この梵鐘は、寛永19年(1642)に岩国藩主吉川広正室(毛利輝元の長女)が鋳造させ、鐘楼とともに観音寺に寄進したものです。元和2年(1616)、小俣、台道、岩淵は吉川広正室の化粧料所にあてられました。夫人は観音寺に深く信仰を寄せ、この梵鐘と鐘楼のほかにも寛永5年(1628)本堂、客殿を重建するなどしています。
総高104.2㎝、口径60.2㎝の中型の梵鐘で、多彩な文様をもち、上部の乳の間の並びには数珠と三鈷杵を執る弘法大師像が、池の間には飛天像が鋳出されています。
梵鐘の鋳造にあたったのは三田尻を本貫とする塚本信久です。彼は萩藩に召し抱えられ、大筒をはじめ様々な藩の鋳物細工を引き受けましたが、正保4年(1647)、毛利秀就から「郡司讃岐」を允許され、判物を与えられています。以後彼の子孫は八家に分かれ、それぞれ砲術家、鋳造家として藩に仕え、郡司家は近世を通じて繁栄しました。
この梵鐘は彼が郡司讃岐となる以前、塚本性であった時期の作で、彼が鋳造した梵鐘としては現存する中で最古のものであり、また近世の防長の梵鐘として最初のものとして貴重な存在です。
平成20年3月 防府市教育委員会
西国三十三観音霊場は日本で最初に成立した巡礼で、近畿一円に分布する三十三の観音霊場をめぐります。奈良時代に徳道上人が創始し、平安時代に花山法王が復興したといわれています。中世以降は一般庶民にも広まり、江戸時代にはお伊勢参りと並んで多くの人々が巡礼の旅に出ました。そして現代においても多くの人々が札所寺院を訪れています。なお、西国三十三観音について公式ホームページがありますので興味のある方はそちらをご覧下さい。
二番に「紀伊国きみゐ寺」、十七番に「山しろ国六□ふ寺」と陰刻があることから、西国三十三観音霊場を模したことがわかります。
年代については、二十二番と二十三番の間に子安観音があり、正面に「子安観音 亀田氏」向かって右面に「明治十一年」と陰刻があるため、おそらくこの時代に造られたものでしょう。
観音寺近郊には磨崖仏が多くあり、山口市鋳銭司の陶ヶ岳、さらにすぐ南にある秋穂の真照院裏山にも磨崖仏があります。陶ヶ岳には江戸初期の作といわれる釈迦涅槃像と十六羅漢があり、真照院の裏山には江戸中期の明和2年作(1766)の地蔵菩薩、さらに磨崖仏ではありませんが大正14年(1925)に造立された西国三十三観音像があります。また防府市内では右田天徳寺の石船山の磨崖仏(大正年間作)が大変有名です。こちらは西国三十三観音ではなく、楊柳観音、龍頭観音などの三十三観音が奉られています。詳しくは天徳寺ホームページをご覧下さい。
第一番の厨子裏陰刻に「明治廿二年四月一日 當山十一世益道新添 発起人 亀田道允 末永藤太郎」とあります。
七年に一度の開帳供養の折には、この三十三観音は境内に奉安され、参拝者はご詠歌講を伴いながら「札打ち」をします。ご詠歌講は地元の岩淵地区と遠ヶ崎地区それぞれにあり、古く口伝により伝わってきた西国三十三所御詠歌をお唱えします。また、「札打ち」とは、中世から霊場巡礼の際に所願や姓名などを記した木製や銅製の納札を、札所本尊を安置する堂宇の柱などに打ちつけたことから由来した言葉で、現在でも札所寺院に参拝する事を「打つ」といいます。観音寺には計56枚の西国三十三観音納札(時代不詳)が残っており、開帳供養の際にはその納札を三十三観音前に奉納します。