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第2章 帰 郷
 
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第2章-1 ひとときの故郷

その日の朝食は、帰れる嬉しさで夢中で食べた。すぐ荷物を整理し、柳行李に出したり入れたし準備する。
教官が一人一人駅の名まえを聞きに来た。切符を買ってくれるという。
「もう、安心。本当に田舎に帰れるのである。」

秋田、岩手、福島の順に帰るそうである。初めてきた時預けたお金も返してくれた。そのお金で絵葉書や貝で作ったしゃもじなどのお土産を買う。
お金がたくさんある者は、のりの佃煮や小魚の佃煮を買っている。十円もするので私には高くて買えない。

  九時頃、寮の前にトランクや竹行李を持って整列する。教官が「電報や連絡がない者は、一ヶ月したら帰って来い。お国の大事な体である。注意して、おふくろのオッパイを飲んでこい」と挨拶する。
  出発の号令が掛かると、帰れない連中も見送りに来てくれた。バス停には他の寮の東北組みがすでに並んでいた。

バスは木炭で、五、六人の人が汗を流しながら、吹いごうから風を送り、ブウーブウー鳴らしながら煙突から黒い煙をだしてガスを作って整備している。ススだらけになりながら出発の準備をしている。
「乗れ」の言葉とともに、次から次とどんどん詰め込まれる。すぐに一杯になり出発である。
中にはギュウギュウ詰で身動きが取れず、せっかく見送りに来てくれた人にも手を振ることさえ出来なかった。
  体の小さい私はつぶされないようにと命がけである。
木炭車のバスは満員のわれわれを乗せて、ブーブーと音を立てて苦しそうに曲がりくねった山道を走っていく。まるで文句をいっているようにブーブーとうるさい。坂道では止まりそうになりながらものろのろとどうにか登って行く。

木炭バス



始めてきた時は河和の駅から歩かされたことを思い出す。随分遠いところから歩かされたものだと驚く。今から考えるとよく頑張ったと感心してしまう。
河和の駅にたどり着いた時は、全身汗びっしょりでくたくたである。解放されて自由になり気が抜けてしまった。
あまりの疲労に呆然として立ち尽くしていた。
「あっ、そうだ。一分一秒でも早く帰らねば。」と気を取り直して、仲間を追いかけて行き、熱田行きの電車に乗る。
ほっと一息し、外の景色を眺めているうちに熱田駅に着く。

ここで汽車に乗るまでがまた大変である。14歳の小さな体には大きすぎる荷物を背負い、十五分位歩かなければならない。ふらふらしながらも、我が家に帰るためと力を振り絞ってやっとの思いで汽車に乗る。

さんざん苦労して、やっと東京駅である。再び乗り換えて上野駅に着いたのは、外の景色も暗くなった七時である。
ここまで夢中で来てほっとすると、誰かが「今乗るのはダメだ」という。
秋田のほうの組はすぐ乗ったようである。待つ時間が勿体ないと思いながらもしょうがないので五、六人くらいずつバラバラになり、弁当の残りのぼろぼろの豆粕飯を食べながらホームの人並みを見ていた。時々憲兵が変わった者はいないか目を光らせていた。戦争中のことなので、駅には売店などあるわけもなく、せいぜい水を飲むくらいである。

「一刻も早く帰りたい。」いらだつ気持ちを押さえて十時の夜行に乗る。疲れと郷愁でそのまま眠りに入る。

目がさめた時、汽車は白河駅であった。もう何もかも懐かしい。山も木も川も全部福島である。汽車が遅く感じられて駆けて行きたい気分である。
やっと郡山に到着である。乗り換えの時、硝子に写った自分の顔を見ると石炭粕で真っ黒である。着ている服はといえばやはり石炭の粉で真っ黒である。
それぞれの故郷に向かってそれぞれの単線に乗り換え別れていく。私と江川と二人になり一番列車に乗る。周りのしゃべる言葉の響きに懐かしさがこみ上げてくる。思わず、誰か知っている人がいるのではないかと見回す。郡山からは椅子にも座らず「今か今か」と出口の近くいる。



船引駅で江川はニコニコした顔で降りて行った。次がいよいよ私が生まれた我が駅である。荷物の行李を背中にしょってホームに降り立つ。「とうとう帰ってきたぞー!」と胸のうちで大きく叫ぶ。
 
