、「出版」は難しかった≠ニいうことでしょう。
(「博士号」もまだ、取得されてはおらず、「医学士」でした。なお、三宅宗悦氏、駒井和愛氏も、「博士」としたものが多く見受けれますが、「土井ヶ浜遺跡」に係わられた「昭和のはじめ」は、「学位」は取得されていません。
ただ、一般的≠ノ、後年の「地位」等で記すようですので、例えば駒井氏は、「東京大学教授」とされているのが少なくありません。)
「写真」や「図」を多く取り入れ、500頁°゚い、豪華≠ネ「書物」を[昭和3年4月20日]に「岡書院」から「定価 五圓」で「出版」するには、「人類学者」としても著名≠ネ清野氏の「名」が、必要≠ナあったということだと思います。
実質=A金関氏の「執筆」であったとしても、共著として清野氏が名を連ねられている以上、清野氏に、責任があるということですから。
(参考)
清野氏は、三宅氏を自分の教室に招き、三宅氏に「人類学者」としての道を歩むようにされたダケでなく、金関丈夫氏が、「人類学者」としての道を歩くことになったきっかけにも、実は清野氏がかかわっておられるのです。
金関氏は、「解剖学教室」に入って、指導教授の舟岡氏から与えられたテーマ「鼡の尻尾を動かす腱の構造」が期待に添えず、しょげておられた時、同じ「解剖学教室」のいま一人の教授で、「人類学者」でもあった 足立文太郎 氏および清野氏のすすめで、「人類学」を志すことになったというわけです。
(このことは、国分直一氏から、ぜひ読んでほしいと紹介されて購入した『えとのす 21= 金関丈夫博士 その人と学問の世界』(昭和58年7月 新日本教育図書株式会社刊)の中の浜田 敦氏の「金関先生を悼む」という「文章」の中に書かれていたものです。
この浜田氏の「一文」の存在を知ったことで、浜田氏への「電話」をしたワケですが、見ず知らず≠フ「私」に対して、思いもしなかったほどの暖かい=u対応」を、浜田氏がしてくださったことが、この「土井ヶ浜遺跡の発見=E発掘史=vを、私なりに調べようとしたきっかけ≠フ一つになっているのです。
浜田氏は、F先生としておられますが、すぐ≠かることですので、私は舟岡氏と記しています。
なお、舟岡氏の、「教授」としての指導方針は、臨床に役立つものを ということであったようで、浜田氏は、「批判」しておられるワケではありません。)