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第1章 内海普通海員養成所
 
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第1章-1 旅たち~養成所での恐怖の毎日

私は、昭和五年三月十三日福島県船引町の貧しい農家の次男として生まれました。
私が七歳で国民学校に入学するその頃は貧しいながらも平和で大好きな甘いものが食べられました。
しかし二年生に上がった頃から、支那事変(日中戦争)が勃発し日本が徐々に巻き込まれだしました。
私が卒業する頃にはもう戦争たけなわでした。
学校では毎日毎日が勤労奉仕で、出兵兵士の家の野良仕事を手伝わされ、満足な勉強も勝利の日までお預けと食料増産に励む毎日でした。

三春しだれ桜

卒業後は、飛行機を作ることに憧れ、先輩が入社している日立航空機の入社試験を受けるつもりでした。しかし、その会社の入社案内を音楽の時間
無我夢中で見入っていたところ、先生に呼び出されそのパンフレットで頭をぶたれてしまったのです。なぜかその瞬間、すっかりいやになってしまったのです。
なんと単純なことかと笑われるでしょうが、数日後、駅などに貼ってある船舶運営会の募集のポスターが目につき、見たこともない景色の写真にひきつけられ
てしまったのです。
そして椰子の実や土人、南方航路を夢みて入社を決心しました。

戦争は少しずつ負け戦であったようで、若者はどんどん軍需工場に動員させられていました。
その人手不足から試験らしい試験もなく、口答陳述と体格審査だけで合格してしまいました。
十四歳にして「お国のため」と、私ともう1人は軍属として船舶運営会に、他のものは軍事工場に志願したのです.
その時の私の心境はお国のために死ねることを誇りに重い、死ぬことなど少しも怖くなかったのです。

朝鮮事変


昭和十九年四月十日、東北は春といってもまだ寒さ厳しく、野山には雪がいっぱいありました
いよいよ出発の日です.母は、出産のために特別に配給された布で服を作ってくれました。ものがない時代であり、服といっても水に濡れれば縮むような
中が透き通ってみえるじんけんのペラペラの服でした。今まで着物しか着た事がない私はなかなかなじめなく困りましたが、母の優しさが肌に感じられ
十分温かったのです。年寄りは涙を流し、いつの日会えるかもわからない悲しみにただ手を振るばかりでした。
隣の駅で同級生の江川という馬喰(馬などの売買人)の息子のガキ大将が乗ってきたので、いろいろ話ができ心強かったです。
集合場所の白河駅に着くと、トランクや行李を持った「会津」や「中通り」などの福島組で一杯でした。ここで班を組まれ、注意事項を聞かされた後はまるで
奴隷のように汽車に乗せられました。私を見守っていてくれるだろう父の顔を見ることも許されず路東京へ向かったのでした。

  汽車の中では注意を聞かなければビンタがとんでくるので怖かったし、不安と寂しさでただ茫然と窓の景色を眺めていました。しかし、どんどん近づく都会
は珍しいものばかりで、いつしか窓に顔を押し付けて見入ってしまっていました。

  上野駅に着き、まず第一に驚いたのは人の多さでした。また、電車のドアーが自動的に開くのが、挟まれそうでとても怖かったので、すぐ降りれるようにと
入口の側を離れませんでした。 
  浜松町の駅で降り、デパート白木屋に到着しました。ここが、船舶運営会本部です。ここで夕食・・・・といっても薄暗いホールでお茶も水もなくそれぞれが
持参した握り飯を食べるだけですが、一応食事をしました。休憩の後、夜行に乗るとのことでした。休憩といっても動くと遠慮なく殴られました。



関東・東北組みが集まり、灯火管制の薄暗い町を東京駅へと歩いていきました。
そして十時の臨時夜行に乗せられ名古屋に向かいました。何とか椅子には座れましたが周りを見回しても知らない人ばかりで、胸がはちきれんばかりの
不安と寂しさの中で眠りました。

朝方、まだ半分しか開いていない目に写った窓の景色は、いっぺんに眠りから覚まさせてくれるものでした。すでに、桜も散っているではありませんか。
東北とは比べものにならないほどここは暖かいのです。 「ずいぶん遠くにきたもんだ。」と感心してしまいました。

七時、熱田駅(名古屋)に着き、下車するとすぐ整列。歩調を整え、憲兵の監視の中、熱田神宮へお参りをしました。
終わるとすぐ、電車に乗せられ知多半島の河和駅まで連れ行かれました。そこで荷物を馬車に乗せる事になったのですが、送ったはずの私の荷物が
見つからないのです。心配だが、まごまごしているとすぐ殴られてしまうので整列し歩き始めました。

