構 成 〈下線部をクリック≠キると、該当箇所に飛べます〉 [1] 事実として [2]「萩焼」の「人間国宝」への「指定申請」のこと [3]旧「無形文化財」制度との関係≠ヘ? [4-1]四つの「理由」(レベル=E年齢=E解除=E複数) [4-2]難しかった「萩焼」からの「二人同時申請」のこと [5]もし、「二人申請」を断念していたら・・・ [6]三輪休和氏への思い |
[1]事実≠ニして、 ・「昭和31年10月」の「第3回 日本伝統工芸展」において華々しくデビュー≠オ、
・11月の「高島屋」において、識者への案内をした上での12代坂倉新兵衛氏の「個展」、 ・翌32年3月の新兵衛氏、三輪休和氏の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財(以後、「記録選択」と略記)」の認定=A ・4月の「三越」における休和氏の「個展」 (この「個展」の際は、「日経新聞」が大きく休和氏の文章を掲載しています) 、 ・5月の新兵衛氏、休和氏の「工芸会正会員」と、 さまざまな「萩焼」の力の認定≠ェあったにもかかわらず、 昭和33年4月の「平凡社」発行の 陶器全集 21『萩・上野・高取・薩摩』においてすら、佐藤進三氏によって、 山口県萩市を中心に、その付近に点在する萩焼は、今より三百五、六十年の長い歴史を誇って、今もなお、松本萩、深川〈ふかわ〉萩と呼ばれて栄えている。中央から遠く離れた本州の最西端の、辺境のこの萩焼については、中央の人士にもよく知られておらず、ただ茶の湯で漠然と知られているに過ぎない。古くから茶の湯では、「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれて、和物茶碗の尤なものとされていながら、案外世間でこの萩焼なるものの真相は知られていないのが現状である。早い話が、松本萩といい、深川萩というものの、距離的にも、歴史的にも、また作風の相違という点からも、ほとんど知られていない。その上、萩焼に関する著書も二、三を数えるに過ぎないので、一般の好事家も知る由がない。その点、萩焼の現窯元諸氏のPRが足りず、ただ萩焼第何代何々という歌い文句ばかりである。 と書かれてしまっているような「萩焼」でした。 この佐藤氏のこの「平凡社」刊の「萩焼」は、このすぐ後に、「昭和32年」の「萩焼古窯発掘計画」が中止(延期)≠オた原因≠作った張本人なのに、「山口県の妨害」などと、とんでもないことを書いているのは極端≠ナあるにしても、他にも、疑問がある箇所もあるのですが、 問題は、この陶器全集という企画は、「肥前の唐津焼」ダケで一冊、『柿右衛門・鍋島』で一冊≠ナあるのに対し、 「上野・高取・薩摩」と一緒で一冊の陶器全集 21『萩・上野・高取・薩摩』というように、 「萩焼」が田舎窯£度の認識しかなかったことは、認めざるをえない状況にあったことは確かだということです。 (もっとも、『信楽・伊賀・備前・丹波』(満岡忠成氏著)と、「人間国宝」の金重陶陽氏が存在≠オているにもかかわらず、「備前焼」の扱い≠ノも、疑問があるのですが、佐藤氏にしても、河野良輔氏や榎本徹氏同様=A「記録選択」を評価≠ウれていないとみえ、まったく触れておられないのが残念ですが、私は、この「記録選択」の意味≠ヘ決して、小さくはなかった≠ニ思っています。) ましてや、それ以前の「昭和30年」頃に、「萩焼」から「「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」(以後、俗称の人間国宝≠ニ略記)」に二人も∞同時申請≠キるということの無謀さがおわかりでしょうか。 |
[2] 「萩焼」の「人間国宝」への「指定申請」のこと 旧「無形文化財」制度のもとで、「萩焼」から第一人者=12代坂倉新兵衛氏を、「申請」しておけば多少は、変わっていたかもしれません。
なぜなら、この旧「無形文化財」による「認定」を、「人間国宝」と錯覚≠オているムキもありますし、「昭和33年」迄には、「萩焼」に目を向けてもらえていた可能性があるからです。 しかし、当初≠フ「無形文化財」には、衰亡の虞≠ェあるということが「条件」の一つにありました。 @ 当時=A既に「最悪期」を脱しつつあった「萩焼」、 A 「茶陶」としての「萩焼」にとって、衰亡の虞≠ェあるから助成≠オてほしいという「申請」をすることが適当かどうかには、迷い≠ェありました。 @、Aから、とりあえず、当面=A「申請」は見送り、他県の様子をみようとしたのが「山口県・萩焼」でした。 しかし、実際≠ノ「無形文化財」として「認定」された方々は、予想に反して=Aとても衰亡≠キるとは思えない、実力者≠ホかりだったのです。 『文化財要覧 昭和二十六年版』〈文化財保護委員会発行〉の190ページに「二 工芸技術関係 Β 個人、組織、地域的に有する技術の中助成の措置を講ずべきもの」として、 「荒川豊蔵」、「石黒宗麿」、「金重陶陽」、「加藤唐九郎」、「加藤土師萌」、「宇野宗太郎」の6人が[昭和27年3月選定]とあります。 翌年の『文化財要覧 昭和二十七年版』では、57ページ・58ページに「工芸技術関係」として、「徳田八十吉」、「今泉今右衛門」の2氏が加わって、計8人の名があります。 こうした方々が、国から助成≠オてもらえないと衰亡の虞≠ェある陶工・陶芸家でしたでしょうか。 例えば、この旧「無形文化財」には関係のない、富本憲吉氏の場合です。 朝日新聞社刊『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』の「富本憲吉氏のこと」 〈394頁〉 において、 昭和五、六年ごろ=A貧書生≠フ小山先生に「君五十銭貸してくれたまえ」といわれたことがある≠ニいうこと、 また、「石黒宗麿・人と作品」の中の「石黒さんの思い出と逸話」の中 〈364頁7行目〜〉 で、 石黒さんは生涯貧乏のどん底を悠々と闊歩してきた人だが、八瀬のあばらやで何とか恰好がついてのは、重要無形文化財の保持者に認定された昭和三十年ころからである。これは富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵、金重陶陽さんなど皆同じで、それまではくらしがたたなかったようである。 という記述があり、それをもとに、「休和物語」の疾風怒濤 〈161頁〉 で、 休和と同時代のこれらの陶芸家は、昭和三十年(一九五五)か三十一年に、人間国宝(重要無形文化財)に認定されるまで、「みんなくらしがたたなかったようである。」(小山冨士夫『日本の陶磁』) と書いており、さらに地の文≠ノおいて、 富本にも五十銭の電車賃にすら事欠く時代があった。 と書いています。 私どもの尊敬する小山先生の文からの引用≠ニはいえ、この件に関する限りは疑問があります。 私は、小山先生のようであるという書き方に注目すべきだと思います。 石黒宗麿氏 (見ず知らずでありながら、電話で、親切に、温かく対応してくださった 清水卯一 氏の師匠にあたる方です) の場合は、小山先生の本を読むと、スケール≠フ大きい大人物で、俳優の勝新太郎氏や藤山寛美氏に借金≠ェ多くあったから貧しかった≠ニいえるかどうかと似たような点があるし、 なによりも、富本氏の場合は、『現代日本の陶芸 第3巻』 「月報 6」の「対談 重要無形文化財指定のころを語る」において、「前東京国立近代美術館工芸課長 杉原信彦」氏と「東京国立博物館主任研究官 林屋晴三」氏とが、 林屋その時選定されていた方々は、焼物では志野、瀬戸黒ということで荒川豊蔵さん、天目釉ということで石黒宗麿さん、織部ということで加藤唐九郎さん、備前焼で金重陶陽さん、それだけですか?まだ富本憲吉さんとか・・・。 杉原富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。・・ ・ と語られている箇所があります。 事実 =A富本氏は、旧「無形文化財」ではありません。 要するに、貧しい≠ゥ否かは、主観的なものだということでしょう。 どのように「申請」されたのかはわかりませんが、当然、助成が必要≠ニいう形で「申請」されたでしょうから、小山先生もようであると書かれざるをえなかったのではないでしょうか。 |
