平成19年7月5日 公開
平成22年12月30日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



12 @ 衛藤和行氏の金関丈夫氏に届けたとされるものがまちまちである。本当は何だったのか?

A 「人骨を届けた」という説の通りだとすれば、なぜ、人骨を改めて、九州大学に知らせたのか?
  B なぜ出土品を「考古学」関係でなく、「解剖学教室」に届けたのか?





[答え]

12−[1] 簡略すぎた=u土井ヶ浜遺跡」の原典=『日本農耕文化の生成』中の「山口県土井浜遺跡」
 金関丈夫・坪井清足・金関恕共同執筆となっている「土井ヶ浜遺跡」の原典=『日本農耕文化の生成』中の「山口県土井浜遺跡」(註土井浜遺跡≠ナはない)に、

戦後、神玉中学校教諭の衛藤寿一氏が、(河野英男の後)再び当地で出土した人骨を採集して、昭和二十八年九州大学医学部解剖学教室に通報された。これが五次にわたる調査の端緒となったものである。


とあり、この記述が簡略♂゚ぎた?ことが一因だと思われます。

そのため、いろんな推測≠ェされたのでしょうか。

以下、私は、この原典≠フ記述をも修正する事実≠述べるわけですが、金関丈夫氏が亡くなられていた以外は、「土井ヶ浜遺跡」と重要な関わりを持たれていた関係者が私が発表した「平成4年」当時はお元気であったことが幸運であったと言えるのです。
衛藤和行、永井昌文両氏の証言=E協力≠ネくしては、「土井ヶ浜遺跡のなぜ?=vは、永遠になぜ?≠フままになっていたのですから。


12−[2]「衛藤和行」氏から「金関丈夫」氏への経路
 昭和六年の出土以後も、何度か人骨が出土したのに、なぜ衛藤氏は「人骨」を改めて「金関」氏に届けられたのか?
「先生、なして人骨を改めて九大に送っちゃったんですか?」
「なんで古墳人骨というのはおかしいと判断しちゃったんね?」
「なして、解剖学教室なんね?」
私は、親しさにまかせて、こんな失礼な言い方を衛藤氏としていた。
すると、しばらく間≠ェ空いたあと、「あんたは記憶を呼び戻してくれるのぉ」といわれ、次のような話をしてくださったのです。
(私は、一流新聞社≠ニいわれる「朝日新聞社」や「毎日新聞社」の記者でさえ、取材≠ニ違ったことを書くということを経験しているので、私自身、話を伺う場合、「電話」は、テープにとることを告げた上で録音し、そのテープを何度も聞き返すことで、正確に¥曹ュことを心がけています。
「土井ヶ浜遺跡」関係に限らず、「萩焼」関係・「野村望東尼」関係等についても同様で、テープの数は「二百本」近くあります。公開≠キるつもりはありませんが、私の「記述」は、それなり≠ノ「確信」のあることです。)

12−[3]発見は前年生徒からの情報によって→椿氏経由鏡山氏、それからが金関℃
 平成22年12月以降≠ヘ、「修正」されていますが、それまでは、「人類学ミュージアム」も、昭和28年(1953年)≠ノ、浜で拾った貝で出来た腕輪・人骨がきっかけとなって、その年の10月には、発掘調査が始まったかのようにしていました。
実際は前年の昭和二七年六月頃が始まり≠セったのです。


今日の「土井ヶ浜遺跡」の中に「青年研修所」を作るに際し、
出土した人骨類が道端に積んであった=B
そのことを女生徒に聞いた、新制の「神玉中学校」の美術教師であった衛藤和行(雅号寿一)氏は
好奇心から′サ地を訪れ、その積み上げられた人骨の中に、貝で作った見なれぬもの≠ェあることに注目したというのです。
貝で作った見なれぬものがあったがゆえに、採集≠オたのであって、「人骨」に特別の関心があったわけではなかったというのです。


「写真」は、衛藤氏と「生徒達」の「写真」です。
「土井ヶ浜遺跡のindex」にも示していますが、「ホームページ」は、いきなり=u該当ページ」に飛ぶこととて、この「写真」に限らず、重複≠オた「写真」や「記述」をしています。




「土井ヶ浜遺跡の考古館」に展示してあった頃の貝釧≠ナす。
右側」が土井ヶ浜遺跡発掘のきっかけとなったものです。

この貝釧≠「鞆」ではないかとして、永井昌文氏は、『土井ケ浜出土の異型貝製品』〈『日本民族文化とその周辺考古編』/昭和五五年十月発行/国分直一博士古稀記念論集編纂委員会〉に発表されているのですが、次の〈13−[1]〉で記すように、この貝釧≠ェ発掘調査のきっかけ≠ノなったということは、ほとんど忘れられたような感じでした。
幸いにも、執拗な私の問いかけに、衛藤氏が思い起こしてくださったのですが、衛藤氏は、当初は「永井さんが持っているはずだ」とおっしゃったのです。(衛藤氏は、年齢的にも近く、「発掘調査」も長年、共にされたこともあって、金関丈夫氏は別格で先生≠ナしたが、その他の、後に、「日本考古学界」の重鎮となられた方々に対しては、さん≠ニ言われていました。)
永井氏に電話すると、「そんなことはない。返したよ。たしか、考古館≠ノあったと思うよ」とおっしゃったのです。
この所在確認≠フ際、永井氏は、その「貝の加工品」のことは、「書いて発表しているよ」とも教えてくださったのです。
早速、私は、防府から土井ヶ浜に出かけ、永井氏のおっしゃったように、「考古館」に展示してあることを確認、更に、衛藤氏にも、それがきっかけ≠ニなった貝釧≠ナあることを確認してもらいました。



