長 登 銅 山 の 歴 史 (2012・8・25 更新) |
奈 良 時 代 |
698年(文武天皇2年) |
長門国から緑青を献ず。因幡国・周防国銅鉱を献ず(公記録の初見) |
8世紀初頭 |
長登銅山に国の役所(官衙)が置かれる。和同開珎の原料銅か? |
726年(神亀3年) |
長登製銅官衙に庸米の税金が納められる |
732年(天平4年) |
周防国大島郡から調の税金として塩が送られてくる |
8世紀中頃 |
奈良の大仏用の原料銅が盛んに産出される (銅26,474斤) |
奈良登りが長登の語源になる |
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743年(天平15年) |
聖武天皇が「大仏造顕の詔」を発す |
753年(天平勝宝4年) |
東大寺大仏(盧舎那 仏)の開眼供養 |
平 安 時 代 |
9世紀頃から |
銅の生産が減少し、鉛の生産が多くなってくる。(貨幣も鉛を多含) |
859年(貞観元年) |
長門国採銅使として医師の海部男種麻呂が任命される |
869年(貞観11年) |
長門国採銅使が解任され、長門国司が任務を代行する |
885年(仁和元年) |
長門国から豊前国に破銅手、掘穴手を送り技術を教える |
1180年(治承4年) |
平重衡の兵火により東大寺大仏は伽藍ともども焼失 |
鎌 倉 時 代 |
1185年(文治元年) |
重源上人等の努力により、大仏殿落慶供養が営まれる |
室 町 時 代 |
15世紀初頭 |
小規模な銅の製錬が行われる (大内氏関連) |
16世紀中頃 |
大内盛見の菩提寺山口国清寺が銅山経営に関与する |
1567年(永禄10年) |
畿内の勢力争いの中で、松永弾正により東大寺が焼失 |
江 戸 時 代 |
慶長年間〜寛永14年(1637年) |
毛利藩の直山として瀧ノ下・大切山を採掘 |
1610年(慶長15年) |
毛利氏の検地帳に、長登銅代 銀10,608石9斗9升と記録 |
1615年(元和元年) |
長登鉱山の収入は14貫405匁で防長2州銅生産の40%を占領 |
1624年(寛永初年)頃 |
白目山から鉛50万斤を産出する |
1637年(寛永14年) |
徳川幕府は全国8ヶ所に寛永通宝をつくることを命じ、その1つが美東町赤郷の銭屋。4年間、鋳造。鋳造禁止の命が出たが後も鋳造を続けていたため、藩吏によって焼き払われた。 |
1666年(寛文6年)頃 |
美祢代官 勝間田権左衛門就通が銅231,421斤(約139t)を備える |
1671年(寛文11年) |
大切山坑内の水が引き採掘再開 (12年山神社に洪鐘を寄進する) |
元禄年間(1688〜1703年) |
大坂泉屋市郎兵衛、吉左衛門手代平助などが採掘 (年間1万斤) |
江戸時代後期 |
もっぱら岩絵の具“瀧ノ下緑青”の製造が行われ、全国的に有名になる |
1692年(元禄5年) |
公慶上人の大勧進により大仏開眼供養が営まれる |
明 治 ・ 大 正 ・ 昭 和 時 代 |
1889年(明治22年) |
山陰の鉱山王、島根県の堀藤十郎礼造が鉱業権取得、35年より採掘 |
1902年(明治35年) |
生田国造が大田鉱床を採掘 (大田鉱山と呼称) |
1905年(明治38年) |
花の山製錬所開設。1918年(大正7年)まで操業 |
1908年(明治41年) |
烏帽子竪坑から全国で初めてコバルト鉱発見 |
1934年(昭和 9 年) |
11月 桝谷寅吉が長年の犠牲者を弔い長登鉱山に千人仏碑を建立 |
1935年(昭和10年)頃 |
下関の松坂産業が喜多平鉱山(北平鉱山)の褐鉄鉱採掘。恵銅坑などで月産100tの鉄を産出したが、昭和29年閉山 |
1960年(昭和35年) |
野上鉱業が採掘を中止、37年事務所閉鎖。[長登・水溜鉱山が閉山] |
1972年(昭和47年) |
大切谷で須恵器(奈良時代)が発見される |
平 成 時 代 |
1989年(平成元年) |
長登銅山跡の本格的発掘調査が開始される |
2003年(平成15年7月) |
大切谷を中心とした約354,000uが古代鉱山遺跡として、国の史跡に指定 |
2009年(平成21年4月) |
長登銅山文化交流館が開設(構造…木造瓦葦平屋建/床面積…368.92u) |