[答え] そもそも≠ヘ、 『日本農耕文化の生成』において、「参考文献」としてあげられるに際し、誤記されているのが原因ですが、 その後、その誤記を正す≠ヌころか、孫引き≠ナ済ませ、『原典』にあたろうとしない学者≠ェ残念ながら¢スいのも、「原因」です。 ただ、『防長史学』の「昭和49年発行」の「索引」に、三宅氏の「報告文」が抜けていたことも一因と思われます。 (なお、「山口県文書館」にある『索引』には、私が指摘した結果、「館員」の方の手書きで書き加えられて≠「ます。)
このように、地方の「雑誌」に記された三宅氏の「報告文」が、「山口県」以外≠フ研究者の目に触れるということは容易ではない≠ニ思われ、このことからしても、 三宅氏が、清野氏のモトにおける「研究者」であったこと、 さらには、三宅宗悦氏と金関丈夫氏とが清野謙次氏のもとで研究しておられた「兄弟弟子」であったということの「意味」は大きいと思います。 |