駅から我が家までの山道を駆けるようにして帰る。荷物だって重くない。足だって疲れない。汗だって気にならない。自己最高記録のタイムで家に到着である。
しかし、家の中はいやに閑散としていた。どうやら田植えで誰もいないようである。隠居にじいちゃん、ばあちゃんがいるかもしれないと覗くがやはり田植えに出た後のようで居ない。
ちょっと気抜けしてしまったが、そのうちに妹のチビたちが起きてきて自分を見て吃驚する。すぐに喜んではしゃぎだし、急いで野良仕事の母に知らせにいく。間もなく、母とばあちゃんが飛んで帰ってきて涙を流し、「良かった良かった。」と喜んでくれる。

「今晩の夕食は好きなものをご馳走するから何か食べたい物を言え」と言ってくれる。
「おら、何でもかまねえ」と言うと
「手打ちうどんか、ぼた餅でもご馳走するか?」
「うん、うん。そうすべ」と二人で楽しそうに相談しあっていた。
田舎は今、青葉若葉でカッコウやホトトギスが「トンテンカケカタ」と口が裂けるほど鳴いていた。キツツキはカタカタ木をつつき、山がらなど小鳥たちがピーピー鳴いていた。
母と一緒に山合いの田んぼに行くと親類の人たちも田植えを手伝いに来ていた。
「見たことがある野郎が近づいてくると思ったら、なんだお前か。」などど父が冗談を言って迎え喜んでくれた。

「一服すべか」と昼前の中休みにし、ごぼうの葉と粉の入った、冬に凍らせておいた餅をお茶受けにみんなでお茶を飲んでおしゃべりをした。
いろいろ聞くところにの話では、可哀想に誰々さんが戦死したとか、誰が徴用に引っ張られたとか、あの子が肺病で帰ったとか、脚気(かっけ)になり裸足で誰かさんが歩くとか、田舎は脚気には土があり薬になるとか、今までまったく知らなかった事ばかりである。
田舎の人は伸び伸びしていた。こんなに安らぐの久ぶりである。

隣に行ったら知らない人が居た。その人はサイパン島で現地結婚した誰々さんの奥さんらしい。戦争が激しくなり、子供を連れて船で疎開、子供に浮き袋を付けて命からがら、敵の潜水艦に追われ追われ日本に帰ってきたそうである。
「今、船乗りになった隣の息子がきているらしい。」と自分のことを言っている会話が聞こえてきた。
「可哀想な。死にに行くのと同じだ。ごめん、ごめん。」と疫病神のように言われた。いやな気分だった。

ひりゅう

家に帰り、「虱(しらみ)が一杯たかっている。」と言うと、「虱か。」と驚きもせず、「熱いお湯をぶっかけるから、全部脱ぎなよう。」と言われ、代わりに久しぶりに着物を着た。 毎日、赤飯やお煮しめ、鰊(にしん)などの魚のご馳走を腹一杯食べて満足であった。母の弟が海軍で、南方ガダルカナル海戦で名誉の戦死を遂げているので、母はもう私が生きて帰ることをあきらめているらしい。だから生きている今、私に満足の行くものを食べさせようと思っているらしい。魚は大きい良いところを、そしてチビたちに隠して配給の菓子などを持ってきてくれる。
「好きなものを食べて、好きなだけゆっくり休むよう。」と言ってくれる。
しかしラジオも新聞も雑誌もあるわけでないので家にいても飽きてしまう。気ままに麦刈り、芋掘り、煙草作りの手伝いをした。

農家は猫のの手も借りたい忙しさで、朝は三時に起き、夜は暗くなるまで働く。洗濯をする暇もなければ、風呂にも入れない。だからみんな虱(しらみ)がたかっているそうだ。どうりで私の虱に驚かないわけだ。私が水を桶に汲んで天秤棒で担ぎ、風呂を炊いてやるとみんな「有り難い」と喜んで風呂に入り、石鹸も使わずにごしごしと垢をこすり落としていた。じいちゃんやばあちゃんの着ている下着は醤油色をしていた。
「働けど働けど生活少しも良くならず。」村のどこの百姓も皆同じように貧乏である。増産増産、一粒の米でも戦地の兵隊さんにと提供させられる。

増産

学校でも戦地の兵隊さんにと梅干を提供させられたり、山菜のふきを取らされ塩漬けにして戦地の兵隊さんに送ったりした。開墾もさせられた。
父が蚕(かいこ)が食べた後の木の皮を剥いだりしている。
「何にするのか?」と聞くと、
「1人一貫目の割り当てだ」と言う。紙会社が紙を作るらしい。
一億一心火の玉で、子供たちでさえ勉強より、奉仕活動のほうが多く大変であった。兄さんは青年団で軍事訓練に引き出され、殴られたりどつかれたりしているそうだ。銃後の守りも大変であった。女性、母達は国防婦人会から「贅沢は敵である。」とパーマをかけた女やスカートをはいた女は注意された。

