[答え] まずおさえておきたいことは、三宅宗悦氏が、なぜ、発行して間がない(1930(昭和5)年8月20日「第一号」発行)「山口県」の『郷土研究誌』に「発表」されたかということです。(1932(昭和7)年8月刊の『第三巻第1号』に発表)
それは、三宅氏が、旧制「山口高等学校」の「郷土史研究会」の主力メンバー同志≠ナあり、かつ、親友の小川五郎氏が、「京都帝国大学」の浜田耕作氏のモトで学ばれ、卒業されて、母校==u山口高等学校」に着任され、「歴史・考古学・文学」と、多方面の活躍をされ、その発表手段≠ニして、『防長史学』の刊行を思い立たれ、三宅氏に、「発起人」の一人として加わることを依頼されたカラだということです。 しかし、「山口県」の「土井ヶ浜」のことですから、『防長史学』に「発表」されるのは自然なこと≠セとしても、全国にアピールするには、有効≠ニは言い難いハズでした。 それなのに、その「発表」が、注目されたのです。 三宅氏は、優れた「人類学者」であったということですが、当時≠ヘ、マダ、著名≠ニいうワケではありませんでした。 その三宅氏の地方誌に「発表」されたことが注目されたのは、当時=A「病理学者」としてダケでなく、「人類学者」としても著名≠ネ清野謙次氏の「助手」であったということが「効果的」であったのです。 しかし、それダケなら、金関丈夫氏も、「土井ヶ浜」というところから、「古墳人骨」が出土したらしいという程度≠フ「認識」しかなく、当然=A二十年後までも「記憶」に留めておかれるということはなかったと思われます。 それなのに、金関氏が記憶≠ノ留めておかれ、土井ヶ浜遺跡という「名称」を受け継がれ、かつ、駒井和愛氏が、「弥生式土器」を見つけておられたということを「発掘調査」に踏み切る=u理由」の一つ≠ノされたのは、三宅氏と金関氏は、「解剖学教室」、「病理学教室」と、所属は違いますが、「清野」氏のもとで、兄弟弟子≠フような関係にあったということがあると、私は思います。 当然=A三宅氏の手で、直接=A金関氏に、発表誌==w防長史学』は、手渡されたのです。 二人の仲がよく、「弟弟子」の三宅氏が、金関氏の解剖時の助手を何度もつとめられていることは、複数の方が書かれていますが、浜田氏のモトで、「助手」として研鑽を積まれていた斎藤 忠氏から、私は、直接=Aお聞きしています。 三宅氏の「伝記・業績」の類を見るに、「土井ケ浜遺跡」との関係を記したものは見かけられず、はたまた、「古墳人骨」の出土というダケでは、「土井ヶ浜遺跡」が今日≠フような「評価」はされなかったハズで、土井ケ浜≠ニの係わりは、三宅氏の業績としては些細なのでしょう。 しかし、金関氏によって、「弥生人骨」として「認識」され、のみならず、「出土人骨」をモトに、「日本人」の起源≠語るための有力な=u遺跡」として定着≠オたことによって、三宅氏と「土井ヶ浜遺跡」とのかかわり≠ヘ、広く£mられることになり、既述のように、兄弟子=°煌ヨ丈夫氏によって、かつてここに三宅の足跡ありき≠ニして、遺跡名に「土井ケ浜」の名が踏襲されました。
私は、戦死した弟弟子≠フ功績≠フ一つとして、後世にとどめようとされたのだと思うのです。 それは、清野氏の薫陶を受け、しかし、その清野氏のゆえに、「京都帝国大学」を去ることになった二人であるがゆえの、金関氏の思いやり≠ナあったと、私は思っています。 |