>
第3章 乗 船
 
  ホームへ   前のページ  次のページ 

朝、荷物を持って3人で仕事に行くと、配乗の落田さんが、
「相州丸(そうしゅうまる)に乗ってくれ。木津川ドックにいるからすぐ行ってくれ。ここにいる木村君が甲板ストアーキで行くから連れて行ってもらいなさい。」と言う
「よろしくお願いします。」と頭を下げ後ろについて行く。
市電を乗り次ぎ、南海腺だが何線だかわからないが木津川駅で降り少し歩くと、目の前に大きな貨物船が見えてきた。船名が「相州丸」と書いてある。
「あーこの船だ。」と早足で進んで乗船する。

相州丸


事務所室に行き、「新しく乗船して来た者です。」と話す。すぐ、一等航海士の川島さんの部屋に連れて行かれ挨拶させられる。
「田舎はどこか?」など質問された後、最後に、「がんばれよ。」と励まされる。
二等、三等航海士と順に連れて行かれ挨拶する。そして、甲板長、舵取り、水夫と案内され紹介される。
私の寝る場所は甲板長の部屋の二段ベットの上と言われ荷物を足のもとのほうに置いた。
「今日から新しく乗る三人は事務長と、海運局に船員手帳の発行手続きに行ってくれ。」と言われお昼から出かける。
どこに連れて行かれるのかも良く解らず、ただ後について行っただけである。
手続きを済ませて戻ってきたのは夕方五時ごろであった。
仕事も終わっていて先輩が映画を見に行くと着替えていた。
「連れて行ってやるから、早く飯を食べ、支度しろ。」と言われ、「はい。」と元気よく返事をする。
先輩に付いて外に出ると、途中どこも防空演習梯子に登り、バケツを手送りで屋根の上に水を掛ける練習をしていた。
道頓堀だか何だか知らないがどこかの、映画館が一杯並んでいる所に連れて行かれた。そこの一つの映画観に入ると軍歌や懐かしい歌が聞こえていた。
間もなく、ベルが鳴り始まるのかと思っていたら突然館長と憲兵が出てきて全員起立させられ。「宮崎に向かって最敬礼。今日はサイパン島玉砕の日である。我が将兵は最後の一兵まで戦い抜いた。お国のために全員黙祷する。

サイパン玉砕

 

レイテ海戦
「敵も死に物狂いである。それに負けてはいかん。」と檄を飛ばされた。その後に映画を見たので何だか気分がのらなく何を見たのか忘れてしまった。
それから、松島遊郭へ連れて行かれる。先輩が、泊まる振りをして写真を見て、「この子とこの子を出せ。」と婆あに言う。
呼ばれた女が3人出てきて、「ボーやもか?」と私を指して言う。先輩が、「う、うん。」と返事をすると、「私、ボーヤが良い。可愛がるからね。」と言っていきななり抱きついてきた。驚いて逃げる。女どころか色気も何もあったものではない。第一、そこが何をするところかもわからないでついてきたのである。
帰りの道々、先輩に話を聞いた。まったく何もかもが初めてのことばかりで吃驚する。
今日から朝六時に起きる。各部屋の掃除から毛布の畳み方、ランプの掃除の仕方、食事の準備、食器洗い、洗濯に風呂掃除と何もかも一つ一つ習う。何が何でも、「はい。」だけで反抗は出来なかった。見る人、見る人すべて、ドッグの職工にまで挨拶した。
ドッグで溶接や鉄板を切るガスバーナーなど初めて見たので不思議だし、凄いものだと思った。
何でもかんでも新しい経験で分らない事ばかりであった。
食事の時、先輩たちは油だらけの服で帽子も被ったままなので驚いた。どうしてなのか聞いてみた。
「戦争のとき、帽子を取り飯を食う人はいない」と言われた。確かにその通りである。
食堂は暑く。飯を食べ終わると皆デッキに出て一服していた。
甲板見習いとしては伊部君と私の二人だけであるで、一ヶ月交替で仕事をすることになる。
伊部は水夫見習い、私はボーイ見習いということになる。
朝六時に起き、食器を洗い、各部屋の掃除、終わると賄い部から飯やおかずを運ぶ。賄いは船の後ろにあり、一般の甲板部、機関部は前にあり、そして大部屋と食堂がある。出来た食べ物は全部、前の食堂に運んで食べなければならない。
昼食を運んでいたら、二番ハッチの上で水夫たちが赤白の幕を張ったり、机を出したりしていた。
「今日から海軍に徴用され軍の御用船になるので、軍と会社の偉い人が大勢来て式を上げるらしい」と伊部が言う。
先輩に気安く口も利けないので何でも仲間の伊部と話す。
船橋の上には十三ミリ機関砲を二門取り付け中であり、後ろのボードの甲板にも六点五ミリ機関砲も取り付けていた。聴音気もつけていた。爆雷も積むので保管場所も作っている。明日爆雷を積むらしい。
「南方行きか?」
海軍御用だから飯も盛り切からお鉢飯に変わり、食べたいだけ食べれるらしい。

