[答え] 河野英男が昭和五年に「山口師範学校」を卒業し、「神玉小学校」に赴任したものの、当時は「短現」と呼ばれる短期兵役が六ヶ月あり、そのことを忘れて、教師になってから半年後という思いがそうさせたのです。 つまり、昭和五年三月に卒業後、半年の「短現」、そして、正式に着任、そして、半年後=「昭和六年春」ということになります。 ただ、その後=A思い出して、「昭和六年春」と書くようになったようで、このように二通りあるのは、父=英男の「責任」と言えます。 このことは、英男の没後でしたが、当時同じ「神玉小学校」に着任することになった「山中ユリコ」の証言であきらかになり、河村繁生氏(英男の師範学校時代からの友人で、元山口市立白石小学校長。英男の葬儀の際には、親身になって世話をしてくださいました。)によって、裏付けされました。 (ユリコは、英男と結婚、つまり、私どもの「母」です。)
|