[答え]
春成秀爾氏が、生前、父=河野英男に「出土地点」を教えてほしいと依頼して来られ、英男が指摘した図があります。
「上の図」は、そのことを知っていた私が、春成氏にお願いし、逆に¢翌チてもらったものです。 道すぐそばの文字は、藤本菊二元「山口県教育長」が、『陶片の楽書』の「序」に例の小さい字でと書いてくださっているように、大きな体であるのに、細かな文字≠書くと、ある意味では評判だった父=英男が、目が不自由になりつつあるころだったこととて、大きな文字≠ナ書いています。 英男は、単に=A[1982(昭和57)年−1931(昭和6)年=51#N前]の「記憶」によって「図示」しているワケではなく、「金関発掘調査」時は、「山口県教育庁社会教育課」の[文化係長→課長補佐]という形で係わっており、位置の指示は的確≠ノなされているハズです。 (引用した『日本農耕文化の生成』の「山口県土井浜遺跡」の中で、 注3 に記してある、金関丈夫氏らの、現地で聴いた「情報」とも一致≠オています。 当然=A本道から約三十間余入つた道の北側なら、住宅のある場所ですから、おかしいワケです。 従って、当時≠ヘ、英男に「確認」はされなかったといいます。 なお、春成氏が、英男に「確認」をされたのは、金関 恕氏が、「健在なので、直接、聞かれた方がよい」と、「アドバイス」されたからとのことでした。 恕氏の「学問的な姿勢=vとして、心に留めておきたいと思い、付記しています。) 春成氏は、英男に「発表稿」の「抜き刷り」を送ってくださっています。 (「山口県文書館」に寄贈してあります。[河野英男収集資料 bV6= 「土井ヶ浜集団の構造」 ]) |