南方


兵隊の部屋も無線機の横にでき、夕方七、八人の制服姿の海軍が乗りこんできた。
私にまで敬礼して、「よろしくお願いします。」と挨拶していた。
どうやら明日出港らしい。造船所の人たちは溶接機を片ずけたりと明日の出港準備にと忙しく働いていた。

 

いよいよ今日が出港である。朝起きると煙突から黒い煙が出ていた。機関部は、がたがたと油服の火夫たちが忙しく動いていた。上陸していた人たちもどんどん帰ってきて、どの人が甲板部か機関部かわからず、ただ、「はい。はい。」と頭を下げていた。
十時頃、錨を上げ始める。がらがらとワイアーロープ巻く凄い音。
外に出ると船橋には船長を始め航海士たちが睨むような鋭い目をしている。船名を知らせる旗流信号が上がっていた。引き船二漕に引かれた船はだんだんと岩壁離れて行く。
岩壁には家族や造船所の人たちが大勢、手を振り名残惜しむ姿が見えた。その姿がだんだん遠くなりそのうち、ゴゴゴゴゴとスクリューが回りだすと引き船から自力で動きだし、木津川を下り始める。
大阪から神戸に向かう。



神戸港には大きな船が一杯見えた。誰かが、「航空母艦がいる」と言う。
ちょうど昼食時で、口を動かしながら急いで外に出てみる。
「食べながら来る馬鹿があるか。船橋で見ていろ」と怒鳴られ、渋々戻って窓から見る。「凄く大きいなぁ」と見とれてしまった。
先輩には悪い奴がいて、
「上の者となれなれしく口をきくな。裸で外に出るな。礼儀がなってない。ズーズー弁でしゃべるな」と文句ばかりを言う。
さらに朝から、
「布巾が汚い。飯がまずい。おかずが悪い」と私の責任にし、当たり散らす。
年を取った上役の人たちは、年が若くて子供のように小さい私たちを見るとかわいいのか、色々からかって面白がっていた。
初めて乗る船は大きいのか小さいのか、良い船なのかどうか田舎者の私にはわからない。
しかし、ただ毎日が興味と新しい仕事を学ぶことに夢中であることは事実である。瀬戸内海は歌のごとく景色がきれいで大小さまざまな船が行き来する。次々と変わっていく島々。瀬戸内海はまさに船の旅である。
海軍は六時に起き、かけ声とともに気持ちよさそうに体をのばして海軍体操をしていた。終わると隊長の日課や報告を受けていた。
先輩たちは忙しく、ウインチを動かしデリックを上げ荷役準備にかかっていた。
田舎の山と同じような削りとられた山が見えた。セメントの町のようだがどこだろうとと思っていたら誰かが、「津久見だ」と言う。
「津久見ってどこ?」と聞くと、
「北九州だ」と言われる。 随分、南に着たもんだと感心する。
「飯の用意は出来たか?」と聞かれ、
「出来ました」と答えると、急いで食べてまた行ってしまった。
見習いは最後に食べるので、食べていると上でがたがたウインドラースが回り、大きい声で怒鳴っているのが聞こえてくる。
窓を見ると船はもう陸に着いていた。
どやどやと人夫が来て、船倉を開けパネルやモッコウを使い、一度に三十俵位セメントを積みウインチを吊り上げ船倉に積み始めた。
ゆっくり食べてもいられず、感心して見ていた。一、二番倉に半分ぐらい積み、荷役は終わる。
「お昼を食べ終わったら、早く片づけを済ませてみんなの仕事を手伝うように」と言われる。
「嫌だ、嫌だ」と水夫がこぼしていた。
食事の片づけを終えてみんなの所に行くと、士官も作業服姿である。これから重量物を積むからヘビーデリックを用意するらしい。石炭を積んでいた連中ばかりなのでみんな初めてらしい。暗い倉庫から汗だくだくになって長いワイヤー滑車を出す。
「あーだ、こーだ」と、どやされながら仕事のわからない連中で大騒ぎ。
百年も経っているような大きな木に上下鉄の雁首の様な長いデリックをつけ、中吊り滑車を取り付け、ワイヤーを取り付ける。
何とか、夜の九時頃までかかりながらも終わった。もう、くたくたで風呂も早々に入りすぐ寝る。
夜中に、がたがたする感じがしたと思ったら、もう次の港に着いていた。
八時頃、海軍と大工らしい人が来て材木を上げ、一番ハッチの中に積んだセメントの上に板を張ったり、階段を取り付けたりしていた。
そのうち岸壁におもしろい変な自動車がいっぱい来た。それを昨日準備したヘビデリックで慎重に積み始める。また、笑われると思いながら聞いてみると、
「ロードローラーとか飛行場を作る機械だ」と教えられる。「凄いな」と漠然と感心する。さらに驚くのは船の上で自動車が運転できてしまうほど、船が大きいことである。
「船って本当に大きいんだなあ」とつくづく感心する。
夕方最後に二番ハッチの上に大きな上陸用舟艇を積み始める。船長が見ている中、全員それぞれの持ち場に付き、ベテランの舵取り三等航海士がウインチを使い静かに「シュッ、シュッ」と上げる。真剣そのものである。船は大きく傾き、笛の合図で静かにハッチを中央に下ろす。
