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日本最古の長登銅山跡 
 
大切4号坑口 長登銅山跡は、奈良時代から昭和35年まで採掘された銅山ですが、奈良時代から平安時代にかけて国直轄の採銅所[長登採銅・製錬官衙]が置かれ、約200年以上にわたって大変栄えたところです。その後、江戸時代前期と明治・大正時代にも採掘のピークを迎え、長登には各時代の遺跡が随所に残っており、鉱山の時代変遷を探るには格好の地となっています。
特に古代の鉱山の様子が見学できる全国唯一の遺跡です。
長登には「
その昔、奈良の大仏の銅を献上しており〔奈良登り〕と呼ばれていたことから、なまって長登(ながのぼり)になった。」という地名伝説が語り伝えられていました。しかし、古代の古文書に長登銅山を示す資料は全く見当らず、信憑性のない伝説として長い間見過ごされてきました。 
大切4号坑口
ところが、昭和47年9月美東町史編纂の調査で、長登字大切の山中から数片の須恵器が採集され、長登銅山跡が古代にさかのぼる日本最古の銅山であることが判明しました。
また、昭和63年には、奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の料銅は長登銅山産であったことが実証されました。東大寺正倉院に残る古文書には、長門国司から26474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと考えられています。26474斤は今の約18tに相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。
なお、平成15年7月には、大切谷を中心とした約35万4千uが古代鉱山遺跡として、国内で初めて国の史跡に指定されました。
 
 
      長 登 銅 山 の 歴 史      (2012・8・25 更新)
奈 良 時 代 
 698年(文武天皇2年) 長門国から緑青を献ず。因幡国・周防国銅鉱を献ず(公記録の初見)
 8世紀初頭 長登銅山に国の役所(官衙)が置かれる。和同開珎の原料銅か?
 726年(神亀3年) 長登製銅官衙に庸米の税金が納められる 
 732年(天平4年) 周防国大島郡から調の税金として塩が送られてくる
 8世紀中頃
奈良の大仏用の原料銅が盛んに産出される (銅26,474斤) 
奈良登りが長登の語源になる
 743年(天平15年) 聖武天皇が「大仏造顕の詔」を発す 
 753年(天平勝宝4年) 東大寺大仏(盧舎那 仏)の開眼供養
平 安 時 代 
 9世紀頃から 銅の生産が減少し、鉛の生産が多くなってくる。(貨幣も鉛を多含) 
 859年(貞観元年) 長門国採銅使として医師の海部男種麻呂(あまべのおたねまろ)が任命される
 869年(貞観11年) 長門国採銅使が解任され、長門国司が任務を代行する
 885年(仁和元年) 長門国から豊前国に破銅手、掘穴手を送り技術を教える 
 1180年(治承4年) 平重衡(たいらのしげひら)の兵火により東大寺大仏は伽藍ともども焼失
鎌 倉 時 代 
 1185年(文治元年) 重源上人等の努力により、大仏殿落慶供養が営まれる 
室 町 時 代 
 15世紀初頭 小規模な銅の製錬が行われる (大内氏関連)
 16世紀中頃 大内盛見の菩提寺山口国清寺が銅山経営に関与する 
 1567年(永禄10年) 畿内の勢力争いの中で、松永弾正により東大寺が焼失 
江 戸 時 代 
 慶長年間〜寛永14年(1637年) 毛利藩の直山として瀧ノ下・大切山を採掘
 1610年(慶長15年) 毛利氏の検地帳に、長登銅代 銀10,608石9斗9升と記録  
 1615年(元和元年) 長登鉱山の収入は14貫405匁で防長2州銅生産の40%を占領 
 1624年(寛永初年)頃 白目山から鉛50万斤を産出する 
 1637年(寛永14年) 徳川幕府は全国8ヶ所に寛永通宝をつくることを命じ、その1つが美東町赤郷の銭屋。4年間、鋳造。鋳造禁止の命が出たが後も鋳造を続けていたため、藩吏によって焼き払われた。 
 1666年(寛文6年)頃 美祢代官 勝間田権左衛門就通が銅231,421斤(約139t)を備える 
 1671年(寛文11年) 大切山坑内の水が引き採掘再開 (12年山神社に洪鐘を寄進する) 
 元禄年間(1688〜1703年) 大坂泉屋市郎兵衛、吉左衛門手代平助などが採掘 (年間1万斤) 
 江戸時代後期 もっぱら岩絵の具“瀧ノ下緑青”の製造が行われ、全国的に有名になる 
 1692年(元禄5年) 公慶上人の大勧進により大仏開眼供養が営まれる 
明 治 ・ 大 正 ・ 昭 和 時 代 
 1889年(明治22年) 山陰の鉱山王、島根県の堀藤十郎礼造が鉱業権取得、35年より採掘 
 1902年(明治35年) 生田国造が大田鉱床を採掘 (大田鉱山と呼称) 
 1905年(明治38年) 花の山製錬所開設。1918年(大正7年)まで操業 
 1908年(明治41年) 烏帽子竪坑から全国で初めてコバルト鉱発見 
 1934年(昭和 9 年) 11月 桝谷寅吉が長年の犠牲者を弔い長登鉱山に千人仏碑を建立 
 1935年(昭和10年)頃 下関の松坂産業が喜多平鉱山(北平鉱山)の褐鉄鉱採掘。恵銅坑などで月産100tの鉄を産出したが、昭和29年閉山 
 1960年(昭和35年) 野上鉱業が採掘を中止、37年事務所閉鎖。[長登・水溜鉱山が閉山] 
 1972年(昭和47年) 大切谷で須恵器(奈良時代)が発見される 
平 成 時 代 
 1989年(平成元年) 長登銅山跡の本格的発掘調査が開始される 
 2003年(平成15年7月) 大切谷を中心とした約354,000uが古代鉱山遺跡として、国の史跡に指定 
 2009年(平成21年4月) 長登銅山文化交流館が開設(構造…木造瓦葦平屋建/床面積…368.92u) 
埋もれた地下の正倉院 
大量に出土した木簡や墨書土器の文字史料から、長登銅山跡が国直轄の採鉱・製錬官衙であったことが明らかとなりました。

木簡には、税金として美祢郡内から搬入された庸米の付札や周防国大島郡から届けられた塩(調の税金)の荷札などがあり、外には大量の木炭を供出した人名、技術者が製錬した銅インゴットの付札などがあります。まだまだ多数の木簡が地下深く埋蔵されており、貴重な古代の文字史料が眠っているといえます。

なお、これまでの発掘調査で800点を超える大量の木簡が出土しましたが、その内203点が平成13年9月に山口県指定有形文化財(歴史資料)の指定を受けています。
木簡
長登木簡
 花の山製錬所跡(花の山公園)
 花の山製錬所跡  指定地域図
 花の山製錬所跡 国史跡:長登銅山跡指定地域図
山神社 
江戸時代に、鉱山の繁栄と作業の安全を祈って勧請された鉱山の守り神「大山祇命(オオヤマズミノミコト)」を祀った神社です。
1672年(寛文12年)に、長登銅山で採れた銅を鋳造した
洪鐘(こうしょう)【市指定文化財】が奉納されています
秋は
、紅葉やいちょうが見どころです。 
 
 
 
 
 
山口県美祢市美東町長登610番
TEL/FAX 08396-2-0055
E-mail naganobo@c-able.ne.jp