そこから一山超えるのですから、喉は乾くし汗は出るわでへとへとです。
何時間も掛かってやっとの思いで目的地の内海普通海員養成所に到着しました。

地図内海

そこの大きい食堂で出た昼食は、黒い豆粕の飯に梅干し、豆腐の味噌汁でした。あまりのまずさにほとんどの者が残していました。
少し休むとすぐ整列させられ、見るからに怖そうな男が、
「貴様等、言われたことに手を挙げろまず、寝小便する者」と言いました。
私の横の者がちょっと笑ったら、たちまち男がやってきて顔が腫れるほど殴った上に蹴りもしました。
一瞬にして緊張感が食堂全体を包み込みました
そんな事にはお構い無しのその男は、「目の悪い者.。手足の悪い者」と、「あっち」「こっち」と区分けして、約六百人をあっという間に三十四班に編成して
してしまいました。
私の班は群馬・福島・三重の三県の連中でした。
いろいろ注意を受けた後、「煎り豆、乾燥餅など食べ物を全部出せ」と命じられました。金額を言ってお金も全部出させられました。
「もし、後から出てきたら覚悟しろ」と脅かされ皆こわごわ、隠さず出していたようです。
「これで、全員平等だ」と、勝手な行動を抑圧されて三十四班は水野寮に入りました。
寮と言ってもちょっとした小さな旅館なのでトイレがそれ程多くなく困りました。小便所、大便所が二班に一つしかなかったので、夜中でも常に満員で
お腹でも壊したら大変な騒ぎでした。

自由な時間は手紙を書いたり小さい声で話すぐらいでした。寝る時はさんまを並べたように、隙間なく三列に毛布を敷き、上に毛布を二枚かけるだけの
雑魚寝でした。いびき、歯ぎしり、寝言とゆっくり寝れもしません。風呂は小さいのが1つあるだけなので教官が入るぐらいで私たちは入れません。
どうせ石鹸も配給で無いからあきらめるしかないのです。当然、一夜にして多数のものが脱走しました。

翌朝六時起床、五分で毛布をたたみ奇麗に積み重ね身ずくろいを済ませる。少しでも乱れていると何回でもやり直しさせられる。
点呼の後、海岸や野を走らせられ神社で海軍体操をさせられる。
朝食はいつもと同じ豆粕飯に梅干・味噌汁だが、腹ペコだったので美味しいこと美味しいこと、何杯でも食べたかった。他の人の丼の方が盛が多いようで
妬ましく感じるほどであった.。

内海海軍学校

九時、海岸に全員集合し、軍艦旗掲揚ラッパ氏の吹くのに従い旗に全員敬礼、そして分列行進。足が合わないとすぐ、教官が飛んできてどつき、蹴る。
ラッパに合わせて綺麗に行進できれば、次は服装点検。ここで焼き米やいり豆などが見つかればそれはもう大変。腕立て伏せをさせられ、精神棒で
立てないくらい殴り倒される。
所長の挨拶、そして注意が終わればラッパによる駆け足解散。 次に班ごと分かれて、機関は投炭訓練、甲板はモールス信号・手旗信号の訓練。
毎日毎日、練習といっては殴られ、訓練といっては蹴られた。
風呂にも入らないのだから、蚤(のみ)、虱(しらみ)が湧き体中がかゆくシミだらけになってしまいました。

日曜日は朝礼が済むと、外出が許される自由な時間が与えられる。自分の預けたお金の中から一円だけもらい、店屋に向かうが、食べ物が売っている
ところはいつも黒山の人だかりである。仕方ないので、沢庵漬けを買って食べた。その後、夏みかんを買ったが酸っぱかった。
腹一杯になると海岸でごろ寝した。洗濯をしようにも、たらいが二つしかないのだから出来る訳がない。だが此の日ばかりはのんびりできる。

しかし、自由な一日も夕方の集合時間に遅れれば一転してしまう。一分遅れる毎に一発と、腕立て伏せの後、精神棒でおもいっきり殴られる。
その痛さといったら並ではない。うなり、転げ回る。

これだから、夜中になると、のそのそと泥棒顔負けの忍び足で脱走する者が後を絶たない。班のうち半数以上が脱走した組もあった。一晩中歩き続け
昼間は山に隠れるが、河和の駅で乗ればすぐ警察に捕まってしまう。熱田駅に着けばやはり憲兵に捕まり帰されてしまう。
泳いで釣り舟に助けを求めるものもいた。

数日たって、届かなかった私の荷物が駅にあるとのことなので、外出許可をもらい、バスに乗って河和の駅に取りに行く。荷物を受け取り、帰りのバスを
待っていると隣にいた婦人が私の荷物の送り先を見たらしく、「内海養成所の生徒さんですか?」と尋ねてきた。
「そうです。」と私が答える。
すると、側にいた面会の、生徒の母やら姉らしき人やらが、私を囲み矢継ぎ早に、「腹はへりますか?」『厳しいですか?」と心配そうに聞いてくる。
自分の母もきっと同じように私のことを気にかけてくれていることだろうと思うと、何とも言えず胸が苦しくなった。
『面会に行くので案内してほしい」と言うので、一緒にバスに乗り、寮に戻った。
内海は本来観光地で、戦争がなければ夏は海水浴客で賑わうところなのである。本館、別館、南州館、長字屋と旅館はすべて私たちの寮となっていた。

