・赤 郷 地 区 の 各 所 紹 介

1。秋吉台
       皆様ご存じの秋吉台、秋は一面のススキの高原、春は石灰岩大地の現状を保全するため表層部を焼く、
       山焼きがあります。
       山焼きは毎年2月20日以降3月までに行われる年中行事で、秋吉台に隣接する集落の住民、各地からの
       ボランテイアによって、枯草に点火され一面に燃え広がります。この様子を見に来られる観光客も多いです
       が、山焼きが始まると台上への道路は封鎖されますので、事前の確認が必要です。山焼きの灰は周辺地域に
       降り注ぎますので、洗濯物等要注意です。黒くなった台のところどころに「あかなば」と言われるおいしい
       キノコも生えてきます。子供時分には楽しみの一つでした。
       山焼きの後、真っ黒な灰に覆いつくされた台上に新芽が芽吹き始めると、本格的な春です。その前に
       地元ではこの山焼きのあと一回は雪が降るといわれ、スタットレスタイヤはそれ以降に外す人が多いです。

         

2. 桂木山 
       赤郷の皆さんが昔から慣れ親しんできた山で、形は昔流行った自動コマをひっくり返したような独特の
       景観をしており、地元の人間なら誰でも知っています。
       赤郷小学校が存続していたころは、年に一回児童は父兄、関係者と登山をしていました。
       登山口は、赤郷から仙崎方面への道をいき、山中垰を超えた左側にあります。        

                        

3.八幡池 
      植畠地区の水田の給水ため池です。昔は3つの池があったのですが、現在は二つで主に下の八幡池が稲作りの
      水源に使われています。上の堤(大堤)は明和年間(1760年頃)庄屋白井政光が私財を投じて完成。下の
      堤(八幡池)は庄屋の溝部久右衛門が安政4年に完成させたと言われていて、二人をまつる水神様が二つの池
      の中央にあります。

      

                        

4.赤郷八幡宮
       御祭神は応身天皇で奈良時代の769年に宇佐神宮から勧請し不可思議な現象のあった現在の長生山の西側
      (佐山方面)に建立されたといわれております。その後2度の焼失をへて現在の地に明治26年に再建立され
       ました。
       このあたりは長州藩編纂の「防長風土注進案」という地誌に詳しく記載されているとのことです。
       境内は、ご存じの大鳥居(宮原東吾氏寄贈)と横にそびえる大杉に象徴され、向かって右手に木製の白馬、
       左に安永4年(1775年)奉納の梵鐘、神社の社には毛利の家紋が入っており、子供時代に相撲大会の
       記憶がある土俵が左奥に、現在は左手前の舞台観賞用の雨よけ場所として土俵も地面と同じ高さになって
       おります。

                              

5.赤郷小学校

        創立は明治6年と古く、私の祖父。父、私と3代にって通いました。地元のはとんどの方が同じだと
        思います。平成31年4月に惜しまれながら145年の歴史を閉じました。在校の子供たちは現在ドリーム
        レッドが大田小学校に送迎してます。木造の頃は二階に音楽室、正面に現在の人の馴染みが少ない
        二宮尊徳像があり、校舎横には忠魂碑がありました。
                                                

                        

6.二反田カキツバタ 
        皆さんがよくご存じの、二反田のカキツバタ自生地についてカキツバタを守る会が2000年7月に発足。
        現在、守る会の会員数は約50名で、発足当初は半分埋まった土砂のかき出しを行政に申請するなど
        ご苦労があったようです。
        現在の活動内容は11月終わりにため池内での草刈りと刈り取った草の搬出作業を行い、周辺の草刈りは
        都度実施。さらに余分な作業として、どこからか入り込む猪の掘った跡始末と掘り返されたカキツバタの
        捕植作業等々。そのために皆さんカキツバタの苗を自宅で育てておられます。
        カキツバタもそうですが、一緒に咲く純白なとき草も貴重な植物でここまで群生する場所は珍しいと学者
        の先生も言っているそうです、

                              

7.明治維新戦績跡
        明治維新発祥の地での大田絵堂の戦いの戦跡で、保守派の拠点の絵堂の柳井家の玉跡の残る門扉が飾って
        あります。


8.銭谷鋳銭所後
        徳川幕府の命で寛永通宝を作っていた場所ですが、鋳造中止の命令に従わず隠れて作っていたため、跡形
        もなく焼き払われたといわれています。現地にはこの火災を免れたと言われる樹齢300年のハゼの木が
        あります。