[答え] 11−[1] 三宅宗悦氏の「鑑定」
「骨」の主成分は「リン酸カルシウム」で「酸」に溶けやすく、酸性の強い土壌のなかに埋まると、長い年月を経るうちにかたもなく溶けるといいます。
従って、土壌の多くが酸性である日本の場合、人骨の保存には適していないということになります。 このことから、「甕棺」等に収められた場合はともかく、通常の場合、人骨は残らないのです。 ただ、 たまたま、石灰岩地帯であったり、「貝塚」であったりすると、土壌中の「カルシウム・イオン濃度」が高く、土質が「弱酸性」あるいは「アルカリ性」になるため、骨が溶けずに保存されることがあるのです。 清野・三宅両氏の研究に、「弥生」に先立つ、縄文人の人骨が「貝塚」から多量に供されたのはそのためであり、「土井ケ浜遺跡」の場合は、「風成砂丘」で貝粉≠多く含んでいたことが、例外的に、弥生時代人の人骨を多量に遺したということのようです。
今日の「人類学」の成果から、 @ 「縄文人骨」 A 「土井ケ浜遺跡の弥生人骨」 B 「古墳人骨」 C 「現代人の人骨」 を比較してみると、@は極端に他と異なっているが、A・BACはある意味では似ており、特に、Aは、B以上にCに近いという関係が明らかになっているといいます。 比較する「弥生人骨」が無いに等しかった当時、「大学に持ち帰った」二つの頭骨の計測の結果を、それまでの人骨の数値と比較し、かつ、駒井氏から届けられた「弥生式土器片」とから、三宅氏は、「弥生時代」に近い「古墳時代」の人骨であろうと小川氏の推測を肯定、その発表を小川氏が編集し、三宅氏自らも創立発起人として名を連ねていた「防長史談会」の機関誌『防長史学』にされたのです。
11−[2] "他日〃詳細を発表は・・・?
しかし、その『報告文』において、改めて"他日〃詳細を発表するとしながらも、結局まとめる機会を持たないまま三宅氏は「昭和十九年」、「レイテ」にて戦死されたのです。「昭和6年」から「昭和19年」の間には、少しばかりの期間≠ェあることから、「まとめる機会がなかった」ということには、「戦死」よりも、直接的には、昭和13年、思いもかけなかった清野氏の退官、さらには、清野氏が三宅氏を助手として招くことになるきっかけ≠作り、終始、三宅氏の理解者であった京都帝国大学総長 浜田耕作氏の死が重なったことで、翌十四年、大学を離れたことの方がより深く関係しているかもしれません。 |