相変わらず、朝夕軍歌を歌い行進、朝礼終礼の毎日であった。自由もなければ、笑うこともできない。そればかりか、暴力をふるわれるのだから虫けらの
ような扱いであった。

そんな私たちのうっぷんばらしに、この町に住む頭のおかしい男は格好の的であったのだろう。行進の時、先頭の者が、「馬鹿。馬鹿。」とからかったり
石を投げたりするのである。
ところが、この気違い、怒って棒で殴ってくるから参った。それも、服が皆同じで見分けがつかないらしく誰彼構わず襲い掛かってくるから怖い。 
何の関係もないのに殴られるのだからとんだ災難である。
「からかうな。」と注意するのだが、まだいたずらしたい年頃なので、また誰かやり出すのである。 気違いとは執念深いもので、忘れた頃襲ってくるから
運が悪いものは不意に殴られる。これでは、うっぷんばらしどころかよけいにイライラが募ってしまう。

訓練で一番嫌いだったのは棒倒しや騎馬戦である。どうしても負けられないのである。なぜなら、負けると、勝った組と向かい合わせに並ばされ、殴られなければならないからである。友を殴るのも、友に殴られるのも辛いが、手加減すれば、「このように殴るんだ!」とおもいきり殴り倒される。
殴るか、殴られるか。生きるか、死ぬか。仲間同士でさえこのように争うことを強制されるのだから、戦争教育とは本当に恐ろしいものである。私たちの中に、
『勝つか」 「負けるか」という二つに一つの厳しさを植え付けていったのである。喧嘩・殴る・蹴るの死に物狂いの棒倒し。
その迫力と言ったらとても言葉では言い表せない。今の運動会など、かわいいものである。

手旗信号も、教官が書いたものを読めないで手を挙げなければ周りの教官がどつくから、わからなくても全員手を挙げる。大勢だから大丈夫と思っていると、
「前から何番目」とか、「この列後ろから何番目」と容赦無く指してくる。
指されて、わからなければ、「前に来い。」と呼ばれ、「馬鹿野郎。」とビンタを食わされた。
訓練が終わって寮に帰れば、「脱走するためのお金を送ってもらう者がいるから。」と荷物の検査。手紙は検閲。食べ物は取り上げと、豆粒一つでも公平に分けられた。

苦しい訓練の毎日の中、唯一の楽しみは友達からの手紙である。田舎の様子が記されていると、もうなつかしくて一ヶ月もたっていないのに、帰りたくて帰り
たくてしょうがなかった。帰って白飯を腹一杯食べたかった。本当に家に帰りたかった。

第1章-2 横須賀海軍対潜学校


ある日、朝礼の後、いつもと様子が違っていた。全員一列に並ばされ、一人一人姓名と生まれ故郷の住所を聞かれた。私も皆と同じように直立不動の姿勢
をとり大きな声で申告した。すると、
「一歩、前へ」と言われた。
何名かの者が、同じように前に出た。
「前に出た者は、整列」と言われ、急いで整列する。
次に、懐中時計を取り出し、一人ずつ順に椅子に座らせられ、「聞こえたら、すぐ手を挙げろ。」と、時計を耳に近づけたり放したりして耳の検査をされた。

この中から、横須賀に行くものを選んでいるらしい。いったい何が基準かは知らないが、頭がいいわけでもないのに、なぜか選ばれてしまった。何百人の中の第一段として二十人が選ばれた
横須賀に行く者は、一週間の特別訓練を受ける。海軍に入っても、内海の恥じにならないようにと敬礼の仕方から服のたたみ方、行進、そして機敏さをさんざん仕込まれる。
靴を履いたり、脱いだりの早さの訓練もやらされたが借りた靴は布の所がペシャンコだし、紐がペラペラで思うように履けず、一秒を争って泣かされた。

いよいよ出発の日である。午前中は準備に追われ、昼食は特別にとうもろこしのご飯に味噌漬けである。二食分の弁当を持たされ、教官に連れられて駅に向かう。
また、夜行に乗せらる。汽車の中は、兵隊の家族とか公用軍人で一杯でとても座れるどころではない。しょうがないから通路に座り込み、水なしで弁当を食べる。考え無しに全部食べてしまった。
うとうと眠って、朝五時頃腹が減って目が覚めた。しかし、夕べ食べ尽くしてしまって何もないのでがまんするしかない。

まもなく、横浜の駅に到着した。上野の駅でも驚いたが、ここもまた違った雰囲気があって、見るものすべてが珍しく落ち着かなかった。駅出口の隅のほうで休憩を取る。鼻の高い外人が歩いているとみんな、「ほらほら」とか、「来る来る」と突っつきあって、見えなくなるまでずっと見ていた。
しかし、やはり制服制帽のマドロス姿がみんなの憧れの的であった。