防空演習や敵を突き殺す竹槍訓練とか、なぎなたの練習をさせられた。本当に銃後の人たちも大変である。
百姓が増産するのに一番困ることは、化学肥料のカリンやアンモニアなどが戦争で生産中止のためないことである。
満州から来る豆粕、魚の絞り粕くらいしか配給がなく、仕方無いので、足りない分は人の小便やウンコで補う。学校にでもどこにでも頭を下げて貰いにいく。
雨が降っても、みのがさを着て貰い行く。「だら汲み」という杓で桶に汲で天秤棒を担ぎ、こぼさないように、ブラブラさせず上手く操り、野山に運ぶのである。これが結構重労働である。肩には大きなタコができて膨らんでいた。
馬小屋の馬の踏みつけた木の葉と糞小便を混ぜ肥料を作る。家の周りはすごいにおいであったが、誰もそんなことを気にする者はいなかった。
甘いものが無かったのでよく妹たちは桑の木に登り桑の実を食べて口の中を紫色にしていた。

田舎での生活が2週間ぐらいした頃、電報がきた。戦争なのでしょうがないと覚悟はしていたが、「とうとう来てしまったか。」というやりきれない気持ちで電報を握り締めて立ちすくんでいた。
家族のみんなも、仕方ない事と思いながら口を開く者もなく、どんどん沈んでいくばかりである。
電文は「スグ、ウツミニカエレ」である。
「南方か?北方か?」胸は熱くどきどき高鳴る。どちらにまわされるのか心配しながら、衣類を出来るだけ少なく軽く詰めて、持ち運びに困らないように行李に入れて準備する。
父は私が内海まで1人で戻れるのかが一番心配らしく、「上野と東京駅を間違えずに無事いけるか?郡山ではこうしろ。上野駅では改札口を出るな。東京はこうだから駅員に聞け。」と何回教えてくれた。

戦争に行く前に、まず名古屋に行き着けるかの方が心配である。

「明日は大変だからもう寝ろ。」と母が言うので布団に横になる。しかし興奮してなかなか寝つかれなかった。
この平和な2週間の日々が思い出され、明日また訪れる肉親との別れに涙をぐっとこらえる。
次の日朝起きると、祖父を始め父達みんなが神様にローソクを灯し私の無事をお祈りしてくれていた。
「お前も拝め」と言われ拝む。おばあちゃんは「朝茶は災難を逃れるから。」とお茶を出してくれた。胸が一杯でお茶の味もよくわからず無理に流し込んだ。飯も一膳食べるのがやっとであったが「一膳は仏様だからだめだ。二杯にしろ。」と言われ二杯目を無理やりに詰め込んだ。
「汽車に遅れると困るから早めに。」と皆、家の裏の道まで出てきて見送ってくれる。

「気をつけるんだぞー」と手を振る。
よく、我が家で生まれた子馬を軍馬に出す時、皆胸が詰まるような気持ちで、「たっしゃでなー」と涙を流して別れ、引かれて行く馬を見えなくなるまで見送ったものだ。
「その光景と同じだ。」と思った。ただいつもは見送るほうであって、今日は逆に見送られるほうであることが違うのだが・・・・・
母は荷物を背中にしょって、山道を話もせず、もくもくと駅に向かって歩いて行く。お互いに、今度こそもう二度と会うこともないと覚悟を決めているので、何を話して良いかわからないのだ。まして、母の顔を見てしまえば、母は必ず涙を流すので、私は見ないようにうつむいて歩いていた。

 
駅に着くと母は、
「長くなるほど、辛くなるから。」と涙をこらえながらもすでに泣き顔で帰って行く。よほど辛いのか、私が見ている間一度も後を振り返ろうとしなかった。

  駅には切符を買う人が並んでいた。切符は軍人、軍属、公用以外売ってくれない。民間の人には、東京駅までは今日は3枚というように制限され、家族が交代でならんで争うように求めていた。
  汽車が来たので乗る。動き出しまもなく線路際に母の実家がある。窓にへばりついて見ていると、麦畑の中からみんなが一生懸命両手を振って見送ってくれていた。故郷の山も見納めかと思うと胸が熱くなった。
  次の駅には、歩いて通った高等科の国民学校があり、とても懐かしい。もう、何もかも終わりである。変わる景色を呆然と眺めていた。