[3] 旧「無形文化財」の人たちを基準≠ノしての二人同時申請 では、旧「無形文化財」制度は、「萩焼」には関係ないのか?いや、そうではありません。 旧「無形文化財」制度は、「萩焼」にというか、「山口県の担当者=河野英男」に、大きな指針≠与えたのです。 つまり、基準となるレベル≠ェ推測できたのです。 旧「無形文化財」の人達が、新=u無形文化財」、つまり、「重要無形文化財(「人間国宝」なる呼称≠ヘ、正式なものではありません)」に、横滑り≠オているかのように思われたからです。 つまり、最初の「重要無形文化財」保持者として、 旧「無形文化財」であった石黒宗麿氏と荒川豊蔵氏の2人と、 そうではなかった富本憲吉氏と浜田庄司氏の2人、計4人が発表され、 続いて、やはり旧「無形文化財」であった金重陶陽氏が認定されたのです。 旧「無形文化財」であった人達が、「重要無形文化財(人間国宝)」でない場合がある(=「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財(記録選択)」)ということがわかったのは、[昭和32年3月=昭和31年度]の発表ででした。 つまり、[萩の二人]の「記録選択」の認定と同時期だったのです。 従って、繰り返しになりますが、旧「無形文化財」は、「山口県」が「萩焼」の「指定申請」をする際の基準≠ノなったということなのです。 幸い、「萩焼」には、少なくとも、この旧「無形文化財」の方々のレベル≠ノ遜色ない二人≠ェおられると、父=英男(山口県教育庁社会教育課に設けられた初代文化係長)は判断しました。 しかし、常識的≠ノは、1人でした。 当然のように、「萩焼」から一人≠ニなると、「12代坂倉新兵衛」氏というのが常識でした。 「朝日新聞西部本社」の「学芸部長」であった源弘道氏も、私が白石氏の上司≠ニして、白石氏に適当なアドバイス≠してほしいと言った時は、話をするのを遮り、「文書にして寄越しなさい」という一点張り (これは、源氏に限らず、「マスコミ」関係者に共通しています) で、聞こうともしなかったのに、数年掛けて(知識≠フある源氏との会話なら、すぐにすむと思うのですが、「文書」となると、一々、資料≠示し、コピーを取る必要があります。また、私が英男から耳で聞いたことも、東京、京都に出かけなければ手に入らないのです。)調べ上げ、直接手渡そうと、都合≠尋ねると、 「僕はもう、学芸部長ではないよ」の一言で終わりでした。(もっと偉く≠ネられていたのですが。) それでも、ただ私に、「坂倉新兵衛が一番だったというのは常識≠セよ。白石君に教えてやるものはいなかったのかなぁ。」と言われたことだけは収穫≠ナした。(当然=Aこの「源氏氏との電話」も、「カセットテープ」に録音しています。) 「調査」の結果、既に、12代坂倉新兵衛氏を推すことは決めていたのですが、岸信介氏ら、政財界に知人≠フ多い新兵衛氏の周辺からも、「「昭和31年1月」に、「申請」してほしいという要望書≠ェ出されたといいます。 (具体的には、当時、「長門市の教育委員長」だった横山繁雄氏が持参されたと言います。 このことは新兵衛氏の追悼本=『陶匠 新兵衛』に書かれていますが、この「要望書」が出発点≠ナはありません。。誤解≠フないよう、注記しておきます。) しかし、英男は、旧「無形文化財」を参考に、この新兵衛氏だけではなく、いま一人の「申請」もしようと、既に動いていた (「課長」・「教育長」の了承のもと、文部技官=小山冨士夫先生に、二人申請≠ニいうことでの「来県調査」の下相談をしています)のです。 しからば、どういうふうにして、「萩焼」は中央へ認知されるようになったのか、それは、「重要無形文化財」への指定申請という行政%I経過とは無縁≠ナはないのです。 |
認定された方たちの技≠ェ「無形文化財 日本伝統工芸展」において公開≠ウれたのが「昭和29年3月」、それを参考にして、追加申請しようとしましたが、その間もなく、5月29日交付、7月1日から施行で、真に=u力」のみを対象とした、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」制度に変わったのです。
そこで、「昭和30年」には、「萩焼」からも、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」をすることにしました。 「萩焼」から「申請」するとすれば、当時≠フ第一人者=12代坂倉新兵衛氏≠セったのですが、 父=英男は、自費≠ナ、「第一回日本伝統工芸展」の会場まで出かけ、その技の実態≠見たといいます。 ただ、この時、『図録』は、ごく簡単なもので、購入しなかったといいますので、いろいろとあたり、「朝日新聞東京本社業務部」の簗場敏子氏の御配慮で、「第2回工芸展」の『図録』とともに「朝日新聞」にあるコピー (現物は、ないとのことでした) のコピー≠していただくことができました。 (「山口県文書館」に寄贈しようとしたのですが、なぜか、「第一回展」の『図録』の方は、突っ返されてしまいました。) 「文化財保護委員会」では、既に、調査・検討にかかっておられたのでしょう、「昭和30年3月」には、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の発表≠ェされました。 「陶芸」の場合、「人間国宝」には、旧「無形文化財」であった荒川豊蔵、石黒宗麿氏と、新たに富本憲吉氏、浜田庄司氏の4人が「認定」され、 「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」という形≠ナ、12代酒井田柿右衛門氏、中里無庵氏、川瀬竹春氏が「「選択」されました。 旧「無形文化財」の方々の技≠ェ「人間国宝」の参考になると、思った父=英男は、「第一回 無形文化財 日本伝統工芸展」を参考にして、「萩焼」から二人=u申請」に踏み切りました。 なお、その「二人同時申請」には、次の四≠ツの「理由」がありました。 |
新「無形文化財」の認定が、 「昭和29年度」における認定 旧「無形文化財」認定者から 「人間国宝」として認定 [荒川豊蔵・石黒宗麿] の2氏 新たな認定 「人間国宝」=[浜田庄司・富本憲吉] の2氏 そして、「昭和30年度」に、 旧「無形文化財」指定者 であった [金重陶陽]氏一人 が 「人間国宝」に追加認定されたのです。 なお、「昭和30年度」においては、旧「無形文化財」であった残り≠フ「5氏」=徳田八十吉・今泉今右衛門・宇野宗甕・加藤唐九郎・加藤土師萌の5氏については、未発表でした。 そのまま横滑り≠キると思ったわけではありませんが、「昭和30年」の段階で、旧「無形文化財」の方々の技≠ェ「指定」の基準≠ニなり得ると思ったというのです。 このうち、徳田八十吉氏は、昭和31年2月に亡くなられており、徳田氏は、新「無形文化財」としての認定はありませんが、他の4人は、結果≠ニして、「昭和32年3月」に、新兵衛、休和両氏ともども全員が「記録選択」だったのです。 |
上の「表」を見ていただくと一目瞭然ですが、村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん≠ニいう時代、既に七十歳を超えておられた新兵衛氏(昭和30年時点≠ナ75歳)よりも、一回り♂コの年代の方々が、他の陶芸地では、中心になっているということです。 父=英男も当然≠フように、このことを痛感≠オました。 人材≠ェなければどうにもなりませんが、幸いなことに、「父=英男」は、窯元の調査で、三輪休和氏が、新兵衛氏に匹敵する力を持っておられるという確信を持ったのです。 (断っておきますが、父が休和氏を同時申請しようと決意したことと、休和氏の「全日本産業工芸展」の入賞〈たとえそれが「会長賞」であったとしても〉とはまったく関係はありません。) 休和氏は、年齢的にも、まさに、実力者のひしめく「1893〜1900年」という、まっただ中にありました。 |
小山先生が、何度も「技術本意でいく。そのため、気の毒でも腕が動かなくなったら返上してもらう。」と熱っぽく「父=英男」に語っておられたことも、「二人同時申請」の可能性を真剣に模索させた「理由」の一つです。
