ニなったはずの「青年研修所」のことは記されていません。

つまり、「財政が豊かではなかった」当時、「すぐ掘る」などということはありえぬことだったのです。
学界がこぞって、ほとんど発見されていなかった=u弥生時代の人骨」を求めていたからこそ、踏み切られたことだったのです。
「京都大学」では発掘調査をしなかったのに、「九州大学」だから発掘調査をしたというわけではなく、時代の要請≠セったということです。

それに、既に触れたように、金関氏は、「京都大学」において、三宅氏の兄貴分であったのです。それが「清野事件」の関係で、三宅氏が「退官」されたのに対し、金関氏は「台北帝国大学」への転任をされたということで、それが更に、「敗戦」に伴って、「九州大学」に赴任されたということなのです。

しかし、実際の「発掘調査」においても、出土する≠ニいう確信≠ェあったわけではないようで、金関氏の当初の発掘予定地は、金関氏から衛藤氏にあてた手紙(二八/九/二八投函分=『仁幾女』六号掲載=)で示した図によると、「四ケ所」あり、「2〜4」は都合でやめるかも知れませんとあるのです。
「1」は、私の調べでは、「再埋葬地」ということなので、確信≠ェなかったということになるのでしょう。

衛藤氏によると、「試掘」もされているとのことですが、結局、「2」や「3」でなく、「4」の位置が中心となったのは、「註」のごとく、1メートル四方程度から出土したということと、「弥生式土器片」が駒井氏によって「表面採集」されていたことが拠りどころとなったのではないでしょうか。
また、「青年研修所」がまったく対象にされていないのは、工事の規模からして、「もう出てこない」と判断されたものではないでしょうか。

こうして、確信≠ヘなかったものの、「弥生人骨」の可能性を確認していながら、この「土井ケ浜」の発掘が、一時見送られうになったことがあるといいます。
今日、「三津永田遺跡」と称される地において、水害によって偶然甕棺が出土、相当量の弥生人骨が発見され、九州大学の金関研究室は、その整理に追われることになったからだといいます。
衛藤氏への金関氏の書簡に、場合によっては、一度出土した人骨を「再埋葬」したもののみを持ち帰ることになるかも知れないとあるのはこのためです。


13−[2] 「発掘」は一回切り≠ナ終了?

「発掘調査」開始後も、当初、思ったような成果があがらず、「一回」だけで「中止」が検討されたことがあると、金関 恕氏は教えてくださいました。
このことは、衛藤氏が、『仁幾女』に発表された金関丈夫氏から衛藤氏に宛てた「手紙」でも裏付け≠轤黷ワす。
しかし、 金関氏の一回目の発掘時の状況から、人骨の出土する箇所の推測≠ェ衛藤氏に伝えられ、その依頼≠ノよって衛藤氏の単独発掘調査の継続≠ェなされ、
その結果、調査は継続となり、周知のように、五次まで実施され、多大な成果が得られたのです。



◆ 「発掘調査」の「調査年別の出土人骨数」

[第1次調査(昭和28年)]
弥生式 人骨約10体(その内完全なもの成年女子1、成年男子1、未成年女子1

[第2次調査(昭和29年)]
人骨 (比較的完全なもの) 40体

[第3次調査(昭和30年)]
人骨 (比較的完全なもの) 55体

[第4次調査(昭和31年)]
弥生人骨 15体

[第5次調査(昭和32年)]
人骨 22体

『昭和53年度文化庁補助事業 史跡 土井ヶ浜遺跡 保存管理計画策定報告書
』 豊北町教育委員会 昭和54年3月31日
U 土井ヶ浜遺跡発掘調査略史」から抜粋
金関氏の「依頼」にもかかわらず、衛藤氏の「個人的な発掘」「結果」がでなかったのみならず、もしも[第2次調査(昭和29年)]「調査区域」が、[第4次調査(昭和31年)]「調査区域」であったとしたら、この「土井ヶ浜遺跡」重要性が「認識」されることはなかった「可能性」があるのです。
「金関発掘調査」が、衛藤氏が「九州大学」「人骨の出土」を「連絡」されたから、ごく、自然に℃タ施されたかのように「解説」しているこれまでの¥煤u文献」・諸情報は、少なくとも=A「発見・発掘史」からいえばおかしいということです。



13−[3]金関発掘」の結果
 「一次」から「五次」にわたる調査の結果、「土井ケ浜遺跡」は、「弥生時代の集団墓地」とわかり、学界にセンセーショナルな波紋を広げることとなりました。
(但し、「弥生時代」の遺物のみではないことは"概報"にも説明がある。)
そして、金関氏は、出土人骨をもとに、師の一人、清野氏の「混血説」を別の角度から発展させ、大きな業績をなされたのです。
現在もなお(というより、以前以上に)、いわゆる「金関の渡来説」は、その後の研究進展の中で着実に評価を高め、今日の日本人起源論の主柱となっているのです。

なお、出土人骨総数は、一応、
昭和六年の六体            
発掘以前の採集人骨  三体         合計 二○七体
再発掘の人骨 二三体           
金関発掘での純粋な発掘数 一七五体

と、"概報"という『日本農耕文化の生成』「山口県土井浜遺跡」では発表されているが、それ以前の発表数より、多少増えているのはもとより、九州大学で引き続き研究の結果、「一七五体」の中の「一体」とされてきた人骨に「六〜七体」の可能性があることがわかったのは特別としても、他の数体についても、複数の可能性があるらしく、研究の進展とともに、人骨数は変化しているのです。
 そして、後にふれる坪井氏の注意≠契機に、「土井ケ浜遺跡」は、再び、発掘を継続する状況が生じ、主体を「山口県・豊北町」に移して続けられ、「縄文人的な特徴をもつ人骨」の出土が報告されるなど、「土井ケ浜遺跡」は、いまなお、熱い視線を浴び続けているのです。



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