すぐ大工さんたちがつっかえやくさびを付けて安定させる。
大工の仕事が終わると甲板関係船員でワイヤーをクリップ、タンパックルで締め付ける作業である。台風にあっても動かないよう自動車一台一台良く締め付ける。
要領が良くわからず怒鳴られ通しで大変である。泣きたいくらいである。
食器を洗ったりしながらも少しでも暇があれば甲板の仕事を手伝わされる。ぼろぼろのワイヤーで動かないように縛る作業は大変なものである。
燃料の石炭もハッチに山盛りに積み込まれ,船の後方,両側に吊り便所を大工さんが作っていたので出向が近いと感じる。
水夫は何をしているのかと見ると甲板で、ボートを吊り、外に出していた。聞いて見ると、
「サイドボートと言って、船が魚雷を食らったときに斧で綱を切り、すぐに乗れるようにする仕事だ」と教えられる。
行き先は秘密でどこに行くのかがわからない。だが、九州にいるのだから南方だと思う。
岸壁の方で笛の音がするので見ると、登山帽に半そで荷物を一杯持って装備している、親父のような兵隊が遠足のように列になって乗りこみ始めている。
海軍設営隊とかが、約二百人ぐらい乗ったらしい。
兵隊は甲板に並び、隊長らしい人が宮城遥拝をさせて、
「内地とも当分お別れだ。良く見ておけ」と言っていた。
そのうち、関係者が見送るなか、船は岸壁を静かに離れていく。兵隊の中には涙を流し泣く者もいた。
出港すると甲板長が、
「誰が、何時から何時まで見張り」と順番を決めていた。
決まるとそれぞれ風呂に入って眠る。もちろん、私たち見習は風呂に入る人のためにポンプで水を汲み、蒸気で沸かし、桶に準備する仕事で忙しい。
風呂は海水なので上がり湯に真水が桶一杯と決められている。しかし、中には二杯つかう野郎がいるので後の人が困り泣かされる。
しわ寄せは当然見習いの私たちに来るのである。
日向灘に出たのか、だんだん船は激しく揺れる。夕食の準備をして飯を運ぼうと甲板に出ると甲板は波を被り、水びたしでまるで川のようである。飯を運ぶのも命がけである。
テーブルの物を全部片付けたり、ロッカーにしまたりと食堂で仕事をしていたら、船の揺れ、残飯の匂い、蒸気の匂い、それに蒸し暑さで胸がむかむかしてきて我慢できずに吐いてしまった。
「バカヤロウ。汚いじゃないか」と凄く叱られた。
しょうがないので甲板ではいたら、船橋の上の見張りの人達にゲロがかかってしまい、
「廊下でやれ」と怒鳴られる。
そんなことを言われても我慢する余裕などない。立っていられず、ついビットの上に座り込み動けなくなる。
もう、吐くものも何もなく、ただ黄色い胃液だけが出る。酔って苦しく仕事どころではない。兵隊も酔う者が一杯おり、殴られる班もあったようだ。誰かが
「役立たずは寝ていろ」と言うので、作業服のまま横になり、何がなんだか分からないが後は無我夢中で寝た。
気がつくと夢のように静かであった。起きて船橋を見ると見張りの人もいなく、周りには山が見えた。湾の中を走っているらしい。
部屋と食堂は茶碗が壊れてめちゅくちゃである。急いで片づけ、朝飯の準備にかかる前に賄い長に、壊れた茶碗の数だけもらいに行くと大説教である。
「だらしがない。整頓しておかないからこうなるんだ。この次はやらんからな」と怒鳴られ、代わりをもらって食堂に戻ると、設営隊の炊事班が大きな釜で魚のぶつ切りのみそ汁を作っていた。
「ぼうや。酔っぱらいは直ったかい」と兵隊たちに冷やかされた。
窓の外に、黒い煙を吐き出す高い山が見え自分が今どこにいるかが分かる。その山は鹿児島の桜島である。桜島の裾のほうには青々としたみかん畑が見え、港の中には櫓漕漁船が何かを釣っていた。のどかな風景と対照的に港では陸軍の御用船らしい大きな船が陸軍の兵隊を大勢乗せていた。荷車の大砲など武装した船もみえた。
他にも武装した、前が四角い変わった船があったので尋ねたら、
『上陸用舟艇エスピディーだ」と言われる。
その頃、田舎から履いてきた運動靴がぼろぼろに破け素足で仕事をしていた。さんざんみんなに危ないと言われていたので、よい機会だから許可をもらい買いに行った。
しかしいくら探しても靴らしきものなど何もない。仕方がないのでボール紙のスリッパを買って帰るが、三十分も履いたら切れてしまった。結局また裸足で仕事をする。
停泊中の夜はランプを使用するので石油を入れたり、掃除をしたり大変である。芯が悪いため暗いし、石油も悪いうえに配給なので、夜遅くまで本を読む人には次の日必ず文句を言われた。
鹿児島は山形屋デパートが海軍の司令部、武官府であった。デパートなどは軍が接収して使用していた。
ある日、海軍の技術将校が来て機関部には、黒い煙は敵に見つかり攻撃の恐れがあるので、いかに煙をださないで石炭を燃焼させるのか実技の指導に
来た。