(ただ、実際にどうであったかを調べることは、ことがことだけに、「遺族」の方に、お聞きすることもできず、かといって、何を調べればわかるか、東京まで出かけて「国立国会図書館」にも足を運びましたが、わかりませんでした。 しかし、幸いにも、中ノ堂一信氏から、「理念としては、現在も生きているし、条文にも書いてある。ただ、発効したことは一度もない。」と明確な形で教えていただきました。 ) しかし、実際≠フ解除≠フ例がないにしても、父としては、本気で受け取っていたのです。そして、小山先生の考えも、本気≠ナあったと思っています。
『文化財保護法』の条文 (当時≠フ条文で示します) (重要無形文化財の指定等の解除) 第五十六条の四 重要無形文化財が重要無形文化財としての価値を失つた場合その他特殊の事由があるときは、委員会は、重要無形文化財の指定を解除することができる。 2 保持者が心身の故障のため保持者として適当でなくなつたと認められる場合その他特殊の事由があるときは、委員会は、保持者の認定を解除することができる。 3 第一項の規定による指定の解除又は前項の規定による認定の解除は、その旨を官報で告示するとともに、当該重要無形文化財の保持者に通知してする。 4 保持者が死亡したときは、保持者の認定は解除されたものとし、保持者のすべてが死亡したときは、重要無形文化財の指定は解除されたものとする。この場合には、委員会は、その旨を官報で告示しなければならない。 [参考] @ 指定≠ニ認定≠ェ並べられていることは、注意する必要があると思います。 A 保持者のすべてが死亡したときは≠ニあることは、次の複数の保持者がありうるということです。 このように解除≠フことが「文化財保護法」にあるほか、 「文化財保護法の一部改正について」 (昭和二十九年六月二十二日文委企第五十号文化財保護委員 会事務局長から各都道府県教育長あて通達) 〈『文化財要覧 昭和30年版』の場合は、60頁〜89頁に掲載。〉 にも、「写真」のように書かれています。
新兵衛氏に、万一のことがあった場合、すぐ次の陶工≠というわけにはいかないのです。 ───〈参考=「60歳≠ェおじいさん」ということについて〉────────────────────────────── 「人生五十年」だった戦前は、四十で初老、五十を過ぎれば老人と考えられていた。昭和初期の文芸作品には、五十三歳の老婆などといった言い方をよく見かける。 [ウィキペディア]より抜粋
──────────────────────────────────────────────────────── |
旧「無形文化財」の時は、文面を馬鹿正直≠ノ取ったことがある意味では失敗だったかもしれませんが、今回は、複数の場合もありうる≠ニいう「通達」を根拠に、「二人同時申請」を決意し、上司の方々に理解を求めたのでした。 (但し、この複数℃w定はこの時以降も、「小鹿田焼」という特殊なケースを除けば、形として現れず、「備前焼」の場合が顕著な例となると思いますが、「運用」として、認定者が亡くなれば、次の実力者≠ェ新たに認定されるというのが実態です。ただ、この時は、「文面を素直にとった」ことが功を奏したというわけです。 なお、「小鹿田焼」は、展覧会出品の際でも、組合や技術保存会が陶工・技術者に代わって出品し、可能な限り個人名を出さない仕組みで評価を問うというように、昔から共同作業が定着しているところで、小鹿田には「作家」が存在しないといわれ、作家活動を否定する珍しい窯場であることが、複数の人間を「総合指定」した理由といいます。)
文化財保護法の一部改正について (昭和二十九年六月二十二日文委企第五十号文化財保護委員 会事務局長から各都道府県教育長あて通達) 〈『文化財要覧 昭和30年版』の場合は、60頁〜89頁に掲載。〉 昭和二十九年五月二十九日法律第百三十一号をもつて文化財保護法の 一部を改正する法律が公布され七月一日から施行されることになりました。 このたびの改正は、昭和二十五年八月文化財保護法施行後三年有半の同法の経験にかんがみ、その規定を整備したものでありますが、 その主要な点は、次の通りであります。 とあり、次のように続きます。
|
[4-2] 難しかった「萩焼」からの「二人申請」のこと |
▼ 正当な評価≠されていなかった「萩焼」 白石氏の『萩焼人国記』に、
萩出身の日本画家、楢崎鉄香は、十八年発行の著書「はぎやき」の中で、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」と休和をたたえた。 とあるのはまあ、いいでしょう。 (まあ、いいでしょう≠ニいう理由は、「休和物語」のおかしさ≠フ指摘をした「頁」でふれています。ただ、簡単に述べておくと、感がある≠ニいう続きの部分を省略してしまっていることと、楢崎氏が評価≠フ根拠≠フ一つとしておられる「陶芸技術保存の制度」により指定されたのは、[第1回=坂倉・坂・三輪の3窯]、[第2回=吉賀・田原の2窯]の計5窯あるということと、1回目の3人については、それぞれ讃えられており=A休和氏一人が評価されているわけではないということはここでも述べておきます。) 鉄香氏の個人的見解≠ナあり、「萩」をよく知っている人の評価≠ナあるからです。 しかし、この後続けられた 同じ年に萩を訪れた東洋陶磁研究の大家、小山冨士夫も、休和と十二代坂倉新兵衛(山口県長門市、一八八一 ― 一九六〇)とを、「今日の作家としてなかなかの上手」(「日本の陶磁」)と評している。 と、部分≠セけを抜き出し、あたかも小山先生が、二人をほめている∞評価≠オておられるかのようにあるのは、おかしいことです。 私は、これは、文脈≠読み違えた誤読≠ナあり、この一文こそ、「萩焼」の力≠ェ認められていなかった証拠≠セと断言します。 私は、その白石氏の証拠≠ニしてあげている『書物』こそ、白石氏の意図とは逆≠ノ、「萩焼」が認められていなかったことの証拠≠セということを言いたいと思います。 当然、「朝日新聞」の「広報部」へ伝えてありますし、当時の箱島社長宛にだした「書留」でも指摘しています。 最難関≠フ大学のそれも「法学部」を出て、さらに一流紙=u朝日新聞」の文化部のエリート記者である白石氏に、一介の田舎教師≠フ私が誤読≠セというのですから、血相を変えて#ス論してくるかと思っていましたが、「広報部」の「回答」はまったく一字すら触れていませんし、白石氏個人からの私へのアプローチも一切ありません。 その朝日新聞社刊の『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』」の「古萩の歴史と特質」の原文≠次の「リンク」で見てください。 小山先生の「古萩の歴史と特質」
↑ この「ページ」は、今日、[Yahoo]や[Google]の「検索」で容易に検索できる「位置」にあるのみならず、小山先生関係の物に、多く引かれています。 ぜひ、「確認」してみていただきたいと思います。 むろん、いろんな形での「萩焼」の評価≠ヘあったでしょう。 楢崎氏の「萩焼の陶工」の評価≠フ裏付け≠ニもなっている、戦前の「技術保存法」による指定などは代表的なものです。 しかし、それは「萩焼」に限っても、[5人]の認定があり、数が多すぎ≠ト、中央≠ナの認知≠ニは言えないものだったのです。 「工芸技術保存資格者」について
