平成19年7月5日 公開
平成20年12月15日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



4 「考古学者」の小川五郎氏に報告した河野の行為は自然だと思うがなぜ、考古学者の、小川氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏にさらに紹介したのか。


[答え]

小川五郎氏は出土状態からして「古墳人骨」であろうと推定されたのですが、「人骨」は、「考古学」というより、「人類学」の方が専門的に扱います。
そのため、小川氏は、旧制「山口高等学校」における親友であり、多くの因縁のある「京都帝国大学医学部病理学教室助手」の三宅宗悦氏を紹介されたのです。

「病理学教室」とは唐突な感じを受けられるでしょうが、当時の教室の教授が「病理学.人類学」双方の権威として他の追随を許さなかった学者「清野謙次」氏であったとともに、
当時は、教室の教授の意向が尊重され、「病理学教室」ではあっても、「人類学」のスタッフが認められたのです。
(そもそも、三宅氏が、京都帝国大学の助手として勤務されることになるのも、小川氏との因縁≠ェあるのです。)
小川氏は、「病理学」の三宅氏ではなく、「人類学」の三宅氏に連絡されたのですから、ごく自然なことでした。
三宅氏は、主任教授清野博士が全国の貝塚で発掘・蒐集した莫大な人骨を整理.計測し、遺物を分析したり=A代わりに人骨の蒐集に出かける(土井ケ浜出土の人骨も整理には「清野」の名がかぶせてある)など、清野氏の「人類学研究」の右腕として研究にいそしんでおられたのですから、「人骨出土」の場合の連絡先としては、ごく自然なことでした。
(引用♂モ所は、角田文衛氏の「人類学者 三宅宗悦博士」より。なお、同様な話は、三宅氏と同時期≠ノ、「京都帝国大学」におられた斎藤 忠氏からも伺っています。)
なお、後日談になりますが、この「京都帝国大学」の三宅氏に連絡したことが、清野氏のもと、三宅氏の兄貴分≠フような形でおられた金関丈夫氏にも係わっていくことになるのです。

「上」の「写真」=小川氏の「母校」=旧制山口高校勤務まもない時期の「写真」
ご子息=小川信氏にいただいた『小川五郎先生を偲んで』(五郎氏の教え子の方が編集・刊行)から「スキャナ」で取り込みました。
 信氏は、国会議員等をなさった方ですが、この書籍を贈ってくださったのを始め、いろいろと、協力してくださいました。
「下」=清野謙次氏。 (斎藤忠氏の『考古学史辞典』にある「写真」を「スキャナ」で取り込ませていただきました。)


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