桜島写真

甲板部には、見張りの講習として、何度の方角に怪しいものを見たか、一秒でも早く正確に大きい声で報告できるか、魚雷を見て焦って報告ができずに船がやられた場合はどうするか、攻撃を受けた時にいかに船を守るかの講習などを指導された。また消化訓練もやらされた。
海軍は対空戦闘に備えて、いかに早く配置につけるかの配備訓練やその他色々の厳しい訓練をやらされていた。一日一日武装した陸海商船が集結してくる。敵の飛行機から守るため、竹や木の枝でカモフラージュしている船、一等駆逐艦、駆潜艇、護衛艦も集まって、鹿児島湾は艦艇でにぎやかである。
そのような重苦しい船の間を桜島の連絡船が見たこともない大きな大根を積んだり、学生や女の人を乗せてポンポン煙を出して走っていくのを眺めて、退屈している兵隊たちが、「わーわー」と言って冷やかしたり手を振ったりする。それが楽しみで、通るたびにとても賑やかであった。
どの船も船名を消し、波の色に船体を塗り敵に目立たないように統一されていた。
朝起きて六時ごろになると、陸軍の天突き体操や駆逐艦の海軍体操、そして甲板掃除とあっちこっちでいろいろなことをやって賑やかで面白かった。
舵取りの当直員の人は船橋からいつも望遠鏡で、司令部からの信号や艦船からの連絡、応答、監視と懸命であった。
司令部に旗流信号が上がったので、急いで船長を乗せ、伝馬船を漕ぎ司令部に行った。船団会議らしい。
夕方になって船長が戻ると、
「すぐ煙突に三八と書け」と言う。
足場を組み、水夫が黒の煙突に大きく三八と書いた。三十八番目の列らしい。
次の朝、黒い煙を出し船団は次から次と出て行く。本船は後ろの方であった。
港を出る頃、また酔ったのか気分が悪くなる。船が揺れ出すとよけいむかむかしてくる。
駆逐艦が汽笛を鳴らし手旗信号を始める。
「シケノタメ、ゼンセンヒキカエセ」と・・・
船団はばらばらになって戻り始める。早い駆逐艦はみるみる船を追い越して進んでいく。すごく、勇ましい。
ぼろ船はどんどん追い越されてなかなか戻っていけない。私は歯がゆく感じた。
湾の中に戻ると酔いはすぐ治まった。湾の中は台風で避難した艦船で一杯であった。

ホームへ   前のページ  次のページ

 

 ご覧いただきありがとうございます。 LINKは自由ですが、ご一報いただければ今後の励みになります
 ご意見、ご感想はこちらにお願いいたします  メール 
 HP http://www.ando.on.arena.ne.jp/watasino_sensou/index.html    mail 筆者 fukuji71@a00.itscom.net 管理者 yando@c-able.ne.jp