↑ この「資格者」が誰であるかさえ、「確認」していない「萩焼」の研究者が多いというのが、哀しい=u山口県」の実態≠ネのです。 (参考) 「会長賞(事実≠ヘ新聞社賞)」は「記録選択」の前提≠ヘ間違い! 昭和30年の「全日本産業工芸展」において「会長賞」を受賞し、そのことが「記録選択」の前提≠ノなったとかなりの書籍において書いていますが、少なくとも、「記録選択」の前提≠ノなったということは事実≠ナはありません。 それに、この「会長賞受賞」なるものに私は大いに疑問を持っています。 この「会長賞」情報は、河野良輔氏も書いていますが、その根拠≠ノついては、榎本徹氏が「休和遺作展」における『図説』の中で、 「昭和三二年三月と八月にはさまれて、自筆の履歴書がとじこまれている。昭和三四年の記述まであるので、おそらく三五年に作成されたものであろう。その前半は以下のとおりである。」として、 縣立萩中学校卒業 ・・・・ 一、昭和三十年九月全日本産業工芸展(丸技作家限定作品展) ニ於テ會長賞ニ刷毛目抹茶碗入賞 (個人受賞最高位) ・・・ と書いているのがそれのようです。 しかし、本当に休和氏の自筆≠ネのでしょうか。 第一、この自筆の履歴書≠フ書き出しは、縣立萩中学校卒業≠ナ始まっていると、榎本氏は書いているのです。 しかし、休和氏は、家業を継ぐために、「中退」させられることで、「陶芸」の道に入られたことは、周知≠フことのはずです。 それに、英男のもとに残る休和氏の「はがき」も参考になるはずです。 繰り返すことになりますが、「リンク」をさせておきます。 「はがき」の文面からして、「昭和30年の入賞=vは「会長賞」ではないと私は思います。 「はがき」は、[昭和31年10月3日付]で、「第3回 日本伝統工芸展」における「入選」の速報≠知らせてこられたものですが、この中に、 (旧丸技作品展昨年小生入賞の分)に於て本年も塩筒茶碗の新聞社賞(七名)中に入賞 とあることがおわかりだと思います。 (旧丸技作品展昨年小生入賞の分)とあり、本年も塩筒茶碗の新聞社賞(七名)中に入賞≠ニ休和氏は書いておられるのですから、昨年の賞は、「会長賞=最高賞」ではなかったと思うのが自然≠ナはないでしょうか。 「昨年=昭和30年」が「会長賞」だったのなら、(昨年の会長賞に続き、本年も「新聞社賞」ではあったものの七名中に入賞)とでも書かれたのではないでしょうか。 「抹茶茶碗」は、どうしても大賞≠フ候補にはなりにくいのも、そう考える理由です。 ただ、言っておきたいことは、たとえ何賞であったにせよ、英男が、休和氏を「指定申請」しようとしたこととは関係ありません。 第一、休和氏が後に提出した「重要無形文化財指定申請書」に、一言も触れられていないことも、「会長賞」なるものに疑問を持ちます。 それに、仮にそれが「会長賞」であったとしても、小山先生の「来県調査」要請にはなんの意味もなかったのです。 小山先生の「自費」による個人的な=u萩焼調査」という形≠ナ、実現した「来県調査」において、小山先生の目≠ナ、人間国宝相当≠ニ認められたというのが事実≠ネのです。 小山先生は、他人の評価≠ノ左右されるような方ではないのです。 |
▼ 「山口県指定文化財保存顕彰規程」のこと 北大路魯山人氏のように、「申請」しなくても推薦される陶工・陶芸家がおられるかと思えば、「申請」しようとしても、なかなか受け付けてもらえない
―─地方窯≠艪ヲの不運ということでしょうか。 「指定申請」のための調査は、いわば全国大会≠ヨの出場≠フようなものですから、レベルの高さが知られている≠アとが必要でした。 「山口県」では、早くから「県条例」によって、「文化財」の保護をすべく、準備をしていたのですが、残念ながら、主として財政的事情から、実現の見込みがたたず、次善の策として、「教育委員会顕彰規程」という形での保護を用意しましたが、実際の所、大きなメリットがあるとはいえなかったのです。 なお、「条例」化が実現しない対策≠ニして、「顕彰規程」のようなものが、既に「他県」にもあったということです。
「萩焼」が「県段階」で価値がある≠アとは言うまでもありません。 しかし、財政的裏付け≠ェあるわけではなく、大きなメリット≠ェあるわけでもない「無形文化財」という形での「県指定」として、「萩焼」の中の特定の数人だけを「指定」することがよいかどうかも検討課題≠ナした。 (当然、「指定」となると、数が限られるのです。) なお、この「県段階」の指定には、原則として、権威者≠フ推薦≠ェ必要ということにしていました。 しかし、この「山口県指定文化財保存顕彰規程」が「成立」したのは、「昭和廿七年度」ではなく、「昭和29年2月9日」です。 従って、権威者に「推薦」していただくという機会もないママ、「無形文化財」制度は発効していたのです。 しかし、衰亡の虞≠ェあるからという条件≠フモトでの「申請」はしませんでした。 しかし、「昭和29年3月」に、旧「無形文化財」の人たちを紹介する「第一回無形文化財 日本伝統工芸展」が開催され、 技なるものが、具体的に%ゥ工・陶芸家の「作品」という形で公開≠ウれ、その「無形文化財」の方達は、衰亡の虞≠ニいう条件抜き≠ノ触れることなく=Aただ、傑出した技倆≠フ方々であり、「作品」であるという形でマスコミ≠ノ紹介されましたし、事実≠ニしても、実力者<oカリだったのです。 「山口県」としても、再検討≠キる必要に迫られました。 しかし、まもなく、旧「無形文化財」の衰亡の虞≠条件≠ニすることへの「疑問」が提起され、新「無形文化財」制度への見直し≠フ動きがでてきて、「山口県指定文化財保存顕彰規程」のできて間もない「昭和二十九年五月二十九日」法律第百三十一号をもつて文化財保護法の 一部を改正する法律が公布され七月一日から施行されることになりました。 そして、その「第一回目」の認定・指定が、「昭和30年2月15日」にありました。 真に実力≠フみが問われる「新制度」にあっては、もはや躊躇する必要はありませんでした。 「萩焼」が正当に評価≠ウれていなかった当時≠ノあっては、「山口県」にとって≠ナはなく、日本全体を見渡しても∞「萩焼」が優れている≠アとを認知≠オてもらうためには、「萩焼」への「国指定」によるお墨付き≠ヘ有効な手段≠セったのです。 英男は、時間を見つけては各「窯元」を巡り、「作品」を検討していました。 (無論、「目的」は秘したままです。なお、当時の仕事の範囲は広く、とても、「陶芸」関係に割く時間は限られていました。) 従って、推薦の候補≠ヘ、ほぼ決まっていました。 「昭和29年」に始まったばかりの「顕彰規程」制度であり、衰亡の恐れ≠ニいう条件≠フゆえに、足踏みしていたこともあって、新「無形文化財」制度のもとで、一気に「国指定」にしていただくべく、「昭和30年」の秋の終わり頃には、「文化財保護委員会」における担当技官であったというだけでなく、「新・旧無形文化財制度」の「陶芸」関係の事実上の責任者≠ナあった小山冨士夫先生の「来県調査」を打診したのです。 しかし、なかなか実現しませんでした。 当時は、「旧無形文化財指定者」を優先的に検討されていた上に、繰り返しますが、中央≠ノ萩焼がその力を評価されていなかったからです。 しかも、「萩焼」から「二人同時申請」をしようとしていたのです。 |
▼ 難しかった¥ャ山先生の「来県調査」 「昭和30年」の終わりには、「萩焼からの二人同時申請」ということで、小山先生に「来県調査」のお願い≠しながらも、なかなか実現しなかったのは、この認められている≠ニは言い難かった「萩焼」から、二人同時申請≠ニいうことが大きな理由でした。
「佐賀県」では、旧「無形文化財」として「今泉今右衛門」氏が認定されていましたが、「昭和29年度」には、「酒井田柿右衛門」、「中里無庵」氏が「記録選択」に認定されていました。(旧「無形文化財」の今泉氏はまだ未定≠ナした。) 従って、少なくとも、「申請」については、「文面」にあるだけでなく、実際に、複数≠ヘありえたのです。 「萩焼」の場合も、12代坂倉新兵衛氏と休和氏とでは、同じ「萩焼」とはいえ、作風≠ノ違いがあったのも「二人申請」をするにはいいことでした。 ただ、当然、「佐賀県」の場合ほど大きな相違≠ェあるとは言えませんが。 しかし、「萩焼」の場合、山口の田舎ではともかく、中央では、認められていたとは言い難かったのが現実でした。 (田舎≠ニいう点では、「佐賀県」もたいしてかわらないと思うのですが、・・・。しかし、「唐津焼」は、「一楽・二萩・三唐津」といわれながらも、「平凡社」の『陶器全集』では、単独≠ナ一冊が編集されているのは既に述べた通りです。) こうした当時≠フ「萩焼」に対する評価≠フもとでは、「萩焼」から「重要無形文化財 (人間国宝)」として「申請」するのは、せいぜい1人≠ニいうのが常識でした。 一人≠ネら、もし、ダメであっても、ダメと言えます。 しかし、二人≠いわば中央審査(最高権威者=小山先生を「指定申請」を前提にして招くと言うことはそういうことです。)に出しながら、二人ともダメ≠ニはいえないということでしょう。 従って、「二人申請」を決意≠オたものの、その道≠ヘ至難なことでした。 |