上野駅から東京駅までは父に教えてもらったとおり、無事に行けた。
ところが東京駅では、横浜を通る電車はみんな名古屋に行くと思いこんで、「横浜のほうに行くのにはどの電車に乗ればよいのでしょうか?」と聞いたらその人は親切に横須賀線を教えてくれた。
安心して乗っていたら、鎌倉に着いてしまった。「次は横須賀。」と聞いてビックリして夢中で降りる。引き返して大船で乗り換え名古屋のほうに行く電車に乗る。もうただ行き当たりばったり乗る。

  熱田から汽車に変わり、静岡も過ぎ、後は熱田駅で降りるだけとホッと一安心する。混んでいたので通路で行李の上に座る。気が緩みついうとうと眠ってしまった。
「はっ!」と目がさめてどこの駅か見るとなんと熱田駅ではないか。あわてて降りようと立ち上がったが時、汽車は無情にも走り出してしまった。
  二度の失敗のため、次の名古屋駅に着いた時は夜中の十二時頃であった。しょうがないので待合室の椅子に座り朝まで待った。結構、乗る人、降りる人がたくさんいるのには驚いた。
「いったい何をする人であろう。」そんなことを考えているうちにまた少し眠った。

朝一番の汽車で熱田駅に戻った。電車とバスを乗り継いで内海に何とか帰ることができた。帰れるかどうかの不安がやっと一安心に変わった。
  本館の事務所に行き、電報を見せたがそんなに急いで戻ってくる必要もなかったようである。
また三都野寮に入る。すでに十五、六人位いた。寮での生活は昔と違い、洗濯もでき、自由にのんびりとしたものであった。教官も年を取ったおとなしい教官で親と子のように接していた。ぼちぼちと、茨城や栃木の連中も帰ってきた。

次の日から、果物試験場の農作業の手伝いである。七月だから暑い、暑い。若い者が皆、応召されてしまったので年寄りしか残っていないので人手不足らしい。

 作業は草むしり、もっこう担ぎ、土運びといった力仕事で炎天下の中、へとへとである。喉がからからに渇いているのだが大勢いるため、やかんのお茶が自由に飲めなくて苦しかった。休憩には、びわが出た。生まれて初めて「びわ」というものを食べた。甘酸っぱっくておいしい果物だと知った。

第2章-2 乗船までの大阪


手伝いを3、4日した頃、会社から迎えがきた。
「明日大阪に行くから準備するように」と言われる。
次の日、頭の剥げたおじさんに連れられ大阪に出発する。内海からまた木炭バスに乗り駅に着く。河和から熱田へとまた汽車に乗ると思っていたら、チンチン電車に乗せられる。こんな電車に乗るのは初めてなのでとても興味がありきょろきょろしていた。
  名古屋に着くとここからまた奇麗な赤色の電車に乗る。大阪に行くのに、汽車で行かずに電車で行くのはとても不思議であった。
三重県の連中の話によるとよく乗る電車だそうだ。
「近鉄だよ。近鉄がわからないのか?」と馬鹿にされる。

夕方、上本町と言う駅におり、次から次と市内電車を乗り継ぎ安治川の報国団に連れて行かれた。ここで、寝泊りするとのことである。聞くところには、各船会社の待機する寮らしい。
「君たちは何も知らないからくれぐれも注意するように。悪い先輩がごろごろしているから。金を借りて返さないで逃げる奴とか泥棒とかがいる。絶対に油断しないように。」と念を押される。

田舎にいる頃、「都会では生きた馬の目を抜く。」とよく聞いたが、どうやら本当のことかも知れない。
  初めての大都会、大阪での生活。空はどんより曇ったようだし、家だらけだし、水道の水は臭いし、市内の電車の汽笛の音、走る音、その他いろいろの雑音で頭が痛くなる。
「よくこんな所で暮らす人が居るもんだ。」と不思議に思う。
右も左もわからないし、一人で歩いたら帰れなくなりそうで怖い。
「やはり、田舎はいいなー。」とつくづく思う。

夜、寝ると「南京虫」という虫に食われて痒いやら腫れてくるやらでさんざんであった。ノミや虱(しらみ)より、たちが悪く暗くなると動き出して食いつく。ここにいるのがイヤになる。早く船に乗りたいと思う。

  二、三日して筑港の会社にみんなで行って見ることになった。看板に「日の出汽船会社」と書いてある。
「ここが私の会社かあ。ここで働くことになるのかあ。」
中に入ると、この前私たちを連れてきた「落田」と言う人がいて、
「おう!来たか。」と言って
「隣が社長の峰だ。」と紹介する。二人だけらしい。田舎の会社より小さい。
「お湯が沸いたか見てきてくれ。」と言われ、指した方へ行く。炭か薪かと思いきょろきょろ探していたが見当たらないので、
「お湯なんてありません。」と言うと
「そこのガス台だよ」と言われて、初めてガス台というものに気がつく。ガスなんて見るのは初めてだし、何だか恐ろしいもののような感じで手が出せない。
「いったい何が燃えているのだろうか?」不思議で怖くてうろうろしていたら笑われてしまった。
「まったく、都会には便利な物がたくさんあるものだなあ」見るもの聞くものすべてが驚きと感心することばかりである。その度に、馬鹿にされる。

