当寺は大同3年(808)、弘法大師空海が諸国巡歴のおり、山肌の奇岩と瀬戸の風光に感動、霊域として開創したと伝えられる。
山腹の観音堂には、大師開眼による子安観世音菩薩を本尊としてまつり、のち大内弘世朝臣により、周防国第二十六番の観音霊場となった。
寛永5年(1628)毛利輝元公の姫君で吉川広正公御室は、観音堂(本堂)客殿等を重建、同11年(1634)広正公は観音堂前に石灯籠一基、同19年(1642)御室は梵鐘(現存)一口を鐘楼とともに寄進した。
延宝2年(1674)住持無一道縁は、その師右田の天徳寺第5世・隠居一線鉄同大和尚を中興開山に勧請し、天徳寺末十三カ所の一つと定め、寺門の興隆護持につとめた。そののち三百有余年、三十三の化身により人々の苦難を除き、願望をことごとくかなえてくださる観世音菩薩の深いお慈悲と、広大無辺な霊験を信仰し帰依する多くの老若男女に支えられ、安産子育ての「子安観音」をおまつりする観音霊場として現在にいたっている。
境内には聖観世音菩薩・地蔵菩薩・乳観音さま・お薬師さま・お大師さまをまつり、梵鐘は昭和54年、市の有形文化財に指定された。なお現伽藍は昭和55年2月に再建された。山腹の観音堂は、平成5年8月の集中豪雨で倒壊してしまったが、平成8年4月に檀信徒の喜捨により山麓に再建された。山頂にかけての山道沿いには、西国三十三観音を模した、自然石に彫られた三十三体の観音像(磨崖仏)が今も残っており、当時の篤い信仰を今に偲ばせている。ご本尊は、七年に一度のご開帳の折、一般に公開されている。
次回の開帳供養は令和7年(2025年)4月の予定です。
ご縁日 2月18日・8月9日