▼ 取り下げなかった=u山口県」 「顕彰規程」には、予算的裏付けがほとんどなかったため、あまり効果的≠ネものとはいえなかったのですが (ただ、結果的に℃O輪休和氏の場合は、隣家からの出水で窯場が毀れたのを修理するのに、補助金がでていますが、特例%Iなものです)、「顕彰規程」の施行が「昭和29年2月」と、改正された実力本位≠フ「重要無形文化財」制度 (この「人間国宝」という呼称は、正式なものではなく、一般的になるのは、後のことです) の発足と間がないということで、「萩焼」は、一気に国段階≠フ指定をめざしたのです。 既述のように、「県段階」の指定にも、原則として、権威者≠フお墨付き≠ェ必要ということにしていましたが、「国指定」には、何としても、最高権威≠ナある小山先生による「来県調査」が必要でした。 しかし、小山先生は、なかなか「来県調査」のことは了承してくださいませんでした。 「小山先生」の「来県調査」ということは、言ってみれば、厳しい「予選」を経ての「中央審査」ということです。 高校野球で言えば、「甲子園大会」のようなものです。 「一人」だけなら、見送り≠烽り得ますが、「二人も中央審査」して、二人とも駄目≠ニいうのは、小山先生ならずとも、気が進まれないのは当然のことなのです。 「前もって、作品を東京へ持って行って見てもらえばよかったのではないか」という考えもあるかも知れませんが、当時は、東京に行くにも一日仕事であり、それも、「寝台」は贅沢で認められるはずはなく、三等座席≠ノ座ったまま朝を迎えるといった状態での出張≠ナは、管理の点≠ナも、物理的≠ノも、せいぜい1・2点の「作品」を東京に持っていくというのが関の山≠ニいった時代でのことです。 (係長£度の地方公務員は無論のこと、「文化財保護委員会」から専門技官をお招きするにも、「寝台は贅沢だとしても、せめて特二(リクライニングのできる座席)くらいには乗れるようにしてほしい」と強く要望されるような時代なのです。〈「山口県指定文化財保存顕彰規程」 参照〉) さて、元に戻りましょう。 「山口県」としては、「二人同時申請」ということから引きませんでした。 「二人申請」の線をくずさないまま進んだのは、はっきり言って、
A 「佐賀県」において「二つの窯元」が記録選択≠ニは言え、「昭和29年度」において認定されていたこと (旧「無形文化財」の今泉今右衛門氏も、遅かれ早かれ、何らかの形で認定≠ウれるのは間違いないと思われました。) B それに、英男が田舎窯=u戸田焼」の生まれであったことから、何かにつけて、小山先生に教えを受けてきており、口幅ったい言い方ながら、どの程度かはわかりませんが、小山先生に認められていたということがあります。 かくして、根負け≠ニいう形で、ついでを利用して「自費」で、立ち寄る≠ニいう形で「来県調査」が実現したのです。 (小山先生の「手紙」に六月二日以来福井、京都、熊本、佐賀、山口県と長い旅をつづけ十五日無事帰宅≠ニあるように、まさについで≠利用しての調査だったのです。 二人とも不十分≠ニいう可能性≠燗桝R、予測されていたのでしょう。) 新兵衛氏、休和氏の力が傑出したものであることを認めた人物は、英男の他にも県内には何人かおられたでしょう。 しかし、既述のように、小山先生を初めとする中央の権威≠フ方々には、「萩焼」は、決して優れた物・魅力を持つ作品≠ニは思っていただいてはいなかったのです。 小山先生がかつて見られた「萩焼」も、「十余年」の隔たりで、格段の進歩≠見せていたのですが、小山先生は、戦前の印象を引きずっておられ、その後も、残念ながら、「萩焼」への印象を変えていただくような機会(例えば、新兵衛氏は戦後も「高島屋」での個展を開いておられたが、見に行かれてはいなかった)を持っていただけないでいました。 |
▼休雪白≠ヘ、「指定申請」時の副産物 休雪白≠ネる語についても触れておきましょう。 白石氏は、 休和芸術の代名詞として、すっかり定着した「休雪白」。もっとも、昭和三十年代に入って世間が使い始めたこの言葉を、休和自身は初め知らなかった。 と記しているだけでなく、素晴らしい?$яェすら記しています。 確かに、休雪白≠ニいう言葉は、休和氏の言い出した言葉ではありません。自ら言ったとしたら、むしろおかしいでしょう。しかし、休和自身は初め知らなかった≠ヘおかしい。 「毎日新聞」=『閑話対談』/職人に徹したい(3)/緑はゆる休雪白」 〈昭和四十二年 五月九日〉(聞き手・西部本社編集委員 河谷日出男) の中に、こんな記述があります。
この中の東京で伝統工芸展というのがあることを、それまで県が知らず、≠ニいう書き方≠ヘ間違い≠ナ、おそらく、
「(この昭和31年秋に)東京(三越)で行われる『第3回日本伝統工芸展』(が、推薦≠ノよって応募が可能になるということ)を県の担当者(もまだ正式発表前であっため)知らず(、小山先生が6月の段階で教えてくださり、かつ、推薦してくださることになって)」と休和氏は言ったハズなのですが、「毎日新聞」の方で抜かした≠フだと思っています。 (「毎日新聞西部本社」にも確かめましたが、休和氏が言ったのをそのまま書いた可能性の方が強いと言っていました。どちらが間違い≠ゥは確かめようがありません。) 別の箇所で述べていますが、旧「無形文化財」だけを対象とした「第一回日本伝統工芸展」への出展ができないのは当然としても、「日本工芸会」のメンバー≠ニして誘ってもらっていなかった「萩焼」ですから、 「第2回日本工芸展」への応募もできなかったのです。 従って、「伝統工芸展」があることを「県」が知っていようが知らないだろうが*竭閧ノならないのです。ましてや、英男は、「第一回 日本伝統工芸展」に個人的≠ノ、行っているのですから、知らないわけはないのです。 「第2回」以後、「日本工芸会」が主催となった「日本伝統工芸展」ですが、「第3回伝統工芸展」において、公募≠ノ踏み切ったわけではなく、「理事」又は「日本工芸会正会員」がこの人はと思う人だけに、応募≠フ「機会」を与えようというワケですから、当然=A「6月」の時点では、秋の「工芸展」の「要項」を発表しているはずがありません。 現在の完全な公募展≠ナも、私が「募集要項」を取り寄せたのは「8月」でした。 (但し、土いじりはほんの少しかじっていますが、当然、応募≠ヘしていません。「資料」として取り寄せたのです。) いかに、この休和氏≠ェ語ったという「毎日新聞」の記述≠ェおかしいかがわかってもらえると思います。 肝心なのは、「第3回日本伝統工芸展」においては、「工芸会員」でなくても応募≠ナきるようになると言った情報≠ニ、応募≠フために必要な「推薦」を理事≠ナある小山先生がしてくださることになったということです。 絶対にありえないことですが、もし、万一休和氏が言ったとしたら、むしろ、例の川喜多半泥子氏の「からひね会」での仲間≠ナある荒川豊蔵・金重陶陽両氏から、休和氏に、「日本工芸会」への参加の勧めがなかったことをいうべきだと思います。 このように、間違い≠フある「新聞記事」の中から、都合のいい箇所を引用≠キることには、抵抗≠ェあるのは事実ですが、 この中の、 県の指定を受けたときに、解説に休雪白と書いてあった。それから秘法のように一般にいわれ、広まりました。 というのは参考≠ノなります。 ここにあるように県の指定を受けたときの解説≠ノ書かれていたのではなく、「国指定」を視野≠ノおいてのものでしたから、「重要無形文化財指定申請書」が「県指定」段階でも用いられたわけで、その「重要無形文化財指定申請書」にあったのです。(このことは、別の「休和物語」の誤り≠指摘した頁に詳しく述べています。)