横浜地図

時間があったので、「横浜・横須賀の者は家へ帰っても良いが、二時間したら全員遅れずに集合の事」と許可が出る。
みんな、喜んですっとんで帰って行くのが羨ましかった。ドイツの海軍とか、髪の色がいろいろに違う外人を見ているのもおもしろく、退屈はしなかった。
九時ごろ、再び集合して京浜急行という綺麗な電車に乗る。三両の車両の中はどこも海軍の兵隊さんで一杯だった。外の景色は麦畑とトンネルばかりである。浦賀駅で下りると目の前に造船所があり、そこにある大きい貨物船を見てビックリした。船とは思えないほど大きいのである。
「いやはや、こんなに大きいものが動くのだからすごい。」

京浜急行


そこから、曲がりくねった道を歩き、トンネルを抜け、山の上の海軍対潜学校に着く。入り口には銃を持った歩哨が立っており緊張感が高まる。教官が許可を取りに行き、全員歩調を整えてそこを通過する。
点検・規則・注意を受け、食堂で昼食を取る。金の茶碗には麦飯と塩昆布が一杯入っており、肉の入ったシチューまであった。
箸も金である。朝飯を食べていなかったせいもあるが、こんなにおいしい食事は生まれて始めてであった。
「良くやってこい!」と教官は私たちを励まし帰っていった。

休憩後、今まで着ていた虱(しらみ)だらけの服を全部脱がされ、熱湯消毒に持って行かれた。代わりに海軍の水平服を貸してもらう。
痒い痒い虱ともお別れである。

今日から海軍式で訓練、講習を受ける。水測兵・水中聴音器士の勉強をするのである。係りの者は帽子に白線の入った甲板下士である。
何だか気分はすっかり海軍水兵になったようで嬉しくなる。新しい出発にまた気持ちも新たになる。
まず海軍は何でも5分前を知らせる笛が鳴る。その間に全部準備を済ませ、総員起こしの時、何秒かで毛布をたたみ、整列・点検・番号・異常なしとやる。出来なければ何回でもやり直しさせられる。班単位であるので、ほかの班にに負けないよう競争である。負ければもう一度やり直しさせられる。
次に整列して海岸や麦畑などを走らされる。そして海軍体操と忙しい。

朝食は麦飯にみそ汁、めざしである。運動が激しいので食事はおいしい。食事の後は、当番以外自由に休憩できる。兵舎はトイレも多くゆっくり入れる。内海より人間らしい生活である。
講習を受けたのは、私たちを含め高浜官立海員養成所と各汽船会社からで60名位であった。
授業は兵曹長が先生で音感教育をするのだが、これが私にとっては難問中の難問であった。何を聞いてもみんな同じに聞こえてしまう。水兵を呼び同じように音を聞かせると、「ハニホ」とか「ハホト」とかどんな音でも聞き分ける。
不思議で不思議でちんぷんかんぷんである。ラジオもない田舎の百姓の山猿には、「馬の耳に念仏」である。
見たこともないコンデンサーとか抵抗充電とかヒーター、蓄音機など理解出来るわけがない。蓄音機など中に小さい子供が入っているぐらいにしか思っていないのだからとてもついていけない。

わからないからおもしろくないし、陽気は良いしで眠たくて眠たくてしょうがなかった。
授業が終わると手旗信号や兵舎の外のかけ足などをやる。授業なんかより全然楽しかった。この時ばかりは妙に張り切ってしまった。

ここでは夕方お風呂に入れる。みんな裸で4列になり手拭い鉢巻きで手を挙げ順番に静かに湯船に腰を下ろす。そしてゆっくり進んで、絶対湯船を汚さない。それが海軍式である。

夕食はだいたい芋のにっころがしと魚である。いつもおいしい。
食後はやはり当番以外は自由である。しかし、整頓や規則は守らないと班全員が制裁を受けることになるので皆絶対守った。
八時半、寝る用意の開始である。三列に毛布を並べて敷き、班ごと固まって寝る。用意が遅ければ何回でもやり直しさせられる。
九時、消灯ラッパが鳴り巡検の合図の笛があり、順羅隊が回ってくる大きな声が聞こえると、みんな静かに眠ったふりをする。班長が「内海講習員何名異常なし」と報告する。隅々まで点検される。ここで落ち度があると大変なことになるので、布団の中でどきどきしている。寝る寸前まで気が休まらない。
再び笛が鳴り巡検終了を知らせる。途端におしゃべりが始まり、一番幸せ時間を過ごす。訓練の疲れから間もなく眠ってしまう。

