4 祭りと性
ところで、このような神祭りと平行して、村々には野遊びの神事があったと考えられています。古代では村の繁栄は、人口の増加と食べ物の増産が中心ですから(今でもあまり変わりませんが)、両者は同等のものと考えられていました。そこで食べ物がたくさんとれるようにということで、自分たちも子作りに精を出そうというのです。これは春に行われます。種を蒔く時期に行って、土地神に秋に豊かな稔りを約束してもらうという考えです。これを予祝といいます。そして自分たちの性と生産とを関連づけることを共感呪術と呼んでいますが、この原理は現代でも御田祭りなどに見出すことが出来ます。例えば明日香にある飛鳥坐神社の御田祭りは、2月頃におかめとひょっとこの面をつけた2人がセックスをするしぐさをします。面を着けるということ自身が神になっていると解釈されるものですが、それによって田の精霊を興奮させ、豊かな稔りを約束させようというわけです。
しかしいきなりあんたとHしようよと言うわけではありません。まず村の男女が野原などに食べ物や飲み物を持って集まります。そして歌の掛け合いを行います。「ちょいとそこの女の子。きれいだね。今晩どうなの??」と男が歌います。「あんたみたいな醜男なんてイヤよ。」と女が断ります。「そうは言わないで今夜だけ。いいじゃない」と男があきらめずに誘いをかけます。「それじゃしかたがないわねぇ」と最後には女が許します。この誘い歌、断り歌の理知的なやりとり歌を集団で歌うか、個人単位で歌います。もちろんこの歌は村の伝統的に伝わっているものや、即興的なものだったのでしょう。というのがモデル的に考えられるものです。これを歌垣とも言っています。現代でも中国奥地や東南アジアの少数民族の間に見られるそうです。
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも(万葉集 巻1・1)
万葉集開巻第1番目の歌です。作者は雄略天皇と伝えられていますがウソでしょう。詳しい説明は省きますが、歌の内容を見ると、山菜採りに来ている処女に求婚しているいわば誘い歌と見ることが出来ます。「大和」というのは万葉集成立頃は日本という意味になりますが、本来は大和という地名発祥の小さな村を指していたと考えれます。
このような誘い歌は、記紀歌謡にも散見されます。
天皇、八田の若郎女を恋ひたまひて、御歌を賜ひ遣はしたまひき。其の歌に曰ひしく、
八田の 一本菅は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原 言をこそ 菅原と言はめ あたら清し女 (記歌謡 64 )
矢田の一本生えている菅は子を持つこともなく立ち枯れてしまうのだろうか。もったいない菅原だ。言葉では菅原というが、もったいない美しい乙女だ。
仁徳天皇が八田若郎女(やたのわきいらつめ)を恋い思った歌と古事記には伝えられていますが、実際は歌垣で男が女を誘いかける歌だったのでしょう。現代でもよく似た民謡が各地にあるようです。我々でも目の覚めるような美人を見たとき、もう誰か恋人がいるのかなあとため息をつく、その発想に似ていませんか。
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下娉ひに 我が娉ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ (記歌謡 78)
とうたひたまひき。此は志良宜歌なり。又歌曰ひたまひしく、
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも (記歌謡 79)
愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記歌謡 80)
とうたひたまひき。此は夷振の上歌なり。
あしひきの山に田を作って、山が高いので水を引く水路を地中に走らせる。そのように密かに心の中で自分が恋い思う妹で、密かに自分が恋い泣いている妻であるから、今夜こそは親しく肌を触れようよ。
笹の葉に打つように降りかかる霰はタシダシと聞こえる。そのように確かに本当に誘い寝ることが出来たら、その人と別れたとしても、ええいどうでもいいわい。
愛しいとして共寝さえ出来れば、刈り取った薦が乱れるように二人の仲が離れ離れになってもよい。共寝をすることが出来さえすれば
それぞれに志良宜歌とか、夷振の上歌とか歌曲名のついている歌です。物語では允恭天皇崩御の後、軽太子と同母妹軽大郎女との密通事件の歌になっていますが、実際は歌垣であったものが宮廷歌謡となり、物語に使われたのでしょう。一時の享楽を誘う内容です。相手はその気になったでしょうか。
次に歌垣の歌と思われるものやその伝統を引き継いだ歌をそれぞれのテーマ別に掲げてみます。