そして、それには、こんな裏話≠ェあります。 蛇足的ですが、「休雪白」という呼び名≠ヘ、この「二人申請」をお願いする時に、なんとしても「来県調査」をしていただくべく、英男が、休雪(当時は、十代 休雪でしたので)氏の特色≠フ一つとして、休雪氏特有の白釉≠セと主張したのに際し、小山先生が「休雪白≠チてわけか」とおっしゃったのが最初です。 白石氏は、山口県の無形文化財萩焼保持者になったのを報ずる三十一年当時の各新聞記事には、休雪白の一言もない。≠ニ書いていますが、当時の「新聞」は、今日と異なり、紙面が限られていた(「社会面」のページを俗に三面記事≠ニいいますが、今日の「新聞」の厚さ≠ゥらは違和感≠オか感じないと思います)ため、「県指定」の扱いは今日では考えられないほど、ささやかなものでした。 のみならず、白石氏の属する「朝日新聞」は、記事にすらしていなかったと思います。 (父の「切り抜き帳」にないだけでなく、今日、「図書館」で調べてみても、私には見つかりませんでした。) ただ、「西日本新聞」・「中国新聞」・「防長新聞」が比較的大きく紙面を割いてくれていますが、三輪氏はやわらかい形と色に個性を出している。≠ニ記述しているにすぎません。 もし、色≠フ説明をしなかったとしたら、常識的に言って、「色に個性と言うが、どんな色か」と尋ねられるはずです。 その質問がなかったのは、英男がその時、「休雪白≠ニいってもいい独特の暖かみのある白色」と言っていたからだといいます。 しかし、といってもいい≠ニいう語を伴っていたため、新聞記者は書かなかったのでしょう。 しかし、『重要無形文化財指定申請書』を書いた人物は、この言葉を積極的に採用して、世上、休雪白と称するに至りて≠ニ記したのみならず、倣るもの多く≠ニまで書いています。 小山先生の「来県調査」後、わずか二ヶ月足らずで、しかも「マスコミ」の報じない中で世上、休雪白と称する≠ノ至るわけはなく、この執筆者の機転だろうと思います。 (ただ、ラジオがどう報道したかは、わかりません。いまでも覚えていますが、当時防府にあったΝΗΚのアナウンサー (確か、アンラク≠ウんといったと思います)が直接、話を聞きたいとして訪れてきました。小学生だった私は、そのことでなんとなく誇らしげに思ったことを覚えています。その時も、休雪白ともいうべき≠ニ言っていたように思います。ただ、その「取材」に基づいた「放送」がいつなされたものか、わが家の誰も聞いていませんので、実際≠ノどう「放送」されたかはわかりません。) 休雪白≠ネる言葉は、小山先生が言い出され、英男が仲介し、『申請書』作成者の機転があって、定着したということだと理解しています。 (この「休雪白」という言葉について、もっとも、昭和三十年代に入って世間が使い始めたこの言葉を、休和自身は初め知らなかった。≠ニ、三輪家≠フ人が言うのなら、一種の宣伝的エピソード≠ニして許されるでしょうが、『申請書』にも載せられているにもかかわらず、その資料 (英男は、提出した『重要無形文化財指定申請書』と同じものを手元に持っています) を見ることさえ拒絶しておいて、素晴らしい?$яェ=当代の茶碗の名手を指して、一時は「東の荒川(豊蔵)、西の三輪(休和)」と言ったように、個展などの歌い文句だろうか。それとも、白砂糖をさらに精製、脱色した純白の砂糖である「三盆白」からの、類推かも知れない。とするのは、おかしいとは思われませんか。 「推測」は、事実≠ェわからない時にこそ意味を持つものだと私は理解しています。 先日(平成19年8月1日)、京都の古美術商の方にお聞きしたことですが、市場価格≠ニしては、三輪休和氏の「作品」は休雪白≠ニいう釉薬を使っているか否かで、倍近い∴痰「があるとのことでした。 こうなると、この休雪白≠ネる呼称≠焉A問題があります。休雪白≠ナないものも、どこまでも、個々の「作品」についての妥当な評価≠ェほしいものです。 |
▼ 自費でという小山先生の好意≠ナ実現 昭和31年6月、自費≠ナ、ついでに=A行くだけはいってやろうという、小山先生の好意≠ノよって小山先生の「来県調査」が実現しました。
このついで≠ノしても、小山先生の「手紙」にあるように、実は、「六月二日以来福井、京都、熊本、佐賀、山口県と長い旅をつづけ十五日(帰宅)」という長い旅≠フ中のことで、「萩焼」の調査≠ノは、重きを置いておられなかったことがわかると思います。 ただ、これが、「一人申請」だったら、もっと事はスムーズに運んだと思われます。 事実=A小山先生は、それ以前の交渉の過程で、「二人とも駄目という場合、君は立場上、困ることになるよ」と、一人に絞る≠アとを、口にされていたと言います。 この「二人申請」を譲らなかったことで、高齢≠セった新兵衛氏が不満≠ヘ持っておられたであろうことは想像に難くありません。 しかし、口には出されなかったのは勿論、表情にも著されたことはないと言います。 それなのに、「休和物語」においては、二人が∞同じ「記録選択」であったことから、わざわざ新兵衛氏と比較して、「人間国宝」へは、平凡≠ネ新兵衛を休和より先に≠オたいという動き≠ェあったと、勝手に想定して、新兵衛氏を貶めている≠フです。 仮に、父が無難≠ノ、新兵衛氏一人を申請していたなら、結果的に「記録選択」に留まったとはいえ、白石氏にも、当然=A三輪休和氏に先立つ功労者≠ニして評価されたはずです。 それだけに、父に取っては、白石氏の、とんでもない記述は、心痛めるものだったのです。 私がこうして、私にとっては莫大な調査費用と、多くの時間をかけて、この「萩焼の歴史」を正そうとするのは、この父の思いをかなえたいからなのです。 担当者が努力するのは当然≠フことであって、本来なら黙しておくべき≠アとでしょうが、この「白石記述」がおおやけ≠ノさせたとも言えるのです。 それに、直接、白石明彦氏、河野良輔氏、榎本徹氏らにあたりながらも、おそらく、名もなきものの主張≠ネど、世間に注目されるはずはないと思われたのでしょう、「訂正」どころか、誤り≠フ再生産がなされてきたわけですが、今日、このようにして、「インターネット」を通じて、多くの人々に直接¢iえることができるようになったことはありがたいことです。 しかも、この[HOMEPAGE]においては、資料・証拠≠直接℃ヲすことができるのですから。 |
[5] もし、あのとき、「二人申請」をしていなかったとしたら・・・ |
もしも、「萩焼の指定申請」をしていなかったら、「萩焼」の歩み≠ヘどうなったでしょうか。 少なくとも、お二人の「日本伝統工芸展」への出展は、遅れていたハズです。 「理事」又は「工芸会正会員」の推せんによって、応募≠ナきると「発表」されたのは、昭和31年8月」です。 それから=A「正会員」のどなたかに「推薦」を御願いしなければならなかったのです。 従って、小山先生の「推薦」がなかったら、「日本伝統工芸展」への「出展」をするとしても、「昭和32年」以降ということになります。 しかし、12代坂倉新兵衛氏一人に絞って、「来県調査」を小山先生に御願いしていたら、おそらく、小山先生は、「来県調査」をされることを了承されたと思います。
ですから、小山先生に認められ、「国指定無形文化財」に「認定」されて、その技≠フ公開≠フ「場」としての「日本伝統工芸展」に出展ということになったでしょう。 しかし、これとて、「国指定」への「指定申請」をしたがゆえのことです。 もしも、この「国指定」のことがなかったら、新兵衛氏は、「日本伝統工芸展」には、決して、「応募」はされなかったと、私は思います。 天下≠フ「萩焼」の第一人者が、「審査」される、しかも、そのレベルは今日とは比較にならないくらい高い<純Pですから。 評価には、主観がつきものです。 br>しっかりした技がありながら、「工芸会」の結成には、誘われなかったということ、そして、当然=A「正会員」相当以上の力があるのです。年齢からして、もはや「日本伝統工芸展」という舞台≠、「利用」しようということは、避けられた可能性もあると、私は思います。 「第三回日本伝統工芸展」への「出展」は、小山先生のお墨付き≠フモト、「指定」の前≠ノ、力≠示しておくようにというお勧めがあったカラです。 そして、当然≠フように、お二人は、「2作品」を応募され、「2作品」とも「入選」したのみならず、「入選作品」にも差≠ェあることを伺わせる『図録』において「人間国宝」の方々と並べられているのです。 (ただ、「人間国宝」ではない、若い=u陶芸作家」=清水卯一氏の「作品」もありますが、既に、清水氏が認められていたということです。 『第三回工芸展図録』の「清水氏の作品が2頁目に載っている意味=vを御覧ください。