朝起きるにも、何をするにも、段々と要領がつかめると少しずつ慣れて、てきぱきと早くできるようになる。

今日は日曜日なので休んでいると、号令がかかった。横須賀に「三笠鑑」を見学に行くとのことである。全員大喜びで準備する。
すぐ整列し、駆け足で曲がりくねる道を通って浦賀駅にいく。
青々とした山の景色を眺めながら電車に乗り、横須賀中央駅で降りる。廻りには海軍兵舎、海兵団があり、それらの兵舎には銃の先に着剣をつけて鋭い目でにらんでいる兵隊達がいるので何となく緊張してしまう。どこをみても兵隊だらけである。常に周りを見回している。初めて、短剣を下げた少尉を・大尉の姿を見たがやはり凄いと思った。

戦艦三笠

周りの兵隊達は彼らを見ると、パッパッと敬礼をする。
「一般の水兵は、敬礼敬礼でろくろく歩けないんではないか」と思う。
「キョロキョロしているとスパイと間違えられるぞ」と教官が言う。
しかし、何を見ても珍しい物ばかりで興味があり、ついキョロキョロしてしまう。
間もなく三笠艦に到着する。不動の姿勢で敬礼。番号。何名。銃剣をつけた歩哨の許可を取り、二列に並び整然と見学する
「誰々一等兵の戦死跡。」とか元帥(げんすい)の衣服。」など色々見て回る。ただ、ただ関心したり、中の広さに驚く。
映画館のような広さである。とても船とは思えない。想像以上に船とは大きい物だと驚き通しである。
見学が終わると整列し、「何名異常なし」と報告する。戦時中なのでお土産を買うわけでもないし食べ物が売っているところがあるわけでもないし、ただ水筒の水を飲むぐらいである。
途中原っぱで、「折り式休憩」でやすむ。「折り式」とは何時でも戦闘態勢が出来る休み方で、腰を下ろして、鉄砲を空に向けて撃つような格好である。

休憩を取りながら二時頃隊に帰る。すぐに食事である。もう、腹がぺこぺこだったので飲むように食べた。本当に今日は楽しく、とても勉強になった。

食事の跡は、当番以外は軍艦旗降下までは自由時間である。手紙を書いたり、故郷の話をしたりして過ごした。あと1週間で卒業試験である。
「勉強しなければ」と思うのだが、解らないので焦るばかりである。
「充電中の現象は試験に出る」といつでも言われていたが、見たことも聞いたこともないから意味が解らず、「比重がどうの」色が乳色に変わる」と丸暗記するだけである。

月曜日の授業は眠く、「居眠りするな!」と全員注意されていた。だらけきっていた。
何とか授業も終わり、夕方、和気あいあいと笑いながら食事の準備をする。準備が整い、「ピー」と教官が笛で食事開始の合図をする。みんな一斉に食事をはじめる。すると、「ピー」とまた笛が鳴り、「食事終わり」と言う。
「冗談だろう」と気にせずみんな食べ続けていると、
「ピピー、ピピー」と強く笛が鳴り
「総員片づけろー」と怒鳴られた。「ああ、どうしよう」と思いながらも焦って片づける。どんどん捨てられていく食べ物を恨めしそうにじっと見ながら、
「もったいない」と心の中で呟く。
「貴様達はたるんでいる。一食抜きの制裁だ」と言われる。
何も言わずにただ頭を下げて説教を聞く。お腹が空いていて人の話どころではない。
海軍では食事は一善飯と決められている。仏様ではあるまいし一善飯とは情けない。育ち盛りの食い盛り、一善だって足りないのにその一善飯さえ抜かれたのだから、腹が減って、腹が減って夜眠れない。
なかには、夜中に起きて残飯を食べに行く連中もいた。「旨かった」と言う者もいた。

ここでは、内海と違って私たち民間の講習員には殴ったり蹴ったりはしない。その代わり制裁として、兵舎の回りをを何回も走らせられた。紳士的といえば紳士的である。
教官と私たちは親と子程年齢が離れていたせいか親切で、土曜日の卒業試験に出る問題を一生懸命、念を押して教えてくれた。また、授業中も叱らないのでよく居眠りをした。しかし、良い気分になる頃、山の上で、隊の東京湾をにらむ戦闘訓練の空砲が撃ち鳴らされた。そのもの凄い音でみんなびっくりして目を覚ますのである。

今日から実習の準備開始である。朝食が済むとすぐ弁当を班毎に詰め、大きい補音器、水中聴音器一型二型を積み内火艇で浦賀港停泊船に行き、機器を船に上げる。補音器が大きいし重いので、甲板から吊り降ろすのが大変であるが、取り付けてしまえば、後はレシーバーを耳に当て、発動機船がディーゼルエンジンか汽船か軍艦かと音を聞き分け、上の船橋で方位を取る組に報告するだけである。交替制なので、自分の番以外はまるで遊びである。