しばらくして、思いついて、かねて敬愛していた椿惣一氏が「長府博物館」におられたので、軽い気持ちで見せたのだということでした。
きっかけ≠ヘ、こんなことだったというのです。
衛藤氏が「土井ヶ浜遺跡」の「発掘調査」で果たされた大きな役割は、「衛藤和行氏の文他」で述べますが、きっかけ≠サのものは、好奇心≠セったのです。
この「椿惣一」という人物は、英男によれば、伊藤周一氏とともに、山口県においては傑出した教育者であったといいます。
豊浦小学校長等を歴任され、昭和24年から「長府博物館長」をしておられたのです。
椿氏が、衛藤氏の尊敬する人物であったことは、この「土井ヶ浜遺跡」には大きな要素なのです。

 明治15年1月14日〜昭和44年2月14日(享年 87歳)
椿氏の『私の一生』〈昭和41年10月20日発行 編集発行=財団法人長府博物館 より〉


さらに、次のことが幸いしました。
当時の「長府博物館」は、椿館長と、伊秩(当時は旧姓の岡村)洋子氏の二人がスタッフでした。
椿氏は、「博物館」に来館者が少ない(というより、一日の来館者が数人程度ということが少なくなかった)ことに心を傷め、啓蒙の意味も含めて、大規模な『古代文化展』を企画、そのためのアドバイザーとして、九州大学助教授の考古学者鏡山猛氏に協力を要請されていたのです。
この企画の煮詰まった"好機〃に出土した貝の加工品が持ち込まれたのです。
そこで、椿氏によって、鏡山氏が紹介されました。
鏡山氏および氏のもとで研究していた助手の渡辺正気氏が鑑定、両氏とも、「古墳時代」をかなり遡るものと判断されたといいます。
さらに、「人骨」とともに出土したということから、鏡山氏は、同じ九州大学の金関氏に紹介されたのです。
写真説明 前列中央が鏡山氏。右隣が渡辺氏。
2列目で二人の間に見えるのが永井氏です。

なお、「土井ヶ浜遺跡」には関係がないが、永井氏のすぐ左は岡崎敬氏、さらに左は森貞次郎氏で、お二人もまた著名な考古学者です。

鏡山氏が金関氏に紹介されたのは、「台北帝国大学教授」から、敗戦に伴って「九州大学教授」に転任されていた「解剖学教室」の金関氏が「人類学」の権威≠ナあり、帰国に伴って、研究対象≠「弥生人の人骨」にされたものの、肝心の「弥生人骨」そのものの発掘≠ェほとんどなく、その発見を渇望されていたことを知っていたためであるといいます。
しばらくして、衛藤氏へは、金関氏の教室の助手、原田忠昭氏がコンタクトを取ってこられたといいます。
 出土品を「解剖学教室に」といういささか意表をつく経路もこうして、ごく自然なことと立証されたのです。
この鏡山氏に見せたという日時の記録は、残念ながら、『長府博物館日誌』にはみあたりません。
ただ、鏡山氏に正式に協力の確約を得た時のことは、『昭和二七年度日誌』に次のようにあります。
六月十九日(木曜日)雨   今秋九下月句に開催予定の古代文化遺品展連絡のため椿館長諸鹿吉村両氏及岡村九大行 
鏡山日野干潟の三教授と懇談其の後三岸節子個展と九州古陶器を見る
 何もかも順調に進行して満足であった 
留守は大宮に依頼  入館者なし 従って、この「昭和二七年六月十九日」という日以後、衛藤氏への「金関氏の使者 原田氏」が、その「礼状」を投函している「八月二三日」以前のある日≠ニいうことで、満足しなければならないようです。
(当時、鏡山氏と行動を共にしておられた渡辺正気氏も、私の『発表誌』の「抜き刷り」をお送りしたお礼をいってこられた手紙の中で、
夏の日ざしのさんさんと照る昼間だった気がします。
その時持参してこられた方が衛藤和行先生であるとは名前を一切覚えていません。
(椿先生、鏡山先生、渡辺氏の)外にも何人もいられました≠ニ書いておられます。)
では、なぜ、「土井ケ浜遺跡発掘」に鏡山氏の名が出てこないのかということになるが、
渡辺氏は「鏡山先生には当時手掛けておられた発掘があったこと、九州の大学はできるだけ"九州≠ノ主力をおくべきだと考えておられたこと、
そして、なによりも、"人骨"中心の発掘を「権威者=金関丈夫教授」が指揮されるのだから、他の発掘を置いてまで参加する必要を認めなかった」と説明される。

金関氏が、教え子≠ナある「京都大学大学院生」(「台北帝国大学転任後も、「人類学」の出張講義に「京都帝国大学」に来校されていました)の坪井清足氏、ご子息の恕氏に、「考古学」的協力を求められたのも、鏡山氏が他に発掘を抱えておられたからです。


かくして、「女生徒」の情報→衛藤氏の「奇妙な貝製品」への好奇心(衛藤氏の言葉)→衛藤氏の敬愛する椿氏の存在→椿氏から鏡山氏への紹介→鏡山氏の金関氏への紹介→衛藤氏への問い合わせと教室員による「調査」→九州大学医学部解剖学教室を中心とし、ご子息の恕氏に、坪井清足氏らのメンバー、そして、重要な役割≠果たす衛藤氏らによる発掘・・・・必然%Iな流れ≠ェあったのです。