「記録選択」への「認定」を受けて、新兵衛氏・三輪休和氏が、「正会員」になられたのが「昭和32年」。 そこからは、「正会員」となった新兵衛氏・休和氏の「推薦」によって、「萩焼」からの、「日本伝統工芸展」への応募≠ェ可能になったワケですが、事実≠ニして、お二人∴ネ外は、休和氏の「弟」の壽雪(節夫氏。当時の雅号は休)氏が「応募」されただけです。 (壽雪氏は、「入選」されたのみならず、休和氏の影響≠フ強い「平鉢セット」とはいえ、「奨励賞」の候補になっておられます。 なお、既に、十分な力≠ェあると思われた坂倉治平=14代新兵衛氏の「応募」は、「公募」制になって以後のことです。) 三輪休和氏の場合は、友人である荒川豊蔵氏もしくは、金重陶陽氏に、「推薦」してくれるよう依頼しての応募≠ニいうことも可能性≠ニしたはあったと思います。 しかし、この友人≠ノよる、もしくは、新兵衛氏による「推薦」で、応募≠ウれたでしょうか。 いずれにせよ、もし仮に日本伝統工芸展がなかったならば、休和も、結果的には萩焼も、日の目を見られなかったのではないだろうか。という書き方は滑稽≠ネものとしか言いようがありません。 なお、「昭和31年」=「第3回 日本伝統工芸展」への「出展」をされておらず、「記録選択」というお墨付き≠ェなかったら、休和氏ほどの力≠ェあっても、入選回数4回という基準≠ノよらないで、「正会員」に推挙されたかどうかは疑問です。 「昭和32年」に、特例%Iに、5人が「正会員」になられており、以後は、「原則」に従った可能性があるからです。 次≠ノ、「記録選択」でなかったとしたら、どうだったでしょう。 この「記録選択」を評価≠ウれない方もありますが、当時≠フ「記録選択」として「認定」された方々の多くは、「人間国宝」にと、「申請」したケースです。 事実≠ニして、「人間国宝」に、新たに「認定」された陶芸家の方は、「記録選択」からの昇格でした。 私は、藤島亥治郎博士の言葉をヒント≠ノ、この「記録選択」は「人間国宝」候補≠フプール≠ナあったと思っています。 そして、このプール≠ネる考えは、鈴木健二氏に肯定≠オていただいています。 私は、この「記録選択」という立場≠ヘ、否応なく、プライド≠ニプレッシャー≠フ狭間で、「日本伝統工芸展」を発展する原動力≠ノなったと思っています。 「日本伝統工芸展」は、「人間国宝」が無審査であったのに対して、「記録選択」の方々は、審査を経るようになっていました。 しかも、「第七回展」からは、公募≠ニなったこととて、意欲的な「作品」が、次々と、応募されてきたのです。
小山先生との話から、少なくとも、父はそう認識していましたから、三輪休和氏も、そうした方向≠ナ精進してくださいました。 もともと=A三輪休和氏は、「人間国宝」になることには、大して意味を持っておられなかったのです。 それが、他の「陶芸地」では、休和氏の「世代」が既に=A中心となっており、かつ、「無形文化財」の認定に名乗りをあげているという現実のモト、「萩焼」のためにと、「指定申請」をすることを了承してくださったのです。 12代坂倉新兵衛氏は、「昭和35年12月」に亡くなっていますが、もしも、あの時、「同時申請」に踏み切っていなかったとしたら、父の「後任者」が、新兵衛氏に代わる「記録選択」の「申請」をされたでしょうか。 旧「無形文化財」の方たちが基準と思われた、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への二人≠フ「同時指定申請」でしたが、 厳選≠ウれた「人間国宝」の方たち=富本憲吉、荒川豊蔵、石黒宗麿、浜田庄司の4氏に新たな金重陶陽氏と「比較」した時、残念ながら、 三輪休和氏をしても、「人間国宝」への「同時申請」をしていなかったら、ほぼ、確実に、休和氏は、「日本伝統工芸展」への「出展」は、遅れていたハズ(少なくとも、「昭和31年」の「第3回展」での「出展」はあり得ません)で、従来≠フ、技≠ノよる「作陶」を続けられていたでしょうから、 「昭和36年」時点での「人間国宝」への「指定申請」は、見送られた♂ツ能性があります。 かといって、「記録選択」にという「指定申請」も、まずされなかったハズです。 まして、父=英男の転出後、事実≠ニして、「陶芸」に詳しい方はありませんでした。とても、「陶芸」に詳しいというダケで勤まるような「仕事」ではないからです。 (「山口県」として、「陶芸」がわかるということで採用されたのは、「山口県立美術館」の開設に伴って採用された榎本徹氏が最初です。 そして、その枠≠ヘ榎本氏ダケで一杯という状態がかなりの期間、続いたのです。) 休和氏が、「日本伝統工芸展」への応募を重ねられ、計4回の「入選」ということで、「日本工芸会正会員」になられることは、間違いなく、その方が、精神的重圧はなかったと思いますが、 単に=u工芸展」の「入選」を重ねたダケでは、「後援会」も、おそらく、作られなかったハズです。 「後援会」は、競うに足る、少数≠フ=高価≠ネ「作品」を受け入れますよというためのものだったのですから。 三輪休和氏も、当然=A「人間国宝」に「萩焼」が「指定・認定」されることが「目的」であるワケですから、「志野茶碗と覇を競う」という決意を述べておられるのです。 それには、日本経済の驚異的な発展による高価≠ネ「作品」をも受け入れる「社会」と「大量生産」に反比例するかのごとく、高まってきた個性=E意匠性=E芸術性を要請したという風潮≠煢e響しています。 この競うことが、今少し、遅かったらどうだったでしょうか。 技≠フ鍛錬、用≠ノふさわしい「作品」ということから、ある種のカルチャーショック的な展開を強制されるかのような流れがありました。 このカルチャーショック≠克服するには、時が必要です。 ところで、現実≠フ問題として、私のいうように、枠があったとしたら、中里無庵氏との前後が「問題」になります。 「人間国宝」は、現代進行形≠フ技≠ノ対しての「認定」ですから、「昭和45年」と「昭和51年」とが逆であったら、 三輪休和氏の場合、健康の面から、あれほどの精進・ひたむきな営みがありながら、「人間国宝」として「認定」されなかった可能性があるのてす。 (「休和物語」(214頁)には、休和氏は、昭和45年の秋には、二ヶ月の入院をされ、「昭和47年」頃からは、思うような「作品」ができなくなっておられたとあります。) 「昭和29(1954)年度」の荒川豊蔵、石黒宗麿、富本憲吉、浜田庄司の4氏≠ノ、 「昭和30(1955)年度」の金重陶陽氏が加わって5人という「人間国宝」に、 昭和12(1937)年、「パリ万国博覧会」での「グランプリ」受賞、昭和30(1955)年、「東京芸術大学」の初代「陶芸家主任教授」といったように力≠誰からも認められていたにもかかわらず、 「昭和31(1956)年度」には、「記録選択」としての「認定」(「萩焼」の二人や、今泉今右衛門氏、加藤唐九郎氏、宇野宗甕氏などと一緒)であった加藤土師萌氏が、 5年の経過≠フ後、昭和36(1961)年度に、最初≠フ「記録選択」から「人間国宝」に昇格≠ウれたものの、以後、 結果的≠ノ、9年ものあいだ、「追加」の「認定」がなかった「人間国宝」です。 その間、個性=E意匠性=E芸術性≠要請する風潮≠フモト、互いに、競い合ってきたのです。 「昭和29年度」「記録選択」として評価≠ウれていた中里無庵氏を追う、もしくは、追い越すには、「昭和31年」の意を決して≠フ出発は、ギリギリであって、これ以上の遅れは許されなかったと思うのです。 (休和氏の「日本伝統工芸展」への「出展」は、「指定申請」と不可分≠ナあったことは、既に述べた通りです。) もともと、「萩焼」より高く評価されていた「唐津焼」ですし、生まれ≠燗ッじ年(明治8(1895)年)です。 この二人の差≠ヘそれほど大きなものではなかったと思いますが、「人間国宝」の「認定」には、6年の違いがあり、残念ながら、休和氏の方が後であったら、休和氏の御苦労は、肩書としては報われなかったであろうと思われるのです。 「人間国宝」の枠?