調音器

すっかりピクニック気分である。広い海、行き交う船、出船入り船で忙しそうな港、何もかもが珍しく小さい子供のように、「あれ!手旗信号をやっている」「魚雷軍艦汽船だ」と前に行ったり後ろに行ったり、エンジンルームを覗いたりして、はしゃぎ回っていた。
海から眺める風景の中での、麦飯に海苔の昼食。学習だか遠足だかわからなかった。

夕方、沈めた補音器を上げ、機器を内火艇に積み帰る。艇を前進後進と動かす機関兵はきっと頭がよいのだろうと話しかけたりしてみた。

こうして3日間の実習が終わり、卒業試験である。試験官が「点数のつけようがないから、何でもいいから書いておけ」と言う。
「出来たものから外に出て良い」と言うが、私は最後まで残った。何を書いたか夢中で覚えてないが、半分くらい出来たような気がする。
午後からはランチに乗ってから沖の駆潜艇に乗り移り、潜水艦攻撃訓練爆雷投下演習見学である。初めて乗る小さい軍艦だが、水兵たちがてきぱきと仕事をしていて勇ましく感じる。

龍が泣くような汽笛で出向準備完了である。グググゥーと機関の動く音と同時に音水伸器が回る。立って話を聞いていたのでぐらつき驚く。風を切りぐんぐん湾を離れて千葉沖に向かう。勇ましい。
揺れる中、私たちは爆雷について抗議を受け、信音(爆雷などを炸裂させるために、弾頭につけてある装置)とか、何秒後に爆発するかの時間測定について講義を受けてから潜水艦に対する攻撃などの映画を見たりした。食堂兼ホールは蒸し暑く酔う者もいた。

甲板に上がると風があるので気持ちよかった。すでに東京湾を出ていた。艦橋には、危険を知らせる赤のBの旗が上げられていた。旗流信号で回りの船舶に
「キケン、チカヨルナ」と知らせる。近いところには手旗信号を使って知らせる。
危険のないことを確認した後で、
「爆雷戦用意!配置につけ!」の声。ほんの何秒かで用意完了。みんなテキパキと合図に従う。
「信管何秒、何々用意よし」緊張の一瞬。「投下!」の声。全速力で遠ざかる。
2,3分してもの凄い音と同時に海面が山のように盛り上がる。初めてみるその迫力にただ呆然と感心するだけである。

 

機雷 

機雷

帰りはよってしまてふらふらになる。「そんなことで船乗りになれるか」と先輩の水兵に笑われる。これで全部講習は終了である。

最後の夜は緊張もほぐれ我々を世話してくれた下司官たちが、
「♪いやじゃありませんか、軍隊は。」「♪連れて行きやんせ南方へ、連れていくのは易けれど、女は乗せない輸送船」と歌を歌って楽しませてくれた。

また内海に戻る日が来た。
いつものように駆け足、海軍体操をして食事する。その後卒業式である。
「防備隊で勉強したことを実践で活躍させ、お国のためにがんばってくれ。」と挨拶があり、班長が代表で終了証を受け取る。
「各班毎、分列行進、歩調を取れ。長官に対し頭、右。なおれ」
こうしてみんなと別れる。兵舎に戻り、借りた服を返し帰る準備をする。早い組はすでに帰っていった。




1章-3  卒業そして一時帰郷

3時頃、内海から教官が迎えにきたので私たちも、「さようなら」と手を振り帰る。
横浜駅では夜行まで時間があったので「桜木町へ行ってみたい」と教官に頼んでみた。
年寄りの優しい教官だったので許可がおり、歩いていく。あちらこちらと眺め歩いていると、船員の記章とかボタン、階級章など海軍関係の物を売っている店があり「わーっ」と飛び込み夢中で買いあさる。それだけですっかり満足して子供のようにはしゃいでいた。
汽車は相変わらず兵隊でいっぱいだった。しかし久しぶりに自分で欲しい物を買った喜びで、出しては眺めていたので全然気にならなかった。
汽車の中で班長から渡されたガリ刷りの薄いペラペラの修了証の値打ちのないこと、どうせ聴音器士になるとも思わなかったのでどうでも良かった。

9時頃内海に到着。
「ご苦労」の一言くらいですぐ自分の班に戻る。
仲間はみんな日に焼けて黒い顔をしていた。
「教官が変わったから注意しろ。うるさい野郎だからすぐ殴るぞ」と教えてくれる。みんな、
「食べ物は良かったか?」と聞いてくる位である。特に関心はないようだ。
次の日の朝礼で一緒にきた同級生の江川に会う。久しぶりの友人との再会に喜ぶ私に
「俺は小野町の野郎と逃げるから金と食料を都合してくれ」と耳打ちされる。
「本当か?」と驚く私に彼は力強くうなずく。