  また、言葉でも東北の田舎弁は大阪では馬鹿にされる。食事は南京米のぼろぼろの盛り切り飯であった。内海よりまだ良い感じである。味噌汁は実がなく、透き通るような色である。何杯でもおかわりできるので水の代わりに飲んだ。水を飲むと腹をこわすからである。
裏の安治川は小さい船や島通いの貨客船が忙しく出たり入ったりしていた。眺めていると退屈しなかった。波止場では荷物を積んだり降ろしたりしていた。
  そこに、連合軍捕虜がいた。パンツ一枚とか、ぼろシャツ姿と言う服装、または裸といったまちまちの格好で汗を流して働いていた。何だか憎いというより可哀相な感じである。側で憲兵が鉄砲に銃剣を付けて監視していた。恐ろしい感じがした。
誰かが「泳ぐベー」と服を脱ぎ飛び込んだ。その人は育ったところが海に近いとか、利根川で泳いだとかで実に泳ぎが上手く、少しずつ流されながらも見る見るうちに向こう岸にたどり着いて手を振っている。山奥で育った私には驚きである。こんなに深く、水の中が暗いところで泳ぐなんて事は恐ろしいやら怖いやらである。まして流れまである。とても犬掻きの泳ぎでは通用しそうにもない。小船から手を離す事などできなかった。

  帰りも、皆の後ばかりついて歩いていた。千日前や九条通に行く。映画館が何軒もずらりと並んでいる。橋の上には乞食が並んで座っており、前に風呂敷を広げて金を投げてくれる人を待っているのには驚かされた。
又々、田舎者には見るもの聞くもの珍しい、興味の世界である。
ある店の前で人が大勢並んでいるので何かと聞くと、雑炊を食べさせてくれるという。また別の店も軍人や色々の人が並んでいたので何かと聞いてみると、コーヒーを飲ませてくれるとのことである。
「コーヒーって何?」と聞くと
「コーヒーはコーヒーだよ」と笑われた。覗いてみると黒いお湯である。「まずそう」と思った。
店には衣類なども少し飾ってあるが、衣料キップがないと買うことができない。私は十銭で少し甘いかき氷を食べた。

  次の日、金の無い連中が2、3人「船の荷上げをしに行く。」と裏の波止場に出かける。一日5円くれるらしい。窓から見ていると、コールタールの詰まったドラム缶の荷下しで、板を敷いた上に転がす仕事である。か なり力がいるようだ。皆汗だくである。
二時間位したら、「だめだ。勤まらない」と帰ってきた。「人の仕事は楽に見える。簡単には金をくれない」とみんなで大笑いであった。

  夕方、暑いので外に出たら、各町内会の集まりがあったので見ていた。どうやら防空演習大会があるらしい。各隣組の班長を先頭に、旗を持ち、たすき、鉢巻、もんぺ姿の国防婦人会の人たちがバケツに水を入れ並んでいた。30メートル先に大きい酒樽、すぐ前に防水盾があり、3、4m手前に白線が引いてある。そこから水を掛ける防水競技大会である。軍人の偉い人や先生、防空指導官の見ている中、鉄兜をかぶった軍人の号令で盾に水を正確に掛け、何分で全員が終わるかと速さを競うのである。そして樽に何センチ水が入ったかである。優勝すれば、「防空組織優秀隣組」として陸軍省より表彰されるらしい。
  その他、服装、防空頭巾の点検、怪我人の手当ての仕方の講習会など実戦そのものの訓練であった。どの家にも縄で作った火叩きと防火用水路が準備されていた。

消火訓練

相変らず九条通りは軍人軍属で賑やかであった。夜もコップ一杯でレモン水とかコーヒーとかを求めて店は長い列であった。
もちろんアベックなど1人だっていない。見つかると憲兵や警察に嫌というほど殴られるからである。十時ごろになると店もどんどん閉まっていく。
後は灯火管制で明かりが漏れないように注意して寝るだけである。大阪の夏は暑く、涼しい場所もなく大変困った。
次の日いよいよ、「荷物を全部持って会社に来い。」という通知がきた。いよいよ乗船である。どんな船に乗るかと想像して胸がわくわくして嬉しかった。

 

鉄不足



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