[答え] 清野謙次氏は、生体染色法の応用によって組織球性細胞系を発見した、「病理学」の世界的な学者で、大正11(1922)年に「帝国学士院賞」を受賞した「病理学者」であったダケでなく、「人類学」においても、第一人者でした。
三宅宗悦氏は、京都府立医大を卒業し、府立医大の研究室に残ることが決まっていたのですが、濱田耕作氏のカフェ・アーケオロジィが縁で、清野氏によって京都帝大の「病理学教室」に招かれ、「人類学」の研究者として、清野氏の研究を助けておられたのです。 三宅氏は、当然=A清野氏の「研究資料」とて、「土井ヶ浜出土」の「人骨」を、清野氏に、「報告」されたのです。 だからこそ、清野蒐集人骨としての通し番号≠フモトに「整理」されているのです。 そのことは、清野氏から、金関丈夫氏との共著『人類起源論』という大著の表表紙裏に為 紀念 謹呈 昭和六年十一月 著者 清野謙次≠ニサインをして、英男に贈って来られたことからもわかると思います。 (なお、裏表紙裏には山口高等学校小川五郎氏紹介ニヨリ京都帝国大学医学部病理学教室三宅宗悦氏十月二十日粗製組立石棺研究ノ為神玉村土井ヶ浜ニ来ル。氏の紹介ニヨリ医学博士清野氏ヨリ送ラル 六、一一、一 ひでを≠ニ書いています。)
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