それから毎朝私は、行李の中の衣類の間に母が腹が減った時のためと、入れてくれた乾燥餅を見つからないように運んでやった。
今度の教官はすぐ殴るし、行進がそろわないと階段を立ったり座ったり登らせたりと恐ろしい奴だったので、見つからないかといつもビクビクしていた。
何だかんだと一ヶ月が経ち、麦刈りの季節になった。故郷からの便りは何よりもうれしく、同級生が軍需工場で働いている様子などかかれていると懐かしく、涙が出そうになる。
嫌なことが忘れられる唯一の時間である。だから手紙は良く出したり貰ったりした。卒業すると休暇が出るらしいと言う噂がたった一つの夢であった。

再び、結索(ロープの結び方)とか手旗信号、モールス信号の練習の毎日である。特に、モールス信号は苦手で暇さえ有れば「トンツートンツー」の練習である。
また短艇訓練もある。これがオールが大きいのに対して川が狭いので、「オールを立てろ」「流せ」とか合図にあわせるのが大変で、「ローが高い、低い」と怒鳴られ、水をかけられたり、どつかれたりするので嫌いだった。幸いなことに短艇訓練はボートが少ないのであまりやらなかった。

時々伊勢湾を見下ろせる野間や灯台や景色のよいサンドスキー場まで駆け足させられ、そこで休憩時間、、演芸会などをした。演芸会といっても歌を歌うぐらいなのだが、大勢いるから結構うまいのがいた。東北の民謡の上手いのがいて故郷を思い出しながら聞き惚れていた。海の方を見れば志摩半島は綺麗で、沖には名古屋方面に行く貨物船が見えた。海岸はどこまでも続く白い砂浜。
「♪千鳥が浜で鍛えた腕を、もゆる誠、内海の健児」校歌を良く歌わされた。

五月三十一日の朝礼で訓示があり、所長が
「今日までは貴様達は民間人。明日からは軍属である。死んだら靖国神社へ祭られる。そして警察から憲兵隊の管轄になる。つまり罪を犯せば国賊である。覚悟してお国のために尽くせ。」と言う。それを聞いて
「よし。絶対今日逃げる」と誰か話していた。きっと今日はかなり逃げるだろうと思った。
入梅も近く、夜はかなり雨が降っていた。雨が降ると外には誰も監視して歩く人間がいないので都合良く、脱走者が多かった。
私たちが寝る頃、
「誰かが下で脱走して捕まり殴られている」というので、二階からみんなで覗いたら、例の同級生の江川と小野町の二人である。
トランクを背負ったまま全身ずぶぬれで下を向き、説教されている。聞くところによると見つかった時、川に飛び込んだらしい。しばらくして、自分の寮の丁字屋に帰されたらしい。

次の日の朝、私のところへ来て、「ダメ、失敗したよ」と苦笑していた。夕べはかなり逃げたらしい。

今日は4回くらいに別れて映画を見た。狭い館にぎしぎしに詰め込まれた。それでも「マライのハリマオ」とうたわれた山下兵団がヤンキーに、「イエスかノーか?」と降伏を迫るシーンなど手を叩き、手に汗して見ていた。敵を討ち倒し前進をしていく勇ましい映画であった。

山下総督

終わると海岸でいつものように騎馬戦と棒倒しである。殴る蹴るの激しい運動なのでいつも腹ぺこであった。風呂にも入れないし、また虱が湧き始め痒くて痒くてしょうがない。六百人から百人脱走して五百人の賄いである。桶に入れ、各班毎リヤカーで運ぶ。
ある時は校長先生自らがオルガンを弾いて軍歌の練習をさせる。
「♪軍人たの本文は心は忠に、義は勇み」
「♪旅順港々塞がんと、忠勇無二の兵は、いましも艦を去らんとす」など何回も歌わされた。
また、暖かくなると、裸になって海の中で騎馬戦や棒倒しをやらされた。腰まで水に浸かっているので、負けて下に倒れようものなら、何人も上からかぶさって、息が出来ないやら水を飲むやらで苦しいの何の。もう死にものぐるいである。その上、整列し殴り倒される。
第一段は、体の大きく力があり喧嘩に強そうな奴が守る。棒が倒れないようにおさえるのが体の小さな私たちの役目で、それ以外が周りをガッチリスクラムを組み守るのだ。後は喧嘩同然の殴り合いである。海水に浸かって塩が噴き出しても、風呂に入らなくても、気持ち悪いとも思わずに平気で寝ていた。訓練の激しさで疲れていたのか、周りの歯ぎしりやいびきも気にならず夜はぐっすり眠れるようになる。

今日から3日間、勤労奉仕で百姓の農家の手伝いである。
班毎5人くらいに分かれて各家へ行く。殴られることもないのでみんな喜んでいく。久しぶりに懐かしい麦刈りである。驚くことに私の行ったところは山の上の畑なのに赤茶色の蟹がたくさん畑に穴をあけて巣を作っていた。これでは、海の近くの家は蟹に荒らされて困るだろうと思う。出征兵士の家か、奥さん一人しかいなかった。お昼近くになると、奥さんは家に戻る。食事の支度をしてくれているらしい。しばらくすると
「お昼ですから」と私たちを呼びに来てくれた。
「別の部屋に用意してあります。何もないけどご飯だけは一杯食べてくださいね。自分でよそってね。本当におかずがなくてごめんね」と言って出ていく。