≠ェ6人であったとしたら、2人になっていたのを、「昭和45年度」に、三輪休和氏と、金重陶陽氏にかわる「備前焼」の藤原 啓氏の2人≠ニ、「昭和46年度」に、今泉今右衛門、酒井田柿右衛門両氏が、(総合指定)という形≠フ「認定」がされて、その枠≠ェ充たされたため、 もう1人≠フ枠ができるまでに6年かかっているとも考えられ、無庵氏が「人間国宝」になられたのが「昭和51年」まで延びたのは、力≠フ「問題」ではないと思います。 従って、もし=A休和氏が遅れ≠トいれば、続いての「認定」が「昭和47年」までにあったとは思えないのです。 「弟」である壽雪氏のことばとして、(昭和47年以後は)休和にはすでに三十時間近い窯たきに耐える体力はなく、自分の窯たきという意識ももてなかった。(「休和物語」208頁3・4行目)と記していますが、いささか∞オーバー≠ネ気もしますが、本当≠ヘ、どうだったのでしょう。 休和氏が、「入院」されたことは事実≠ナすし、父=英男も、このころには、たまにしか休和氏をお訪ねしていませんので、壽雪氏が本当≠ノ、こう言われたとしたら、はたまた、河野良輔氏が白石氏がこうした「記述」をするに至る「証言」をされていたとしたら、 それを覆すことはできないのですが、いささか=u疑問」があることは確か≠ナす。 ただ、「昭和51年」における「人間国宝」の「認定」は、休和氏の「健康状態」からして、既に枠≠フ6は、充たされていますので、なされたかどうかに疑問があることは、述べた通りです。) 「作品」があるからいいではないかと言われる人もあるでしょう。 しかし、12代坂倉新兵衛氏でさえ、「作品」とは無関係≠ノ、とんでもない評価がされているのです。 三輪休和氏にしても、「指定申請」当時≠フ「作品」は、河野良輔氏には、十分な把握はされていないと、私は思います。 京都の「古美術商」の方によると、「もはや、美術館は飽和状態で、死蔵≠ウれている状態。 今後も芸術品≠ニして、進展して行くだろうが、昔と違い、作家寿命が長く、かつ、用≠ニして使用されず、戦争もまずないはずだから、膨大な量≠フ氾濫≠ニもいえなくはない。」とのことでした。 この「古美術商」の方の話はもいささかオーバー≠ゥとは思いますが、「作品」の数が膨大≠ナ、今後も増え続けていくことは明らか≠ナす。 今日、「人間国宝」であったか、なかったかダケが商業ベースの関係でしょう、問題とされ、「人間国宝」でなかったら、語られることは少ないという風潮≠ノあります。 今後、「人間国宝」の認定の数は、増していくのですから、その=u人間国宝」というダケでは、語られなくなってくる方も出てくることも考えられるのです。 早い話、「書籍」の場合、工夫≠オて「書名」をつけても、「パソコン」の検索にかからないでは、「図書館」は無論のこと、大きな=u書店」では、手にとってもらうことさえ難しいという現実・実態≠ェあるのです。 「陶芸」の場合も、人間国宝という検索≠ヘ、「作品」そのもの≠ノあたってもらえる要素になっているのです。
|
日の目≠見るチャンス≠ェ、ほとんどなかった田舎≠フ「窯」に、「無形文化財」制度の発足によって、そのチャンス≠ェ訪れたというのが、「陶芸史」の事実なのです。 のみならず、旧「無形文化財」を経ずに、「記録選択」を経て「人間国宝」に最初になられたのが三輪休和氏なのですから、その歩み≠ヘ、単に休和氏の問題ではなく、「陶芸史」語るには不可欠≠ネことです。 (12代坂倉新兵衛は「記録選択」としての発表のあった3年後に、「記録選択」のママ=A亡くなられています。) この「昭和29年・31年」の「記録選択」は、後のそれとは違い、「重要無形文化財(人間国宝)」の枠≠ェ少なかったためにプール≠フ形で設けられた、この時代特有のものといってよいと思います。 この「記録選択」の方達の置かれた立場≠ェ、「陶芸」の世界に、飛躍的な進歩≠促したという側面を忘れてはなるまいと思います。 同じように「法」の条文にうたわれた技術公開≠ニはいえ、「日本伝統工芸展」においては、「人間国宝」の人達は、無審査であったのに対し、「記録選択」の人達には審査≠ェあるというシステム≠ナあったということ、さらに、加藤土師萌氏以外は、10年以上、そのまま≠ノされ、「日本伝統工芸展」という場≠ナ、新しい陶工・陶芸家の挑戦を受け続けなければならないという状況≠ノあったからです。 プライド≠ニプレッシャー≠フもとで、精進することをいやおうなく、押しつけられた方達なのです。 (なお、加藤唐九郎氏は、「永仁の壷」事件で、候補≠降りておられます。) ── 「無形文化財(新・旧)」関係者についての一覧───────────────────── 昭和29年度=4人[荒川豊蔵(旧無形文化財)・石黒宗麿(旧無形文化財)+富本憲吉(新)・浜田庄司(新)] 昭和30年度〜35年度=5人[上の4人+金重陶陽(旧無形文化財)] 昭和36年度〜37年度=6人[上の5人+加藤土師萌(旧無形文化財で「記録選択」を経由)] ↑〈参考 34年12月 断り続けていた*k大路魯山人氏死去・〈参考〉35年12月 「記録選択」の新兵衛氏死去 〉 昭和38年度=5人(38年6月富本氏死去〈「記録選択」の柿右衛門氏死去〉) 昭和42年度=4人(42年11月陶陽氏死去) 〈[参考] 昭和41年11月、河井寛次郎氏死去〉 昭和43年度〜44年度= 2人 (43年6月 石黒氏・9月 土師萌氏死去) 昭和45年度=4人(休和氏(「記録選択」を経由)・藤原啓氏認定) 昭和46年度〜50年度=4人+総合指定2団体(今右衛門窯・柿右衛門窯)=6 昭和51年度=上の4人+無庵氏認定(「記録選択」を経由)+上の2団体=7 〈過去の枠≠ナあった6≠ェ7≠ノなるのに、「昭和46年」以後、5年≠ゥかっています。しかも、その増の一人≠ヘ、「昭和29年」に「記録選択」として認定された中里無庵氏です。 今日的≠ノ見ても、休和氏の後、5年≠烽ゥける必要はなく、枠∴ネ外の「理由」は、私には考えられません!
つまり、おりからの「高度成長」と機械化≠ノよる「大量生産」という時代などを背景として、この長く長くプール¥態におかれた「記録選択」の方達を中心≠ノして、飛躍的な展開≠ェ陶芸の世界になされたということだと私は思っています。 |
「関連」した「ページ」
重要無形文化財」=保持者としての「各個認定 俗称「人間国宝)」//「保持団体」としての認定//「総合認定」 について 「萩焼の歴史」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み ↑ この「ページ」は、「陶芸史」における典型≠ニしての「歩み」をした「萩焼」の「歩み」を述べています。
なお、「下」の≠クリック≠オてもこの「ページ」にリンクしています。 「文化財保護法」の当初≠フ「無形文化財」についていた条件 「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」? ↑ 藤島亥次郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。 「記録選択」の位置≠ 酒井田柿右衛門三代にみる 北大路魯山人氏と河井寛次郎氏=「人間国宝」を辞退した二人の陶工 残念ながら=A一流紙==u朝日新聞社」から絶対的な信頼≠得ている河野良輔氏の「資・史料」の調査、扱いには、少しばかり=A私には「疑問」があります。
『日本やきもの集成 9』の「周防のやきもの」の検討 ↑ 一流出版社==u平凡社」から出されている、我が家の「戸田焼」についての、河野良輔氏の「記述」です。 『日本工芸会山 口支部 40年(1958〜1997)のあゆみ』について ↑ 「日本工芸会山口支部」の発足%鮪桙ゥら、河野良輔氏が「担当」される迄の「記述」に「疑問」があります。 この中の再検討≠求める「理由」という箇所を御覧いただきたいと思います。 |
これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、15228でしたが、[平成23年3月3日]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。 従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります。 |