「待ってました」とばかりに皆飛びつく。鍋のふたを取ると夢に見た白飯である。おかずがなくたって、食べる食べる。
「おいしいおいしい」と何杯食べたかわからないほど無我夢中である。あっという間に、みんあ唸るほど食べ満足してふくれた腹をなぜる。
しばらくして奥さんが入ってきて、我々の田舎のことを聞いたり、田舎の母は何をしているかを聞いたりしてなごやかな一時を過ごす。
奥さんは、私たちの東北弁のズーズー弁を聞き笑ったり、同情したり苦情を聞いてくれたりなど親切にしてくれた。
一日の農作業が終わって、夕方寮に帰ると、みんなで、何のご馳走が出たとか、風呂に入ったとかの自慢話しや何やかやで賑やかであった。いつもと違って、みんな久しぶりに腹一杯で明るい。

次の日は桑畑を耕し、みかんの木の草むしり。そしてお昼はまたまた銀飯である。しかし昨日ほど興奮せず、いつも食べているという風におちついてゆっくり食べた。腹一杯食べさせてもらった上に風呂まで入れさせてもらい、帰りには夏みかんまでお土産にもらって帰った。ラッキーな二日間であった。

内海の川が満潮になると木帆船がたくさん川を上って入ってくる。荷物を積んだり降ろしたりしている。大阪や名古屋方面なで全部海上輸送なので、ここではバス以外自動車は見たことがない。町を行進していても何も邪魔をする者はいない。六百人いても、交通事故で怪我した者など一人もいなかった。

田舎から出てきて2ヶ月もしないのに、すでに一年が過ぎたように感じる。それ程色々なことがあった。とても辛かった。しかし、いよいよ卒業らしい。
今日は記念写真を撮るとのことである。内海普通海員養成所第9期生の看板を立て、前に浮き袋を置いて班毎詰め込まれて写真を撮る。ぼやぼやしていると怒鳴られる。

お昼から卒業試験である。
「煙突は英語で何というか」
「信号ツーツートントンは何か」
「検索、イロハどれが正しいか」などの筆記試験である。
この試験の成績により、各会社の配属が決まるのである。
でも私の頭の中は田舎のことで一杯であった。
「これが終われば休暇がでるらしい」とか「遠いところから先に帰すらしい」など情報が入ってくる。
もう夢も希望もない。ただ、
「ジッちゃん、バッちゃんに会いたい。腹一杯飯が食べたい。帰ったらあーしよう。こーしよう」など、とりとめのないことを考えているだけであった。

二、三日後、海岸に集合させられた。そこには各、船会社の人たちが大きい社旗を持って立っていた。一番から日本郵船、商船、山下、日産と大きい会社の順に並んでいた。
「これから名前と番号を言われたものはそれぞれ旗の後ろに並べ。」と言って読み上げる。
「小さい会社が良い」だの「大きい会社が良い」だのと好き勝手なことをみんな言っていた。
私はそんなことわからないので黙って立っていた。すると「何番、日之出汽船」と呼ばれた。
駆け足で言ったら中間ぐらいのところで、すでに二、三十人並んでいた。周りを見回すと大きいところは百人、二百人と並んでいて、小さいところは五、六人だけであった。全部終わると、日之出汽船は六十人くらい採用したようであった。

寮に帰ると
「お前はどこだ」
「そんな会社は知らん」とすごい騒ぎである」
五十嵐という会津の奴が、私が日之出汽船と聞いて
「兄貴の行っている会社である」という。
「そうか、良い会社か?」と聞くが、よく考えれば弟が知っている分けないのである。

とうとう卒業式の日である。小学校の講堂を借りて、
「♪海行かば、みずくかばね」と、今で言う仰げば尊しを歌って、形ばかりの卒業式を終わらせる。
式が終わると、近い三重県の連中は帰るらしい。今日中に家に着くというのだから羨ましい。もう、いつ帰れるかと待ち遠しいかった。
しかし、みんながウキウキしているその向こうでは、帰れない者もいた。会社によってはすぐに連れて行かれる所もあるのである。
かわいそうに、涙を流し、渋々別れていく。

後から聞いた話だが、彼らはすぐ南方航路の輸送船に乗せられ、敵の潜水艦に攻撃され死んだらしい。
戦争だから仕方がないとは言うものの、十四歳で散ってしまったその命はいったい誰が責任を取ってくれるのだろうか?
彼らと私たちの命とは本当に紙一重の運命の違いであった。
しかしそのときの私は故郷へ帰るうれしさで一杯で、戦争についても、命の尊さについても、ましてやこれから先の運命なんて考える余裕などなかった。

ゼロ戦

 

ミッドウェイ



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